第1話 水の都・江戸

文字数 1,189文字

「世界の大都会の中でも、江戸はその地理的位置、気候、緑の豊かさ、多くの河川など、自然に最も恵まれた町のように思われる」(『幕末日本図会』江戸の橋より)

 1863年に、修好通商条約の締結を目的としたスイスの遣日使節団長として来日したエーメ・アンベールの言葉だ。アンベールは、約10ヶ月間の滞在中の見聞と集めた資料をもとに、日本の自然や歴史、政治制度、建造物、宗教、儀礼、社会の様子、風俗、習慣、慣習、日本の諸工業、日本の諸地域の風景やそこに住む庶民生活の様子などを、豊富な挿絵と卓越した文章力で欧米に紹介した。彼は言う。

「江戸にはどんなものにも、平和な調和とか、夢見るような諧調を妨げられない人々の動きや、足音や、人声や、歌や、音楽があるが、これと同じものをヨーロッパに求めると、ただアドリア海の女王(ヴェネツィアのこと)の岸辺と広場だけである。」(同書)

 今もって世界有数の美しい水都として世界遺産にも登録されているヴェネツィア。江戸の下町は、水辺とそこで展開される人々の営みによって、このヴェネツィアと並び称されるほどの魅力を誇っていたことがわかる。
 これを具体的な風景として知ることができるのが、歌川広重の画業の集大成として出版された『名所江戸百景』だ。119枚の竪絵(縦長の紙面に刷られた版画)のうち90枚に水辺とそこに居合わせた人々の営みが描かれている。日本の誇る絵画芸術であるとともに、いかに江戸の人々と水辺の関係が深かったかを知ることができる貴重な資料だ。

 こうした美しい水辺を形成する川や池の中には、もちろん自然の川や池もあるが、人工でできたものも多い。
 そもそも徳川家康が1590年に江戸に入ってから実行したことのひとつは、城下町や城づくりのための物資を城の入口に運び込むための道三掘と呼ばれる水路の開削と、隅田川の対岸に行徳の塩やその周辺でできる米・野菜などの生活必需品を運ぶための運河となる小名木川の造成だ。
 幕府を開いた家康は、江戸の町を拡張するため神田山を切り崩した土で日比谷入江を埋め立て、低湿地だった江戸前島に盛り土もして新たな商業地を造成する。さらに、江戸前島の東側の砂州を埋め立てることによっても町の拡張を図る。
 三十軒掘や八丁堀と呼ばれる運河は、この埋め立ての際に計画的に埋め残されてできたものだ。寛永年間(1624~44年)の初め頃には、縦横に走る掘割の両岸に数多くの河岸(かし)が設けられて、人々の営みが一層活況を呈するようになったという。
 明暦の大火(1657年)以後にも水路網の開発に拍車がかかる。
 米蔵や倉庫群の隅田川沿岸への移転を契機に、竪川、大横川が開削され、運河網が形成される。家光が将軍在職中のころには、日本橋・京橋周辺を中心に数十の水路や運河が張り巡らされていたという。このようにして「水の都」江戸・東京の礎が形成されていくのだ。
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