第6話

文字数 1,272文字

「出前に行ってたんだよ」

 社長ご一行が帰ってから、のんきに顔を出した父は、申し訳なさそうにボリボリと後ろ髪を掻いた。

「悪かった、急に注文が入っちまってなあ。ホラ。例の三人家族(常連客)のとこ。娘さんが熱出したってんで、買い物に行く暇もないから、ウチで出前頼もうって話になったんだってさ。いつも食べに来てもらってるし、断るのも悪いじゃんか」
「でも、今日来るって知ってたんでしょ?」
「すぐ戻るつもりだったんだ……悪かったなぁ」
 父は何度もそりゃ悪かったなぁ、悪いことしたなぁと繰り返した。

「電話番号くらい、聞いときゃよかったな。そしたら連絡取れたのに。なんせあの若いの、一方的に喋って帰っちまったもんだから。店内で待ってもらえたら良かったのになぁ」
「あの人たち、忙しそうだったよ。五分もしないうちに帰っちゃったし」

 なんと父は社長ご一行が来る直前、電話をもらい、出前に行っていたと言うのだ。沙織は呆れた。いくら注文を受けたからとはいえ、大切な商談を前に、すっぽかして出かける店主がどこにいるだろうか。そりゃ大成しないはずである。たかだかラーメン三杯分のために、今後全国で売れるおよそ数万杯をフイにしてしまったのだ。こんな儲け話は、きっと二度とないだろう。

「そりゃ残念なことしたなぁ」
 父はぼんやりと天井を見上げ、小さく眉をしかめた。

 社長は怒っていなかったが、午後の予定が詰まっているのか、あっという間に帰って行ってしまった。それよりも、周りの取り巻きたちが憤っていた。ちゃんと予約入れといたじゃないか。メンツを潰された。もう二度とこんな店には来ない……などと散々文句を言って帰って行った。怒るのも無理のない話だ。沙織は腰に手を当て、深くため息をついた。結局『山奥』は『山奥』のままだし、父も、普段の父のまま変わりなさそうだった。

「だけど俺にとっちゃ、客は客だ。家族連れだろうが、社長だろうが、な」
「何よ。またカッコつけちゃって」
「カッコつけちゃいねえよ。本当だ」
「全国チェーン、パァになっちゃったね」
「いいんだよ、最初からんなこたぁどうでも」
「ウソ」
「ウソじゃねえ。俺ぁただラーメン作って、目の前の客に美味いと言ってもらえりゃそれで良いんだ。例え客が人間だろうが、妖怪だろうが、な」

 父はやれやれ、と肩をすくめ、ため息とおならとゲップをほとんど同時にこなした。沙織は厨房へと向かう父の背中をしばらく見つめていたが、やがて堪えきれなくなって吹き出した。お金持ちになれなかったのは残念だったけど……正直言ってほんの少しだけ、胸のすく思いだった。

 それに……沙織は白いエプロンと花柄の頭巾に着替えながら、店内に出て行った。それに大きな夢は夢のまま霧散してしまったが、それでも小さな夢のつぼみが、今この『山奥』で確かに芽吹き始めているのだった。

「いらっしゃいませ。ご注文は?」
「ラーメン一杯ね! トッピングはフカヒレと、ウサギの肉と、後グリフォンの肉もあったらお願い」

 今日も今日とて陽が沈む。沙織は苦笑いを浮かべた。今夜も『山奥』は、何かと騒がしい。

《山奥・完》
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