第6話

文字数 3,234文字

「あなた方を、危険にさらしたのだとしたら、それは謝ります。だけど、俺はクガヒトなんだ。
 俺は、あなたの言う通り、親に守られて生きてきました。子どもの頃から髪も染めて、テサの民として生きてきた。
 だから、俺はこの髪の色を、惨めな先祖が遺した厄介な不運だと思っていました。俺は他のテサの子どもと何ら変わりないのに、ハルカのことはおろか、言葉すら知らないのに、髪が黒いというだけで、それを知られないために、細心の注意をはらって暮らさなければならない。周りの人間より勉強だってできるのに、髪の色が知れれば学院にはいられなくなる。
 だけど、偶然ハルカの文字を知って、ハルカの文字で書かれた書物を読んで、俺は思い違いをしていたってわかったんです。俺に流れているのは、戦に負けた惨めな先祖の血じゃなかった。
 ハルカの言葉が、どんなに美しい響きを持っているか知っていますか? ハルカの文字がどんなに複雑で美しいか。
 言葉は確かに、他人に意志を伝えるためのものです。テサの言葉はとても簡素で無駄がない。文字もとても合理的にできています。だからとても扱いやすく、誤解や齟齬を生みにくい、素晴らしい言葉です。
 反対にハルカの文字は複雑で、書くのも覚えるのも大変です。言い回しも複雑で、ものの名もとても多く、ひとつの物に対して幾つもの名がある。しかも、文章の流れによって言い換えなければならず、簡単には覚えられない。
 だけど、ハルカの言葉でしか書き表すことのできない表現があるんです。どうしたって、完全にはテサの言葉に訳すことはできない。
 ハルカの言葉は、伝えるためだけのものじゃないんです。ハルカの文字が記された竹簡の中で、古のクガヒトたちは、言葉を複雑に絡ませて遊び、楽しんでいました。そんなものを生み出す人たちが、ただの弱く劣った民だったとは思えない。
 ヘラが話してくれたクガヒトも、豊かな文化を持っていた。クガヒトは、テサに劣っていたわけじゃない。ただ戦に負けただけなんです。だから俺は、ハルカのことをもっと知りたい。俺は蟻じゃない。クガヒトなんだ!」
 サリイの言葉が途切れると、ガレは深々と息をついて煙草に火を付けた。
「負けは負けだ。お前がどんなにハルカを恋しがっても、クガヒトは、もう消えていく運命なんだよ」
 サリイが言い返そうと口を開きかけると、それを遮るようにガレはちちっと舌打ちをする。
「お前だって、髪は黒いが目は銀色だ。真っ当なクガヒトなら、俺と同じ夜空色の黒い目をしている。そういうことだよ、サリイ。お前がいくらハルカの言葉を研究しても、何か書き残したとしても、もうクガヒトは消えていくんだ。居留地も、そのうちにはなくなるだろう。ハルカの言葉を話す者も消え失せる。全部無駄なんだよ。
 お前の言うように、クガヒトが素晴らしい文化を持った人々だったとして、それが何になる。俺はそれを知りたいとは思わない。
 俺もヘラも、ろくに字が書けねえんだ。ハルカの文字を覚えるぐらいなら、テサの文字を覚えた方が百倍有益じゃないか。俺たちはもう、テサの民として生きて行くんだ。うまく混ざって生きて行けば、それでいいじゃないか。何が悪いんだ。戦もないし、豊かな国だ。
 それともなにか? 同志を集めてハルカを再興させようなんて考えているのか? これまで笑い合ってきた、テサの隣人に刃を向けて」
「そんなこと……」
 ガレはイスの背にもたれて、長々と煙を吐き出した。
「サリイ、お前はもうクロワに帰れ。礼だとか考えなくていい。クロワに戻って、そこでお前のやるべき仕事をしろ。金を稼いで、結婚でもして、子どもを育てて。俺たちのやるべきことは、それしかねえんだよ。過去のクガヒトがどうあったとしても、今の俺たちには関係の無いことだ。明日からどう生きて行くかが、俺たちの考えるべきことだ。俺たちはもう、テサの民なんだよ」

 サリイはガレが自室に戻ってからも、その場を動くことができなかった。
 言葉が足りない──
 悔しさにサリイはガツンと机を殴りつけた。
 ずっと言葉ばかりを追いかけてきたのに、人より多くの言葉を知っていたはずなのに、自分と同じクガヒトにさえ、伝えることができない。
 ハルカが恋しいのでも、ハルカの言葉を公用語にしたいのでもない。ただ、知りたかった。今となっては蔑まれるだけとなってしまった、黒い髪を持った人々が、昔はどんな風に生きていたのかを。
 そして何より、どんな言葉も失われるべきではないと、サリイはそう思うのだった。書き残された物があるのであればなおのこと。
 文字は、未来へ向けて書かれるものだ。語ることのできなかった言葉を文字にして、言葉を伝えたかった誰かに向けて、未来の自分へ向けて、文字はそこに書かれるのだ。時と共に消えて行くしかなかった音を、文字という形につなぎ止めて、未来へと。
 図書館でごみのように積まれていた竹簡も、古の誰かが、誰かに伝えようとして文字を記した。そしてそれを、サリイは受け取ったのだ。
 クシナでハルカの言葉は生きている、テサの言葉と文字があれば充分だとガレは言ったが、それは違うとサリイは思う。
 この大陸では、テサが侵入してくるまでは、文法も発音もほとんど同じ言葉と、共通の文字が使われていた。しかし、ハルカは言わば連合国のようになっていて、地域ごとに言い回しや単語、文化にも違いがあったのだ。
 今のクシナに残っているのは、ミヤコという地域のものでしかない。このテサにあったという、アタカノやツタキなどといった地域の言葉も文化も、もう消え去ろうとしている。
 ハルカの言葉が、文字が、テサで失われてしまえば、もうあの竹簡から古の言葉を受け取ることができなくなってしまう。文字を読むことができさえすれば、ハルカの人々が遺し得た、全ての知恵を再び知ることができるのに。
 サリイがここヨギまで探し求めてきた書物は、焼かれることから守ろうと洞穴に詰め込まれ、厳重に封をされていた書物だった。そうまでして、戦の中にあったクガヒトが、未来に生きるクガヒトへ伝えようとした何かが、そこには記されていたのだ。
 それを、何と知ろうともしないで火を点けるなど、考えの足りない野蛮な者のすることだ。
 己らが全てのことを知り得ているとでも思っているのだろうか。いや、書かれていたものが何であれ、兵士たちはあれがハルカの書物だったから燃やしたのだ。
──俺はそれを知りたいとは思わない
「くそっ……」
 つぶやいて、歯を食いしばる。
 サリイの母親も母方の祖父母も、黒い髪を持つクガヒトだったが、サリイが図書館で竹簡を見つけた話をしても、誰一人良い顔をする者はいなかったのだった。
 彼らはハルカの言葉を話すことも、文字を読むこともできず、また、ガレと同じく、古のハルカの人々に対しても興味を示さなかった。ただ、危ないことには手を出すな、というようなことは言われた。
 サリイがハルカの言葉を取材したクガヒトたちは、おおむねサリイを好意的に受け入れてくれたが、中にはガレのように迷惑がる者もいた。嫌がらないまでも、サリイのようにハルカに興味を持つ者は、ほとんどいなかった。
 居留地のクガヒトも、年々若者が居留地の外へ去り、二十年前に比べれば半分ほどに減ったという話だった。
 クガヒトはもう、テサになろうとしているのだと、サリイにもわかっていた。
 ハルカの言葉で紡がれる、複雑な表現。美しい名。古の知識。ヘラの語る、古の人々の豊かな暮らしや、古い民話。ヘラの祖母が寝物語に聞かせた英雄譚や、神々の伝説。
 サリイには、その全てが愛おしくてならないのに、ガレの言うように、それらは顧みられることもなく、失われてゆく運命なのだろうか。
 自分は、黒い色の髪を抱えたまま、一生ハルカの言葉を書くことも話すこともせず、純粋なテサの民だと偽って、生きて行かなければならないのだろうか。それが最良の道なのだろうか──
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