繋ぐべきもの

文字数 9,884文字

 正月二日、外山明彦は病院のベッドの上で箱根駅伝のスタートを待っていた。
 箱根駅伝は毎年テレビ観戦している、しかし今年はいつもとは違って複雑な心持だ。



 明彦はこの大会に出場した経験がある。
 湘南学院大学四年の時に八区を任され、順位はひとつ下げてしまったものの、区間十位のタイムで無事に襷を繋げる事ができた。 
 そしてその年、母校は十位の成績で翌年のシード権も手にすることができた。
 優勝タイムから遅れること十八分、十位の大学など一般の人々の記憶には残らない、しかしチーム一丸となって目標だったシード権を手に入れたのだ、明彦はもちろん、チームの誰もがその結果に喜びを分かち合った。
 


 明彦は子供の頃から長距離走には強かった。
 反面、筋力はあまりなく体も大きくない、スポーツは好きだが万能というわけには行かなかった。
 小学生の頃はサッカーに打ち込んだがポジションはサイドバック、あまり目立たないポジションであり、人気もない。
 小学生ならば得点を決めることの多いフォワードやゲームを作るミッドフィルダーに憧れる、守備の要であるセンターバックやゴールキーパーもそれなりに人気がある。
 だが、サイドバックやボランチというポジションは運動量が多いわりには目立たない、だが、その運動量という点で明彦は群を抜いていて、チームメイトには信頼された。

 中学に上がると、自分の特長を最も生かせそうな陸上部に入部した。
 だが、特に実績があるわけでもない公立中学の陸上部は部員数も少なく、中・長距離は明彦一人、しかも顧問の先生は高校時代に短距離と走り幅跳びをやっていてそれなりの指導もできるのだが、明彦が専門とする中・長距離のスキルはない、教則本から得た知識で練習メニューを作るのが精一杯だった。
 しかし明彦はそのメニューを黙々とこなし、知識は教則本やネットから得て練習を重ね、県大会にまで駒を進めることができた。
 
 中学を卒業すると、県内の有力校とまでは行かなかったが、ある程度駅伝にも実績のある陸上部がある高校に進学した。
 
 高三の県予選、明彦の高校は二、三番手の実力と目されていたが、ダントツの優勝候補に挙げられていた高校のエースが大ブレーキを起こしたこともあって、全国大会に出場することができた。
 全国大会では下から数えたほうが早い順位に終わったものの、チームのエースとして活躍した明彦は、大学駅伝の新興校である湘南学院大学から誘いを受けた。
 高校時代に、チームが一丸となってゴールを目指す駅伝の虜になっていた明彦は、憧れの大会である箱根駅伝も望める大学からの誘いに、一も二もなく応じた。

 だが、現実は厳しかった。
 明彦自身、高校ではエース的存在であり、それなりの注目も集めたのだが、国民的イベントと言っても良い箱根駅伝を目指す大学には高校駅伝各校のエースがこぞって入学する。
 大学一年から三年まで、湘南学院は連続して本選出場を果たしたものの、順位はシード権争いをする十位前後続き、その中にあっても明彦が箱根を走る十人に選ばれることはなかった。
 そして最終学年である四年生。
 前年十二位に終わり、シード権を逃した湘南学院は十月の予選会に出場し、そこで明彦はチーム八番目となるタイムを記録した。
 大学も今年で最後、実業団からの誘いもなく、競技としての陸上、駅伝はこれが最後と決めて、例年以上に練習に身を入れてきたのが実った、念願の箱根を走ることができる……そう思った……。

 だが、監督が発表した十人のメンバーの中に明彦の名前はなかった。
 怪我から復帰した準エースと進境著しい一年生がメンバー入りし、明彦の名前は補欠に連ねられたのだ。
 だが、最終決定は当日の朝だ、明彦はコンディションの維持に努めた。

 正月二日の朝、大手町をスタートした箱根駅伝は二区で早くも優勝候補が抜け出し、その他の有力校が先頭を追う集団を形作る、湘南学院は第二集団の中にあってシード権を得られる十位以内を目指した。
 レースは山登りで注目された選手が二位集団から抜け出して一位をも捉え、優勝争いは早くも二校に絞られる様相を呈した、そして湘南学院は予想を上回る七位で往路をフィニッシュした。
 
 その夜のミーティング、監督は八区に予定されていた一年生に代わって明彦を起用することを決めた。
 采配に温情を挟む監督ではない、情に薄いわけではないが、より良い成績を収める為にどうすべきかを冷静に考えるタイプなのだ。
 予定されていた選手は進境著しいがまだ調子の波が大きく、爆発的な力を発揮することもあるがブレーキになってしまう可能性もある、爆発力には欠けるが安定した力を発揮する明彦を起用することでシード権を確実に取りに行こうという狙い、チームの誰もが、そして明彦自身もそう思った。
 明彦はぎりぎりで夢の舞台へ上がる権利を、自らの力で勝ち取ったのだ。
 

 
 箱根駅伝への出場は、明彦の陸上人生の頂点であり集大成とも言えるものだった。
 これまで自分を追い込むだけ追い込んだ、磨けるだけ磨いたという自負はあった、それでも明彦は鈍い光しか放つことができなかった、実業団で活躍する選手は一年生のうちからまばゆい光を放っているか、磨けば光るダイヤの原石としての光を秘めているものだ、だが自分は違う、これ以上は望めないと自分に見切りをつけたのだ。
 陸上に打ち込んだ十年間に悔いはない、夢だった箱根駅伝にも出場できた、それは自分の財産となっているはず、それを胸に新たな人生へと踏み出したのだ。
 一般社会人となった明彦は仕事の傍ら市民レベルの大会には出場し続け、駅伝大会でチームメイトになったことが縁になって交際に発展した女性と結婚し、二人の子供にも恵まれた。
 四十歳になってなお、明彦は市民レベルの大会では知られる存在、人生は順調に行っているかのように思えた。



 だが、十二月のある日を境に、明彦は奈落の底へと突き落とされた。
 赤信号に変わったにもかかわらず、無理に横断歩道に突っ込んで来た車に撥ねられて脊椎を損傷してしまったのだ。
 怪我ならいずれ治る、しかし切れてしまった神経は元には戻らない、明彦は車椅子から離れられない体になってしまった。
 明彦にとって走ることは単なる趣味ではない、生きている証でありアイデンティティの一部なのだ。
 二度と走れない、それどころか立ち上がることすらできないとわかった時、明彦は落ち込み、荒れた。
 病院に付き添ってくれる妻に辛く当たり、見舞いに来てくれる子供たちにも仏頂面しか見せられなかった。
 
 そして正月の三が日、妻は里帰りを理由に病院には来なかった。
 実際は箱根駅伝をテレビで見るであろう明彦のそばには居たくなかったのだ、見ればまた走れない体になったことを恨み、荒れるかもしれない、子供たちにもそんな父親の姿を見せたくないという思いからだった。


 
 明彦はテレビをつけることをためらっていた。
 箱根駅伝はもちろん見たい、毎年欠かさずテレビにかじりついていたのだ。
 だが、体がこうなってしまった以上、見ればいたたまれないような気持ちになるだろうということも想像できる……。
 散々迷った末に、明彦はテレビのリモコンを手にした。
 生中継を見なくても、どうせニュースなどで映像は流れるのだ、辛くなったらテレビを消せば良いだけのこと……。

 午前八時、号砲と共に選手が一斉に走り出す……辛い気持ちにはならなかった、例年と同じに、これからどんなドラマが待っているのだろうと言うわくわくする気持ち……明彦はテレビに見入った。
 一区ではまだそう大きな差はつかない、有力と目されていたチームが先頭集団を作り、その他は少し遅れて集団を作る、コバルトブルーのユニフォームにオレンジ色の襷、湘南学院もその集団の中で快調にピッチを刻む。
 保土ヶ谷中継所が近くなって優勝候補の二チームが集団から抜け出し、第一集団、第二集団の別はあいまいに、選手は長い帯になって中継所を目指す、湘南学院は第二集団から抜け出して五番目で襷を繋いだ。
(いいぞ、その調子だ)
 そのころにはすっかり熱中し、常に頭から離れなかった車椅子のこともすっかり忘れていた。

 二区は『花の二区』とも呼ばれる、距離が長い上に権太坂という長いだらだらとした坂が続く難しい区間。 五区、六区の山登り、山下りも見せ場だがその区間はエキスパートが投入されることが多く、二区には将来を嘱望される各チームのエースが揃う。
 優勝候補の二チームがデッドヒートを繰り広げ、第二、第三集団が形成され始めると、湘南学院は第二集団につけて前を伺う。
 今年の、というよりも伝統的に湘南学院には突出したランナーはいない、その代わり安定した力を持つ選手を揃えて穴のない布陣を敷くのが持ち味、しかし今年二区を任されたのは進境著しい二年生、戸塚中継所が近づくと第二集団を抜け出して三位に上がって襷を繋いだ。
(どこまで行けるかな……)
 この勢いがどこまで続くのかはわからない、だがトップを争う二チームを除けば力の差はあまりない、三位をキープしたまま往路を終えることも有り得ないことではない、明彦はすっかり興奮しながら画面に見入っていた。
 戸塚から平塚までの三区は海沿いのコース、方向は逆だが明彦が走った八区と同じコースだ、しかも湘南学院はこの近くにあり、沿道で応援してくれる地元の人も多い。
 声援に背を押されて、三区の選手は僅かだが二位との差を詰めて襷を繋いだ。

(行けるかも……)
 明彦の興奮は次第にドキドキ感に変わって行った。
 往路だけでも三位でフィニッシュ出来れば湘南学院にとっては快挙だ、目立つ成績を上げれば高校の有力選手も注目してくれる、湘南学院が単なる常連校から一歩ステップアップするきっかけになるかもしれない。
(頼む、このまま行ってくれ)
 祈るような気持ちだった。

 オレンジ色の襷は三位のまま小田原中継所で往路の最終、五区・山登りの選手に繋がった。
 テレビでは何度も「大健闘」と連呼されている。
 確かに例年十位前後を走ることが多い湘南学院にとっては望外の順位ではある、しかし、二十年近く前とは言ってもそのチームの中で切磋琢磨を続けていた明彦に言わせれば必ずしも意外ではない。
 湘南学院には飛び抜けたホープは入って来ないが、練習量なら他校に決して負けない、だからこそ毎年のように本選に出場する常連校なのだ、今年は二区の二年生が快走して順位を上げたが、彼とて入学した時はまだダイヤの原石、湘南学院の厳しい練習で磨かれてあれだけの輝きを放ったのだ、そしてそのままの順位をキープし続ける力は充分にある。
 その証拠に時折聞こえて来る伴走車からの監督の声はいつもと少しも変わらない、明彦が師事した頃は三十代の若さに似合わないほど冷静な監督だったが、二十年を経て冷静さに磨きがかかっているかのようにすら感じる。 
 監督は『練習どおりの力を出せれば上出来』が口癖、オーバーペースにならないように細心の注意を払って冷静に指示を出す、監督が舞い上がれば選手も舞い上がってしまい、予想外のブレーキを起こしてしまう可能性があるのだ。
 補欠にも選ばれずにサポートに徹した一、二年生の頃の記憶が蘇る。
 監督の哲学は一年生に至るまで徹底されていた『練習で出来ないことがレースで出来るはずがない』、『練習は嘘をつかない、だが気持ちは時に体を省みない』。
 その教え故に湘南学院の選手たちは練習の成果を過不足なく試合で発揮することが出来た。
 それは一般社会人になり、市民ランナーとなった今でも明彦に染み付いている。

 五区、山登りの選手が小田原中継所を飛び出して行った。
 前方では二位だったチームの選手が逆転し、差を広げにかかっている。
 湘南学院の選手も山登りには定評のある選手だ、スタート直後に逆転された選手はその際にややオーバーペースになったのか、十キロ過ぎでややペースを落とした。
 先頭は快調に飛ばしていて捉えることはまず無理だが、二位に上がれるチャンスは見えて来た。
(落ち着け、落ち着くんだぞ)
 明彦の気持ちは箱根の山を選手と共に登っていた。
 頑なにペースを守ることは簡単そうでいて実は難しい、前を走る選手を捉えられると感じれば知らず知らずにペースが上がってしまうものだ、ゴールが迫って来てからならまだしも、区間の半ばでペースを乱すのは危険だ、まして消耗の激しい山登り、選手の耳元で『あせるな、落ち着いて行け』と叫びたいくらいだ。
 
 先頭がゴールしたシーンが映し出されると、カメラは二位争いに切り替わる。
 苦悶の表情を浮かべながら懸命に逃げようとする二位の選手、湘南学院は五十メートルまで差を詰めているがこちらにも余力は残っていない、歯を食いしばるようにして追う。
 残り三百メートル地点の直線に入った時、差は三十メートルほどに詰まっていた。
 二人のランナーは最後の力を振り絞るようにギアを上げようとするが、二位の選手にはその余力はない。
「行け!」
 明彦は思わず声を上げた、ここまで来ればもうペースも作戦もない、気力の勝負だ。
 湘南学院の選手もギアを急には上げられない、それでも気力を振り絞ってペースを僅かに上げた。
 最後の角を曲がる、ゴールまであと三十メートル、ほとんど並ぶようにして二人がゴールラインに倒れこんで行くが、最後に追い込んできた湘南学院が僅かに勝った。
「やった!」
 つい大声が出てしまった。
 二十年前に卒業した母校、監督はともかく現役の選手達と面識はない、それでも我が事のように嬉しかった、気持ちが高揚して止まらなかった、病院中にふれて回りたいくらいだった。

「外山さん、あんまり大きな声は……ね……」
 看護婦さんに窘められたが、その表情は笑っていた……。



 翌朝はスタートが待ちきれないくらいだった。
 テレビ放送はスタートの三十分前から始まり、昨日のハイライト、とりわけ湘南学院の躍進は大きく取り上げられた、もちろん胸ひとつの差となった往路のゴールシーンは何度も繰り返して映し出され、明彦の期待はいやが上にも高まる。

 そして復路のスタート。
 トップが元気良く飛び出して行ってから二分ほど遅れて湘南学院もスタートした。
 二位と三位と言っても差はないに等しい、二人の選手は競い合うように併走して行く。
 だが、二人のハーフマラソンでの持ちタイムには少し差がある、山を下り終えて平地に入った残り三キロ地点から湘南学院は徐々に引き離され始める、必死で食い下がったが小田原中継所で三十秒ほどの差をつけられてしまった。
 そして七区、順位は変わらず三位をキープしたが、四位から七位の集団にだいぶ差を詰められた。
(大丈夫、落ち着いて行け、落ち着いて……)
 明彦は正直、気が気でない、ここまでが出来過ぎと言えば確かにそうだ、実況のアナウンサーや解説者までが『やはり後続集団に飲み込まれるだろう』と言うニュアンスで喋っている。
 だが、八区、平塚~戸塚間は湘南学院にとって地元、例年声援は多い。
 まして大健闘を見せているのだ、例年にも増して地元の声援が選手を後押ししてくれるはず……八区は自分が走った区間だ、明彦はそれを身をもって知っているのだが……。
(大丈夫か?)
 嫌な予感がした。
 八区の選手は少し気負っているように見えたのだ。
 沿道の声援は確かに力になる、だが、声援だけでなく後ろから追って来る集団の足音にも背中を押されているようだ。
 監督もかなりがなりたてている、普段はそれほど大きな声は出さないのだが、やはりオーバーペースを懸念しているのだろう。
 すぐ後ろにつけた伴走車からスピーカーを使っての指示、聞こえていないはずはないし、監督の哲学も身にしみているはず、それでも行ってしまうと言うことは本人にはオーバーペースだと言う意識がないのだろう。
 しかも八区の前半は海沿いのコースを走る、前を行く二位の選手の姿も、後ろから迫ってくる集団の姿も見通せる、そしておそらくは調子が良いと言う実感があり、二位を捉えられると言う自負もあるのだろう。
 調べてみると、八区のランナーは四年生で去年まではメンバーに選ばれていない、最初で最後の箱根駅伝だと言う気負いがあることも想像できる。
 同じように四年生の一度だけ箱根を走った明彦にはその気持ちは痛いほどわかった。
 自分の時は前がある程度離れていて、持ちタイムが拮抗している八位から十一位の四人の集団の中で走ることができたのでペースを乱さずに済み、残り三キロくらいのところで集団がどうばらけて行くのか、それを待って仕掛けようと冷静に考えることができた。
 だが、今年の八区はそうではない、前を行く選手は一人旅、見通しの良い直線ならばどうしたって追いたくなる、そして後ろからは大きな集団が迫っている、そこに吸収されてしまえば大きく順位を下げてしまいかねないのだ。
 冷静に考えれば一旦集団に飲み込まれて体力を温存し、機を見てスパートをかけて行くのが得策だが……。
 そして、調子が良いと感じた時に落とし穴が潜んでいることもままある。
 ついペースを上げすぎてしまい、後半急激にスタミナを失うことがあるのだ。
(頼む、冷静になってくれ……)
 そう願っていたが、落とし穴は口を開けて彼を待っていた。
 湘南新道から国道一号に入ったあたりからペースが落ち始めて後続集団に飲み込まれるとしばらくは集団の中で粘っていたが、原宿交差点を過ぎた残り三キロ付近で目に見えてペースが落ちてしまった、なんとか粘ろうとするが、残り三キロとなってスパートにかかった集団から見る見るうちに取り残されてしまった……いわゆる『ブレーキ』だ。
 苦悶の表情で集団を追おうとするが、腰が落ちてしまいストライドが伸びない。
 明彦もハーフマラソンでこうなった経験がある、こうなるといくら踏ん張ろうとしてもスピードは上がらない、もがけばもがくほど体力も消耗して行く、そこまで十八キロを踏破してきたのに残りの三キロがとてつもなく長い距離に思える。
 その時、初めての棄権をした……長距離走での最低限の目標は完走すること、棄権は恥ずべきことだと自分に言い聞かせて粘ったが、どうにも脚が前に出てくれずに心が折れてしまったのだ。
 だが、個人のレースと違ってこれは駅伝だ。
 駅伝特有の襷は、しばしば『前を走った仲間の汗が染み込んでいる』と表現されるが、そんなに軽いものではない。
 駅伝部員全員がこの襷を肩にかけることを目標に、一年間厳しい練習に耐えて来た、その汗を集めればどれほどの量になるのか……それをすべて吸い込んだ襷なのだ。
 八区を走る選手はまるで目に見えないロープを手繰ろうとするかのように体の前で腕を振る。
本当に藁一本でもそこにあるならすがって手繰り寄せたいくらいの気持ちなのだろう。いつもならば自分の体を前へ前へと進めてくれる脚がいまや重荷のように感じられるのだろう。
もし猛獣に追われているとしても脚を前へ出せない、それほどの消耗なのだろう。
 だが、彼はもがくようにして戸塚中継点を目指して進む、進まない体を気持ちで引っ張って進む、気持ちが折れてしまったらもう進めない、今、彼の気持ちを支えているのは彼がこの一年に流した汗、そして仲間の全員が流した汗の重みなのだ……。
 
 彼がふらふらになりながら戸塚中継所に辿り着いた時、後続の集団にも置いて行かれてしまい、湘南学院は十二位まで順位を落としていた。
 箱根駅伝の復路では先頭から二十分遅れると繰上げスタートとなる、だが三分を残してオレンジ色の襷は九区を走る仲間の手に渡り、受け取った選手は仲間の肩をポンと軽く叩いてスタートして行き、それを見送ることもできないほどに消耗しきった選手は前のめりに倒れこんだ。
 
 仲間に抱き抱えられてチームのテントに運ばれる時、彼は人目をはばからずに号泣していた、そこまで総合二位、三位という結果を夢見ていた仲間の期待を大きく裏切ってしまったことは確かだ、その心中は察して余りある。
 しかし、仲間たちは彼を丁寧に、手厚く救護していた、どの顔にも怒りや失望は見られない。
 確かに彼は失敗した、しかし、彼も仲間と同じ、総合二位、三位という結果を夢見てそれを全力で手繰り寄せようとした、その意気込みが彼の失敗を招いたのは明らか、そしてそれを責める顔はひとつもなかった。
 
 明彦も泣いた。
 袖で拭っても拭っても拭い切れない、しまいには拭うこともせずに涙が頬を流れるに任せて泣いた。
 そして流した涙の分だけ気持ちは軽くなって行った……。
 
 
 
 その後、九区、十区の選手が挽回して湘南学院は九位で大手町のゴールに飛び込んだ。
 最後までオレンジ色の襷を繋いで……。
 十位以内に入る、消極的な目標のようだがそれは違う。
 それは、来年また箱根駅伝にチャレンジする権利を確保できると言うことなのだ。
 確かに予選会を勝ち抜けば箱根を走れる、しかし箱根に照準を合わせることはできない、予選会とて楽な大会ではないのだから。
 すべてを箱根駅伝に合わせて調整し、万全の体勢で挑戦する、そのためにはシード権は逃せない。
 
 箱根駅伝は人気になり過ぎてマラソンランナー育成の妨げになっているのでは? と言う批判もある、しかし、学生長距離ランナーにとって箱根駅伝は特別な大会だ。
 五時間半づつ二日にわたって、ただ学生が走っているだけの放送が高い視聴率を取っているのは、それだけの魅力があり、感動を受けるからに他ならない、ましてその真ん中にいる選手にとって特別なものでないはずがない。
 今や海外でも『EKIDEN』と言う名称が使われ、襷を繋いで行くスタイルが広まりつつあるのは、襷に込められた思いを繋いで行くと言う意義が評価されているからに他ならない。
 
 そして……自分はどうだ……?
 確かに車椅子から離れられない体になってしまったことは厳然たる事実だ、それは不幸なことであることは間違いない。
 だが、それで何もかも諦めて良いのか?
 自分には人生を共に歩もうと誓った妻がいる、守るべき子供もいる。
 まだ自分は襷を外していない、まだ外すべき時でもない。
 医師の言うには命があっただけ幸運だった、そのくらいの事故だったらしい。
 そう、自分は幸運だったのだ、命はある、脳にも異常はない、そして腕だってある、今の世の中、車椅子では行けない所などほとんどない。
 子供たちが一人前になるまで、襷を託せるようになるまで走り続けよう。
 どんなにペースダウンしても良い、亀の歩みでも良い、大事なのは前へ進むことだ。
 脚を止めることをしなければ、いつかはゴールに辿り着けるのだから……。



「パパ! あけましておめでとう」
 四日の朝、子供たちが病室に飛び込んで来た。
「ああ、おめでとう、おじいちゃんちで良い子にしてたか?」
「うん、あのね、おじいちゃんに独楽回し教えてもらったんだ」
「そうか、うまく回せたか?」
 事故以来失っていた笑顔を子供たちに向けることができた。
 それを見ていた妻も笑顔を見せてくれた。
「駅伝?」
「ああ、見たか?」
「ええ、もちろん」
「やっぱり良いな、駅伝は、生きる勇気を貰えたよ」
「そう……良かった……」
「おいおい、涙ぐむなよ、良いニュースがあるんだ、退院しても良いそうだよ、まだしばらくは通わなくちゃいけないらしいが」
「そうなの? 良かった」
「当面車椅子は借りられるそうだが、早々に買わないとな」
「ええ、そうね」
「実は三台欲しいんだが……」
「え? どうして?」
「外出用と家の中で使うやつ」
「あと一台は?」
「車椅子マラソンってのがあるのを知らないかい? ま、これはおいおいで良いけど……うんと速いやつが欲しいから良く研究してから買わないとな」


          (終)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み