朝、近し
文字数 1,361文字
なにかの気配を感じ、うっすらと目を開けた。
ぼんやりとした明かりが照らすのはシックな車内で、窓の外は相変わらずの闇が広がっていた。静寂のなかに、夜汽車の走る音が染み入ってくる。
その瞬間、ワイシャツの胸ポケットにしまっていた携帯電話が震えだした。画面を見れば、相手は恋人の佐内紫からだった。
なんだろう、こんな時間に。
見れば、スーツ姿の男たちは本を読んだり、新聞を読んだりとしていたが、私が目を覚ましたことに気がついたのか、こちらを窺っているようだった。
まだ掴んだ携帯電話は震えている。
喜納は腕を組み、いびきをかいて眠っていた。私はそっと立ち上がり、車両と車両の間へと移動した。
「もしもし」
携帯電話を耳に押し当て、抑えた声でそういった。
『あ、トシくん。ごめんね、こんな時間に』
「いや、それは別にいいんだけど」
時刻は午前二時になろうとしていた。
「仕事中?」
『そうだけど、今は休憩中』
紫は、朝尸良市内の病院で看護師として働いている。なので夜勤中、こういった時間に電話をかけてくることも何度かあった。
「どうした?」
『ううん。なんとなく、かけてみただけだけど。……、迷惑だった?』
「いや、そんなことないよ」
紫の『ふふん』という笑い声が、耳にくすぐったい。脳裏に紫の姿が浮かび、ほんのりと胸の奥が熱くなった。
そんな心の内を見透かしたかのように、背後でドアが開き、例のスーツ姿の若い男が姿を現した。
私はちょっと息を呑み、ちらりとそちらを窺った。
若い男はこちらなど気にもとめぬといった様子で歩みを進め、気だるげに壁に寄りかかると、ポケットから携帯電話を取り出していじりだした。
『トシくん、今、どこにいるの?』
「ん? あ、ああ、電車のなかだよ」
『こんな時間に?』
「まあ、出張だよ」
『どこどこ?』
「秘密」
『なによ、それー。まさか、浮気じゃないでしょうね?』
ふてくされたように紫がいう。けれどそれが紫なりの軽い冗談なのだということはすぐにわかる。
「違う違う」
『いつ、帰ってくるの?』
「うーん……。それがよくわからんのよね」
『そ。ま、気長に待ってるから、お土産、よろしくね』
「ああ、まかせとけ」
『まかせる。それじゃ、仕事に戻るね』
「おう。がんばれよ」
『がんばってるよ。そっちこそ、無事に帰ってきなさいよ』
「あい」
『それじゃ、またね』
「おう」
そうして私たちは通話を終えた。途端に、静寂とそこを抜けてゆく夜汽車の音に包まれる。私は携帯電話をポケットにしまうと、元いた車両に戻ろうと一歩踏みだした。
「もうすぐ、夜が明けますね」
若い男の前を通り過ぎようとする瞬間、そう声をかけられた。
「はい?」
私は足をとめ、若い男の顔を見る。サングラスの隙間から、大きな瞳がこちらを向いていた。
よく見れば、思いのほかに童顔だ。けれどその視線や身にまとっている空気は、一般人のそれとは明らかに違っていた。
「いえいえ、すいません」
なにか言葉を探す私に、若い男は右手を伸ばし、どうぞ、お戻りになってください、と無言で促した。
結局、私はなにもいえずに、そのまま車両へと続くドアを開けた。すると背後から、若い男が携帯電話を畳む音が聞こえてきた。
ぼんやりとした明かりが照らすのはシックな車内で、窓の外は相変わらずの闇が広がっていた。静寂のなかに、夜汽車の走る音が染み入ってくる。
その瞬間、ワイシャツの胸ポケットにしまっていた携帯電話が震えだした。画面を見れば、相手は恋人の佐内紫からだった。
なんだろう、こんな時間に。
見れば、スーツ姿の男たちは本を読んだり、新聞を読んだりとしていたが、私が目を覚ましたことに気がついたのか、こちらを窺っているようだった。
まだ掴んだ携帯電話は震えている。
喜納は腕を組み、いびきをかいて眠っていた。私はそっと立ち上がり、車両と車両の間へと移動した。
「もしもし」
携帯電話を耳に押し当て、抑えた声でそういった。
『あ、トシくん。ごめんね、こんな時間に』
「いや、それは別にいいんだけど」
時刻は午前二時になろうとしていた。
「仕事中?」
『そうだけど、今は休憩中』
紫は、朝尸良市内の病院で看護師として働いている。なので夜勤中、こういった時間に電話をかけてくることも何度かあった。
「どうした?」
『ううん。なんとなく、かけてみただけだけど。……、迷惑だった?』
「いや、そんなことないよ」
紫の『ふふん』という笑い声が、耳にくすぐったい。脳裏に紫の姿が浮かび、ほんのりと胸の奥が熱くなった。
そんな心の内を見透かしたかのように、背後でドアが開き、例のスーツ姿の若い男が姿を現した。
私はちょっと息を呑み、ちらりとそちらを窺った。
若い男はこちらなど気にもとめぬといった様子で歩みを進め、気だるげに壁に寄りかかると、ポケットから携帯電話を取り出していじりだした。
『トシくん、今、どこにいるの?』
「ん? あ、ああ、電車のなかだよ」
『こんな時間に?』
「まあ、出張だよ」
『どこどこ?』
「秘密」
『なによ、それー。まさか、浮気じゃないでしょうね?』
ふてくされたように紫がいう。けれどそれが紫なりの軽い冗談なのだということはすぐにわかる。
「違う違う」
『いつ、帰ってくるの?』
「うーん……。それがよくわからんのよね」
『そ。ま、気長に待ってるから、お土産、よろしくね』
「ああ、まかせとけ」
『まかせる。それじゃ、仕事に戻るね』
「おう。がんばれよ」
『がんばってるよ。そっちこそ、無事に帰ってきなさいよ』
「あい」
『それじゃ、またね』
「おう」
そうして私たちは通話を終えた。途端に、静寂とそこを抜けてゆく夜汽車の音に包まれる。私は携帯電話をポケットにしまうと、元いた車両に戻ろうと一歩踏みだした。
「もうすぐ、夜が明けますね」
若い男の前を通り過ぎようとする瞬間、そう声をかけられた。
「はい?」
私は足をとめ、若い男の顔を見る。サングラスの隙間から、大きな瞳がこちらを向いていた。
よく見れば、思いのほかに童顔だ。けれどその視線や身にまとっている空気は、一般人のそれとは明らかに違っていた。
「いえいえ、すいません」
なにか言葉を探す私に、若い男は右手を伸ばし、どうぞ、お戻りになってください、と無言で促した。
結局、私はなにもいえずに、そのまま車両へと続くドアを開けた。すると背後から、若い男が携帯電話を畳む音が聞こえてきた。