【After Hours】

文字数 4,665文字

 西北大の入学式には親は上京せず私一人で参加した。政経学部で入学手続きを済ませ、掲示板を見ていると誰かに声をかけられた。『知り合いもいないはずなのにきっと人違いだろう。』と思って振り返ると、そこにはトランペットの矢野君がいた。私がビックリしているともう一人声をかけてきた人間がいた。何と「イエイ」の伊部孝介君だった。こんなことがあるのかと三人でしばし肩を叩き合った。何とも不思議な縁だった。

 城南ジャズ研のメンバーに関して言えば、西北大の政経には一年先輩のドラムの森本氏が現役合格していた。矢野君は現役で北斗大の文類に合格したのだが、北斗大に籍を残したまま第一志望の西北大にもう一度チャレンジしたという。伊部君は現役で奥羽大の法学部に合格したが、そこを蹴って浪人し今年東帝大を目指したが失敗。結局西北大に来たという。

 他のジャズ研メンバーのその後の進路について記しておく。郷田君は現役で北斗大の医学部に合格。飯野君と黒岩君は一浪したが今年北斗大の理類に合格していた。残念ながら甲斐君だけがもう一年浪人生活を送り、翌年医者への道を諦めて北斗大の理類に進むことになった。

 城南ジャズ研のメンバーは結局北斗大と西北大に進むことになった。どちらに進んだメンバーもそのほとんどがジャズへの思いは冷めることなく、大学でもジャズ研でその腕を磨くことになったのだった。

 西北大に進んだ矢野君はビッグ・バンドのハイソサエティ・オーケストラに入部し大いに活躍した。一年先輩のドラムスの森本さんと共に中心メンバーとしてアメリカのモンタレー・ジャズ・フェスティバルに出演し、学生として日本で初の商業レコード「Hi Way」を出した。彼は何と高校、大学とレコード化を果たしたのだ。私はコンボ・ジャズをやっているモダンジャズ研究会でジャズを続けた。北斗大に進んだメンバーもジャズ研で大活躍した。黒岩君は大学ではジャズをやめてしまったが、現役合格した郷田君を始め、一年ごとに飯野君、甲斐君と参加し、北斗大ジャズ研の屋台骨を背負って立つ形となった。特にドラムの飯野君はプロも認める凄腕へと成長していった。

 しかし、大学卒業後は誰一人としてプロのミュージシャンを目指すことはなく、郷田君は医師となり、他のメンバーは皆実業界に就職した。甲斐君は大学院まで進み、その後キャリア官僚の道を進んだ。

 思い返せば、私の高校生活はいつも背伸びをして、ハッタリをかましてはそれを自分の目標とし、何とかその目標に届くようにと自分を鼓舞してきたものだった。これは私だけではなく、誰もが多かれ少なかれそういう面を持っていたと思う。しかしそれには間違いなく限界がある。ハッタリで生きていくことが習い性となると、それは常に自分を追い込み続けることになり、ある程度まではうまくいったとしても遂には己で己を破壊してしまう。それは結局は破滅型の生き方なのかもしれない。

 誤解して欲しくないのだが、私は決して向上心や努力を否定するものではない。ただ人は生まれながらに神様から与えられた分というものがあると思っている。私が考えている「分」とは「天分」と言われるような特殊な才能のことではなく、その人がその人らしくいられる範囲というイメージだ。そしてその頑張りが天与の分を超えてしまうと己を破壊してしまうと考えている。だが、その限界を見極める方法が一つだけあると思うようになった。それは頑張っている今の自分が楽しいと感じているのか、あるいは嫌々やっているかだ。問題は自分の心が嫌だと叫んでいながらも頑張ってしまうことだ。それは間違いなく不幸な結果をもたらす。

 若い頃の私はその後もその生き方を変えることができなかった。大学生活しかり、サラリーマン生活しかりだった。そしてその結果、私は若くしてその「分」を超えてしまった。後は推して知るべし。諦めるということは実は負けではなく、生き続ける上で欠かせない賢い知恵だったのだ。

 私が健康を害した後も甲斐君とは家族ぐるみの付き合いが続いた。お互いの社宅や官舎を時々行き来し話に興じた。その後私が東京を離れ江別に引き籠った後は年賀状と電話だけの付き合いになってしまった。そして毎年正月三が日には年賀状の返礼として私が甲斐君と矢野君に電話をし、お互いの近況報告をするのが慣例となっていった。

 しかし数年前の正月、恒例の電話をしたところ甲斐君の口振りが何となくおかしい。どこか迷惑そうなのだ。しばらくして受話器の奥から来客を迎える奥さんの甲高い声が遠くに聞こえて来た。私はタイミングが悪いときに電話したことを詫びて電話を切ると言った。それに対しても彼は特に何も言わず通話は終わった。

 『都合が悪いなら、なぜ正直にそう言ってくれないのかな。』とその他人行儀な対応に私は正直カチンときた。そして彼のあの迷惑そうな気配を察し、もう来年からは電話するのはやめようと決心した。同時に矢野君もきっと迷惑なのだろうと、彼に電話するのも止めにした。年に一回話せる機会を嬉しく感じていたのは私一人だったのかもしれないと思うと、もうこちらから電話はできなくなった。その後は毎年の年賀状の交換だけとなったが、甲斐君からは一言のメッセージもない形だけの印刷物が送られてくるようになった。私は年賀状の交換からも降りた。

 つい三年ほど前、篠宮君から甲斐君のお母さんが亡くなって彼がこっちに戻ってきた際、「久しぶりに一緒に飲まないかと誘われた。」という話を聞いた。篠宮君は当然私にも連絡があったのだろうと尋ねてきたが、私には一本の電話すら無かった。お母さんが亡くなったことも知らなかった。甲斐君が私を避ける理由が私には全くわからなかった。それはかつてまりあが私から逃げ出したときと同じだった。彼はそれ以前にも何度か同期会等で来札しては昔の仲間とも会っていたようだ。しかし私には一度たりとも連絡してくることは無かった。私が気付かぬとうの昔に私は見限られていたのだ。

 そして甲斐君本人が亡くなった。その訃報すら私は直接受けることが叶わなかった。 



  
 人間関係には必ず別離がやってくる。そのこと自体は仕方のないことだが、同性・異性を問わず、特に親しくなった関係にあっては、最後のケジメは極めて重要な意味をもつと私は考えている。それほど深い関係でなければ、次第に疎遠となって最終的にフェード・アウトしたとしても互いに苦悩し困惑することもない。

 しかし特別な関係にあった特別な人物の場合、ケジメをつけない別れは相手を強烈に不意打ちする。そして「えっ? どうして?」と、その理由をめぐって苦悩と憶測の終わりのないループに陥らせる。これはの相手の心を無限の拷問にかけるようなものだ。急に消えてしまった音楽のその旋律を残された者の心はずっと奏で続ける。どんな形であれ、きちんと曲を終わらせてあげることが相手に対する武士の情けというものだ。

 哀しいことだが、人は別れを決意したとき、相手にその意思や理由を伝えることなどまず無い。過去はスッパリと清算し新しい未来に向かって歩んで行く。自分のことだけを考えればそれで充分なのかもしれないが、それまで自分を支え共に歩んでくれた存在があったとすれば、その相手に対しては余りに無慈悲な仕打ちである。相手は自分の存在価値に自信を失くし独り苦しむことになる。その苦しみから逃れるためにそれまでの大事な思い出を封印し、それどころか無かったことにして、時が癒してくれるのをただひたすら待つ。それしか出来なくなるのだ。私の場合はそうだった。

 私も人並みに友達がいて、恋人がいて、妻もいたが、今は皆私から離れていってしまった。その原因は全て私の身から出た錆、現実がそれを物語っている。自分では気付かなくとも、私にはきっと詫びて回らなければならない人がたくさんいるのだろう。しかし私のその不徳を誰一人指摘してくれなかった。それもまた私を自己嫌悪に陥らせる。

 そもそも徳とか不徳とは一体何だろう? 正直良くわからない。努力してできることといえば、いつもニコニコしているとか、穏やかに話すことくらいしか思い浮かばない。もちろんそれですら並大抵のことではない。残念ながらそういう意味では私は該当者リストから外れていた。また一口に相手を思い遣るといっても、それだって簡単なことではない。どんな人に対しても自分の感情を脇に置いて相手の気持ちに寄り添うなど、常人のできることではない。ただ、本当に大切な人に対しては、相手の気持ちに共感したいとは思うが、実際にできるかどうかはまた別問題である。

 思い起こせば、私は特別と思った相手の喜びを自分の喜びとして共に笑ったり、相手の悲しみや苦しみを自分のそれとして共に涙を流したりしたことはなかったかもしれない。喜びも悲しみも一緒に共感できるということは、魂のレベルでお互いが共振し一つになっている状態なのかなとも思う。私にはそれがなかった。弁解じみて聞こえるかもしれないが、意識してそうすることは、わざとらしい同情であって、本当の共感とは全くの別物だと私は思っている。結局それは無意識レベルにお任せする以外どうしようもなさそうだ。逆に言えば、喜びも悲しみも自分のこととして共感できる相手こそが、自分にとって特別な存在だということなのかもしれない。



 時というものは偉大な魔法である。長い時間を経てササクレだった私の心も少しは滑らかになってきたようだ。去っていった人達に対する特別な感情も今はもう無い。しかし、それは綺麗サッパリと消え去ったわけではない。普段は目立たないくらい小さくはなったが、痣となってしっかり私の身に刻まれている。まあそれも貴重な人生の勲章だ。悪くはない。ただ少々困ったことに、その古傷が時々痛むことがある。それはあの高校時代がまだ完結していないことを私に思い出させる厄介な痛みなのだ。

 あれから四十余年、あっという間だった。あの日の傷以外にもこれまであちこちに傷を作りながらこうして生き永らえてきた。ただ私は自分が無駄に長く生き過ぎたと感じている。この頃のどうかしてしまったこの世界と折り合いをつけていく自信は無いし、個人的なことを言えば、誰からも必要とされない存在とは結構辛いものだ。変に捉えないで欲しいのだが、私は甲斐君を少し羨ましく思っている。


 甲斐君よ、俺から離れていったのも、きっと何か言えない理由があったんだよな? 
 でもさ、城南ジャズ研で共に過ごしたあの日々は間違いなく楽しかっただろ?
 これから俺はお前さんと一緒に飲ろうと取っておいたマッカランの封を切るよ。

 さて何を聴こうかな。
 チャーリー・マリアーノの「Deep In A Dream」がいいかな。
 渡辺貞夫の「I Thought About You」もいいな。

 お前さんも一緒にどうだ?
 


                                                                                      

(完)




 サラリーマンとなったジャズ研メンバーも還暦を過ぎてお役御免。退職して自由な時間がもてるようになったようだ。中でも矢野君はもう一度音楽をやり直すと音楽大学を受験し合格。トランペットのジャズ・コースで勉強している。今の目標はプロになることだという。すごい。私は感動した。彼の健闘を心から祈っている。





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