苛々していた時にふと気が付く
文字数 1,499文字
今朝は既に朝から具合が悪かった。
それでも仕事はしなくてはならない。
事の始まりは役場に提出物を出しに行ったことであった。
何でも家族の税金の滞納が七桁にのぼるらしい。あまりのことであった。
苛々しながら仕事をしていた訳である。当然、社会人である以上は職場に影響を与える訳にも行かなく。
苛々して内心家族に毒を吐いていた。勿論、仕事中は仕事に取りかかる様に集中してはいたが。
苛々していた時、ふと声が聴こえた。
「I have a dream」
遂に疲れすぎていて幻聴が聴こえ始めたかと思った。
しかし、それは私の善く知る言葉であった。
キング牧師の言葉だ。それの続きは何だっただろうか?
確か「奴隷主の子孫と奴隷の子孫が同じ食卓に着くことを夢みる」だったか。
それまで憎しみに囚われていたのが何かの悪夢かだった様に心が落ち着き始めた。
内心、祈った。
「主よ、肉にあって愚かなしもべのことをおぼえて下さい」
私は、いや、私達人間そのものはあまりにも誰かのことを知ろうとしていないのではないか。
私もそうだし、今の世界の戦争問題もそうだ。
私が誰かを断罪しようとする罪と世界でおきている何処かの民族を断罪しようとする罪は大小の差あれど根源は同じではないか。
怒っていた私は神を十字架に定めた人間と何の違いがあろうか?
何の権限があって裁こうと言うのか?
むしろ、私達に求められているのは共に食卓に着き、各民族の料理を食べ合うことではなかろうか?
私は民族料理が好きだ。フランスの料理も中華料理も好きだ。トルコ料理もいずれ機会あれば食事してみたいと感じる。世界中の料理に興味がある。アフリカ諸国ではよく昆虫の幼虫の炒め物が挙げられていた。嫌悪する方々もいるかも知れない。けれど、それも立派な民族料理の一つだと私は思いたい。もし、それを嫌悪してしまったらオーストラリアで食べられている昆虫の幼虫料理やアジアで食べられている昆虫料理を否定してしまうことになるから。
好き嫌いは誰にでもある。私はコオロギのラーメンにも興味はある。だが、もしかしたら実際には食べられないかも知れない。私は以前いなごの佃煮を残した記憶があるからだ。
それでも各民族の創る料理には敬意を表したい。
米国のバーガーも好きである。フライドポテトなどは至高の贅沢品だとも感じる。
和食に至っては単純な料理程好む。朝に焼き鮭、海苔、納豆、味噌汁、御飯があれば最早贅沢の域である。朝に温かい御飯を食べて一日を始める。
私は家族を養う前は教会の友達と一緒によく食事をしていた。
学生時代は友達に手作りの食事を振舞って頂いたこともある。友達の作った料理の一つにほうれん草のお浸しがあった。ほうれん草のお浸し一つとっても友達の想いと先人の知恵が詰まっていた。
まずはそれで善いのではないか。
お互いに食卓に着いて食事を楽しむ。
かつてマルタ共和国で行われた冷戦終結時代の冗談を思い出す。椅子を蹴り合いながら言った冗談だ。
「私達はこうやって冗談を言い合いたかったのだ」
それと同じ様に。
「私達はこうやって料理を食べ合いたかったのだ」
私は気付いたこの想いを書き殴った。今日は憶えているかも知れない。しかし、明日には忘れているかも知れない。
ただ、伝えておくべきことを書き殴ったのだ。それは自分に対してか、一向に争いをやめない世界に対してか?
怒るに速く、聴くに遅い私を戒めるものとしてこの文を残そう。
願わくは世界の誰かにこの文が届けば幸いである。
世界と私達に平和があらんことを。
―了―
それでも仕事はしなくてはならない。
事の始まりは役場に提出物を出しに行ったことであった。
何でも家族の税金の滞納が七桁にのぼるらしい。あまりのことであった。
苛々しながら仕事をしていた訳である。当然、社会人である以上は職場に影響を与える訳にも行かなく。
苛々して内心家族に毒を吐いていた。勿論、仕事中は仕事に取りかかる様に集中してはいたが。
苛々していた時、ふと声が聴こえた。
「I have a dream」
遂に疲れすぎていて幻聴が聴こえ始めたかと思った。
しかし、それは私の善く知る言葉であった。
キング牧師の言葉だ。それの続きは何だっただろうか?
確か「奴隷主の子孫と奴隷の子孫が同じ食卓に着くことを夢みる」だったか。
それまで憎しみに囚われていたのが何かの悪夢かだった様に心が落ち着き始めた。
内心、祈った。
「主よ、肉にあって愚かなしもべのことをおぼえて下さい」
私は、いや、私達人間そのものはあまりにも誰かのことを知ろうとしていないのではないか。
私もそうだし、今の世界の戦争問題もそうだ。
私が誰かを断罪しようとする罪と世界でおきている何処かの民族を断罪しようとする罪は大小の差あれど根源は同じではないか。
怒っていた私は神を十字架に定めた人間と何の違いがあろうか?
何の権限があって裁こうと言うのか?
むしろ、私達に求められているのは共に食卓に着き、各民族の料理を食べ合うことではなかろうか?
私は民族料理が好きだ。フランスの料理も中華料理も好きだ。トルコ料理もいずれ機会あれば食事してみたいと感じる。世界中の料理に興味がある。アフリカ諸国ではよく昆虫の幼虫の炒め物が挙げられていた。嫌悪する方々もいるかも知れない。けれど、それも立派な民族料理の一つだと私は思いたい。もし、それを嫌悪してしまったらオーストラリアで食べられている昆虫の幼虫料理やアジアで食べられている昆虫料理を否定してしまうことになるから。
好き嫌いは誰にでもある。私はコオロギのラーメンにも興味はある。だが、もしかしたら実際には食べられないかも知れない。私は以前いなごの佃煮を残した記憶があるからだ。
それでも各民族の創る料理には敬意を表したい。
米国のバーガーも好きである。フライドポテトなどは至高の贅沢品だとも感じる。
和食に至っては単純な料理程好む。朝に焼き鮭、海苔、納豆、味噌汁、御飯があれば最早贅沢の域である。朝に温かい御飯を食べて一日を始める。
私は家族を養う前は教会の友達と一緒によく食事をしていた。
学生時代は友達に手作りの食事を振舞って頂いたこともある。友達の作った料理の一つにほうれん草のお浸しがあった。ほうれん草のお浸し一つとっても友達の想いと先人の知恵が詰まっていた。
まずはそれで善いのではないか。
お互いに食卓に着いて食事を楽しむ。
かつてマルタ共和国で行われた冷戦終結時代の冗談を思い出す。椅子を蹴り合いながら言った冗談だ。
「私達はこうやって冗談を言い合いたかったのだ」
それと同じ様に。
「私達はこうやって料理を食べ合いたかったのだ」
私は気付いたこの想いを書き殴った。今日は憶えているかも知れない。しかし、明日には忘れているかも知れない。
ただ、伝えておくべきことを書き殴ったのだ。それは自分に対してか、一向に争いをやめない世界に対してか?
怒るに速く、聴くに遅い私を戒めるものとしてこの文を残そう。
願わくは世界の誰かにこの文が届けば幸いである。
世界と私達に平和があらんことを。
―了―