第1話

文字数 5,119文字

 左手の薬指は、高校二年生が終わる春に置いてきた。

 西日が強くなり始めた夕方の喫茶店で、氷室(ひむろ)さんはそう言って紅茶に口を付けた。春らしい桃色のネイルを施した白い手が、小さなカップを支えている。彼女の瞳の色を隠す長い睫毛をぼんやりと見つめていれば、その視線に気づいたのか俺を見つめ返してきた。

「……それ、どういう意味ですか?」と、踏み込んでいけないような気がしながらも、俺は会話が途切れないようにそう尋ねた。

「そのままの意味。そうね……噛み砕いて言えば、私はあの時に最初で最後の恋をしたの」

 カチャ、とカップがソーサーに置かれて小さく音を立てた。その音は、俺の胸の奥にある何かに小さく罅が入ったような音に聞こえた。

「当時はね……あ、その前に。今日は私が小話を提供する番で良かったかしら?」
「はい。先週は俺が好き勝手話してしまったので……」
「あら、そんな申し訳なさそうにしなくてもいいのよ?私、夏輝(なつき)くんのお話、面白くて好きなの」

 グロスが控えめに塗られた艶やかな唇が、ゆるく弧を描く。花が開くような優しい微笑に、俺は頬が火照って目をそっと逸らした。「……どうも」と無愛想な言葉つきで。

「それじゃあ、少しだけお話するわね。おばさんの昔話に付き合ってもらっちゃって悪いわね」
「氷室さん、まだお若いじゃないですか」

 素直にそう告げれば、氷室さんは「お上手ね」と満更でもない様子で笑んだ。俺と四つしか変わらないのだから、若いどころか同世代と言ってもいい。きっと氷室さんは、目前に迫る三十路という壁を意識している故に謙遜しているのだろう。

「高校生の時のお話なの。そうねぇ、一年生の後期に入った頃からかしら」

 そう前置きをして、氷室さんは俺を十年以上前の青春へと連れ去った。夕方の喫茶店の光景が、あっという間にザアッと攫われて、果実の香りがする爽やかな夏空に切り替わったような気がした。部活動をする生徒の活発な声がして、快晴の空が放つ青色を混ぜた風が汗ばんだ髪を揺らしていく。

 きっとこれが、氷室さんが当時感じていた風景なのだろう。

「私、サッカー部のマネージャーをやっていてね、毎日忙しい日々を送ってた。マネージャーは私と一つ上の先輩しかいなかったし、人数の多いサッカー部を支えるのに必死だったの」
「あぁ、氷室さんが通ってたとこ、サッカー部は人気ですもんね」

 まだ一口もつけていなかったコーヒーを少しだけ口に流し込めば、氷室さんが驚いたように目を丸くした。

「よく知ってるわね。夏輝くん、サッカー部だったっけ?」
「まぁ、そんなところです」

 愛想笑いで返した。
 もちろん嘘だ。俺はバスケ部だし、サッカー部に知り合いがいるわけでもない。
 他校のサッカー部事情を知っているのは、兄が彼女が通っていた高校のサッカー部だったからだ。

「それでね、ある時、もう一人のマネージャーさんが入院しちゃって。私一人でサッカー部を支えなくちゃいけなくなったの」
「そりゃまた、随分と苦しい状況ですね……」
「えぇ。体力馬鹿だなんて言われてた私も、さすがに疲労困憊。でもその時、ある先輩が私をずっと気にかけてくれていたの」
「……へぇ」

 ぽっと、彼女の白い頬に薄紅が散った。それを面白くなさそうに一瞥すれば、氷室さんは可笑しそうに笑うだけだった。

「一つ上の先輩でね、とても優しい人だった。サッカー部のエースで、チームメイトからの信頼も厚い素敵な人。単純な話、私はその人の優しさに触れて、恋をしたの」
「甘酸っぱい青春ですね」
「でしょう?」

 皮肉めいた言い方だったのに、氷室さんは照れくさそうにカップに触れた。

「まるで少女漫画みたいな恋だったわ。周りには秘密で、静かに恋をしていたの。昼休み、校舎裏で一緒にご飯を食べたり、部活後の部室で他愛もない話をしたり……少しいけないことをしているみたいで、ワクワクしたものだわ」
「誰にもバレなかったんです?」
「卒業まで誰にも知られなかった。高校生でありながら、みんな他人の恋愛にそこまで興味なかったみたいだしね」
「……ふーん」

 俺だったら、絶対に興味あるのにな。そう言いそうになるのを堪えて、俺はコーヒーを啜る。酸味を含んだ苦さが、口内に広がった。

「でもね、高校二年生が終わる春……つまりは、先輩の卒業で私たちの恋は時を止めたの。先輩は海外留学を決めてしまったから。でも、必ずこっちに帰ってくるって約束した。学び終わったら、必ず迎えに来るって」
「……ロマンチックですね」
「ほんとよね。しかも、彼ね、私の左手の薬指に口づけて、『俺が戻ってくるときは、ここに誓いの証をはめる時だよ』なんて芝居がかったことを言うのよ?だから私は、ずっと彼を待つって約束したの」
「その彼は、大学を卒業して迎えにこなかったんですか?」

 分かり切ったその問いに、氷室さんはピクリと肩を揺らして目を泳がせた。我ながら、意地悪で最低な質問だと思う。その答えは、彼女も俺も知っているのに。

「……来なかったわ。今も、まだね」

 ソーサーに置かれたティーカップの中で、橙赤(とうせき)色の紅茶が揺らいだ。零れ落ちた震えた声は、紅茶に更なる苦味を与えていくに違いない。

 時を止めた氷室さんの初恋。
 詳細までは知らなかったが、彼女の恋の行く末と、相手は以前から知っていた。彼女の恋が今後叶うことがないということも、その相手が今どうしているかも、俺は全て知っている。

 なぜなら、氷室さんの永遠の初恋の相手は、留学先で事故死した俺の兄だからだ。

「ずっと待ち続けてるんだよって、妹に話したら、未練タラタラで情けないって怒られちゃったわ。いい加減諦めなよってね」

 ハの字になった眉が、苦い笑みを作り上げた。
 俺もそう思う。迎えに来ない相手など潔く諦めて、早く次の恋を始めた方がよいだろう。そうすれば、氷室さんの心に空いた穴も自然と埋まるだろうし、どうにも幸薄そうなその雰囲気も消えるに違いない。
 初恋を諦めることが難しいのは重々承知だが、このままでは彼女は永遠に幸せを手に入れられないかもしれない。

 もう二度と、彼女の許へ帰らない恋人など、忘れてしまえばいいのに。そんな無神経なことを思いながら、俺はあまりに出来すぎた兄の優しい顔を脳裏に描いた。

「もう私も年だからどうにかしないといけないのは分かっているんだけどね……。一応これでも焦ってはいるのよ?ほら、妹なんか先月に結婚しちゃったし」

 口に含んだコーヒーが変なところに入りそうだった。慌ててカップを置き、俺は氷室さんの目を見つめる。特に意図があってその発言をしたわけではなさそうだ。それに安堵しつつ、俺は静かに口を開く。

「おめでとうございました」
「ありがとう。藍那(あいな)も喜んでいたわ」

 氷室さんの妹――氷室藍那は高校時代のクラスメイトだった。異性の中で一番仲が良く、暇さえあれば一緒にゲームしたり、買い物へ行ったりしたものだ。

「妹の結婚式、どうだった?私、体調を崩して行けなくて……」

 氷室さんが困ったような顔で尋ねてきた。
 あぁ、だからあの時いなかったのか。
 ようやく納得し、俺は一度コーヒーの苦味を味わう。もちろん、高校時代に仲が良かった俺は結婚式に招待されたし、きちんと参加した。その招待状が届いた時には、後頭部を殴られたような気がしたし、絶望的な気分だったけれど。

 とどのつまり、俺は藍那に恋をしていたのだ。臆病な俺は、卒業と同時に想いを告げるなんて王子様めいたことはできず、何も進展がないまま初恋は終わりを告げたけれど。

 それからというもの、俺の恋は時を止めている。
 氷室さんが兄と約束を交わした日から一歩も進めていないのと同じように。

「……綺麗、でしたよ。とても」

 そう答えるのが精いっぱいだった。その言葉は嘘ではない。
 ただ、その反面、苦しくて妬ましい感情が心に芽生えた。秘密の共有なんて当たり前のようにしていた仲であったのに、まさか「好きな人ができた」の一言も言ってもらえなかっただなんて。
 もっとも、そう告げられてもどう答えればいいか分からないが。それでも、一言くらい報告が欲しかった。

 藍那の中では、俺はただの友達だったんだ。
 必死に彼女の一番になろうとしていたのは、俺だけだった。

 でも、今はもう藍那のことはほとんど諦めがついている。なぜなら、彼女とよく似た氷室さんが、こうして話し相手になってくれているのだから。

「私も直接見たかったなぁ」
「写真ではご覧になったんです?」
「もちろんよ。藍那ったら、これまでにないくらい満面の笑顔で、本当に好きな人と幸せを掴むことが出来たんだなって思ったわ」

 胸元で、何かが砕けるような音がした。同時に、じわりと広がる熱い何か。
 いつまでも未練がましいだろ。
 いい加減、忘れろよ。
 自分自身にそう言い聞かせても、傷つく心は静かに涙を流すだけだった。きっと、氷室さんは常にこの苦しみを味わっているのだと思う。

 迎えにこないと分かっている王子様を、孤独に待ち続けているから。左手の薬指に絡まる半透明の鎖が、彼女をいつかの青春の日々に捕えて離さないから。

「……これから、幸せに過ごしてくれるといいですね」
「そうね。私も妹の幸せを願っているわ」

 氷室さんは慈愛に満ちた顔で微笑む。反面、俺は嘘を交えた最低な言葉を吐くことしかできなかった。

 心から幸せを願うだなんて無理だ。
 仮にも、初恋の人だから。俺が生きてきて初めて本気で好きになった人が、別の誰かとこれからの日々を生きていくという事実を、そう簡単に受け入れられるわけがない。
 俺は、そんなに善人ではないのだから。
 もしも氷室さんが、この喫茶店で気まぐれに俺に声をかけてくれなければ、衝動的に命を絶っていた可能性だってないわけではない。
 ……俺の恋心も、命も、氷室さんに救われたのだ。

「恋って、難しいわね」

 不意に、氷室さんがティースプーンをかき混ぜながら言った。花柄のティーカップには、もう紅茶はほとんど入っていないのに。

「ですね。俺もそう思います」

 そう返せば、どこか安堵したように氷室さんは目を細めた。

「恋を叶えた人たちは、きっと前世で素晴らしい徳を積んだに違いないわ。いつまでも過去に囚われて前に進もうとしない私には、けして手に入らないものなんでしょうね」

 砂糖も檸檬も入っていない無糖の紅茶を、彼女はぐいっと飲み干した。おしとやかで優雅な氷室さんからは、少し想像できないような、勢いある所作であった。
 氷室さんは、死んだ兄の幻想に囚われている。おそらく、前を向こうという意思はあるだろうが、宿った誓いの幻影がそれを許さないのだろう。彼女の周囲も、きっと彼女を哀れに思って、直接的に支えになろうとしていないのだ。

 俺ならば、彼女が憧れるその誓いとやらも、叶えてやれるのに。

「……ごめんなさい、みっともない真似をして。さて、そろそろお開きにしましょうか」

 いつの間にか空になっていた俺のコーヒーカップを覗き、氷室さんは帰り支度を始めた。腕時計を確認すれば、時計の針は五時を指し示している。
 タイムアップだ。日が暮れる少し前に解散するのが、二人の間での約束だった。

「それじゃあ、夏輝くん。今日もありがとね」

 氷室さんは、感傷的な顔をしたまま立ち上がる。いつもならば、俺はここで『また来週』と笑って見送りをするのだが、どうにも彼女をこのまま帰らせてはいけないような気がした。
 ……いや、俺がただ彼女と話がしたいだけだ。

「氷室さん」と真剣な声で名前を呼び、白魚のようなその手をそっと取る。予想外の行動だったのか、氷室さんは目を丸くして振り返った。

「……夕陽、見に行きませんか?」
「夕陽を?」
「はい。少しだけでいいんです。……付き合って、もらえませんか?」

 あぁ、まるであの子に恋をした高校二年生の時みたいだ。胸元がバクバクとうるさくて、口の中が乾く。
 自分から女性を誘うのは、こんなにも緊張するものなのかと実感した。正確には、夕陽を見た時にしようと思っていることに対して、俺は緊張しているのだろうけど。

「……えぇ。ぜひ」

 少し間を置いて、氷室さんはいつものように微笑んだ。





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