第2話

文字数 2,984文字

「……綺麗、ね」

 緑地公園の小高い丘の上、橙色の夕映えを浴びながら氷室さんが静かに目を伏せた。一本の大樹の根元で、二人並んで沈みゆく夕陽を眺めていれば、この世界に二人きりかもしれないという錯覚に陥った。

「ここから見える夕陽、いつか氷室さんにも見て貰おうって思ってたんです」
「ふふ、嬉しいこと言うのね。もしかして、慰めようとしてくれたの?」
「……いえ」
「あら、違うの?」

 申し訳なさそうに困り顔をした彼女に否定すれば、小首を傾げられた。
 
 確かに、氷室さんを慰めたいという気持ちはある。けれど、俺は自分のために彼女をここに連れてきたようなものだ。

 俺も彼女も、いい加減に前へと進むべきだ。どんな形でもいい、無限に続く『これから』に乗って歩き出さなければならない。

 だから、俺はこの数か月の想いを、今ここで告げようと思う。
 大樹にはもう桜は数えるほどしか残っていないし、初恋の話をしたばかりでタイミングが悪いことも分かっている。自分がどれほどずるいかも。
 それでも俺は、彼女と共に未来を歩みたい。
 過去に囚われた彼女を、俺が奪い去って未来へと連れ去ってやる。

「氷室さん、あの……」

 ようやく決意して顔を上げた時だった。
 氷室さんの視線が、遠い夕陽に向いていた。それは僅かの間だったけれど、確かに氷室さんは夕陽の向こうにある異国の地を見つめていたように思う。遠い世界に旅立った兄の姿が、そこには確実に映っていた。

 俺は、すぐにはその二文字を口にすることができなかった。氷室さんが、兄をどれほど愛しているかを、実感してしまったからだ。

 同時に、俺もまた過去に囚われたままの情けないヤツだと痛感した。藍那への恋心を断ち切れないまま、氷室さんを心から愛そうだなんて、欲張りな野郎だ。
 でも、俺は氷室さんが好きだ。幸せにしてやりたいと、本気で思う。最初は氷室さんに藍那を重ねていて、代わりと言っても過言ではない存在だと思っていたにも関わらず、いつしか氷室さんという一人の女性に心惹かれていたのだ。
 そう思えば、思わずふと乾いた笑みが零れ落ちた。

「……夏輝くん?」

 俺の言葉が届いていたのか、はたまた笑声を聞かれてしまったのか、氷室さんが不思議そうに俺を呼んだ。
 深呼吸をして、俺は閉じた目をゆっくりと開く。

「……好き、でしたよ」

 残り少ない桜が散らす花弁に紛れたそれは、彼女の妹に向けたものだっただろう。あの桜の花弁と共に、長い長い初恋は終わりを告げたのだ。ここまで大切に守ってきた彼女への純粋な気持ちも、きっと一度終わる。

 さよなら、俺の初恋。
 今はまだ曖昧で不定形な新しい恋を、俺は大切にしていくよ。
 氷室さんが、これからも俺と共に居てくれればの話だけれど。

「……私も、好きだったわ」

 その声に、俯いた顔を勢いよく上げた。あぁ、終わったな。なんて涙が零れ落ちそうだったのに、氷室さんが見ていたのはあの夕焼けの向こうだった。

 彼女なりの、一つのけじめなのかもしれない。俺に初恋の全てを話したのは、彼女自身も過去から解放されたかったからなのだろうか。
 もう逢えない王子様に向かって告げられたようなそれは、零れた一つの雫と共にどこかへと消えていった。

「……俺たち、なんだか似てますよね」

 思わず微笑みながらそう告げれば、「そうね」と少しだけ戸惑ったようなぎこちない笑みが返ってきた。

 過去の恋に縛られて、時を止めた二人。そして、当時の恋に似た感情を抱いて少し歪な関係となった俺達。
 面白いくらいに似ていて、思わず二人で笑い合った。

「私たち、未練タラタラね」
「……気が付いてたんですか」
「なんとなく、ね。さっきの様子見て、妹のこと好きだったんだなぁって。それと同時に、夏輝くんがあの人の弟だっていうことも、何となく察しがついた。……違う?」
「あぁ、その通りですよ。わざと苗字をずっと名乗らなかったのに、よく気が付きましたね」
「妙に詳しかったから、そうなのかなとは思ってたの。黙っててごめんなさい」
「いや、俺の方こそ隠すような真似をして……」

 なんだ、全てバレていたのか。
 肩の荷が下りたようで、ホッと体が軽くなる。自然に笑い合えるくらいには、俺達の間に和やかな雰囲気が流れていた。

「……氷室さん。今更ですけど、お友達から始めませんか?初恋に心を囚われて動き出せない者同士、仲良くしましょうよ」

 一歩踏み出し、氷室さんの目を真っすぐに見つめた。

「もちろんよ。……でも、お友達どまりかもしれないわ。私には、どうしてもあの人を忘れることはできないの。……長い長い時間がかかると思うわ」
「それでも構いません。俺、氷室さんとあの喫茶店で話している時間が大好きですから」

 笑いながらそう言えば、氷室さんは決まりが悪そうに一度だけ目を逸らした。泣きそうな顔をした氷室さんを見つめ、再び深呼吸をする。
 今は、それでいい。
 急がなくてもいいんだ。

 恋に遅いも早いもない。俺達は、遠回りをしすぎたのだ。今更、どれだけ遠い道を歩もうが、知ったことではない。
 待つのも、じれったいほどの距離感も、慣れているから。

「……でも、俺、あなたを諦めませんから。あなたが過去に置いてきた薬指の誓いは、俺が必ず取り戻してみせます」

 俺は彼女の左手を取った。特に抵抗もなく、氷室さんは潤んだ目のまま俺を見つめている。

「俺にはもう、誓える相手はあなたしかいませんから」

 そっと左手の薬指を撫でれば、彼女と兄の甘酸っぱい青春の日々が垣間見えたような気がした。あの時のような青春は、俺達にはもう取り戻せないけれど、きっとこれからの日々は穏やかで淡い光に包まれていると思う。

「いつかここに、あなたを幸せにするリングをはめて差し上げます」
「……ほんとう?」
「はい。その時には、今よりももっと、氷室さんを心から愛していると思います。過去を断ち切って、あなただけを幸せにすると誓います」

 はっきりと断言すれば、氷室さんの目からぽろりと涙が零れた。透明な雫は、温かな夕陽を取り込んで、彼女の左手に落ちた。薬指で弾けたそれは二つに分裂して、やがて指の合間をすり抜けていく。それは刹那の間だけ、橙色の指輪を象っていた。

「……私も、頑張る。待ってるだけじゃダメだって、本当は分かっているから。何をしようにも、遅すぎるんじゃないかって、勝手に決めつけてたから。……前を向くには時間はかかるけど、私、夏輝くんとならこれからの日々を歩んでいけるような気がする」

 ごめんね、ちょっと待たせてしまうかもしれない。

 彼女は最後に不器用に微笑んだ。そっと重ねてきた美しい手先は、春の温もりをはらんでいた。

「今は、それが聞ければ十分です」

 いつか、彼女が俺の想いに応えてくれる日まで。
 その時は、兄が果たせなかった誓いを俺がこの指にはめてやるのだ。

 その先どうするかは、まだ分からない。ただ、その誓いさえ守って、互いを想い合える関係になれたとしたら。

 それからの日々は、その時に考えればいい。
 俺達は、まだまだ始まったばかりなのだから。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み