第2話 さとみと由香への告白

文字数 9,245文字

 珍しく早起きし、部屋の空気を入れ替えるために窓を開ける。雲が刷毛で塗ったように高い空を淡くぼかし、窓の下のひらべったい印象の住宅街の日向と日陰の境界を動かしている。昨夜の雨のなごりか、温かく、少し湿った風が吹いていて、風景が間延びして感じられる。特にやることもなく、水中をゆっくりと浮上するあぶくのように時間を過ごす。
 先月会ったばかりのさとみから電話があったのは、そんな日曜日の午後1時頃だった。携帯の画面にさとみと表示されたのを見て、嬉しさと同時に何かよからぬことが起きたのではという不安な気持ちに襲われた。これまで面談日以外の日にさとみから電話があったことはなかったからだ。親から言われたことは几帳面なほどに守る子だった。
「どうした?」
 良太の第一声は、必然的にそうなった。しかし、さとみの声には、いつもと変わらぬ穏やかさがあった。
「いきなりおかしくない? 娘が電話してあげてるのに」
 してあげてるとは何だと思いながらも、実は娘からの電話は、それだけで嬉しい。
「だって、面談日でもないだろう」
「別に面談日以外に電話しちゃあいけないって決まりないもの」
 確かに、電話については、そういう決りごとはなかった。
「まあ、そういえばそうだね。それで、何か話でもあるの」
「うん。今日そっちに行っていいかな?」
「それはまずいでしょ。約束を破ることになって、パパがママに怒られちゃうよ」
「だから、ママには内緒で」
 秘密めいた声で言う娘に、女の子の成長の早さを感じる。
「う~ん、弱ったなあ」
 内心の喜びを悟られないよう、心底困ったようなニュアンスで言う。もちろん、さとみの言い分をそのまま認めるわけにもいかない。
「実はもう側まで来てるんだ」
「えっ」
 確信犯だ。近くまで来ていては帰すことなどできないことをわかっている。思わず良太は携帯を持ったまま立ち上がった。むろん、立ち上がったからといってさとみの姿が見えるわけではないけれど。それでも道路側の窓に近づきカーテンを開け、外の道路を見下ろすが、そこにさとみの姿はなかった。
「どこにいるんだ」
「うん?ああ、コンビニ」
 側といっても、良太のマンションから少し離れたところにあるコンビニにいるらしい。元妻との約束を破ることには抵抗があったが、かといって、このまま返すことも躊躇われた。何らかの理由があって、さとみなりの覚悟を持ってここまで出てきた可能性もあるのだから、その思いを受け止める必要があるのではないかと自分に言い聞かせることで、自分の行動を正当化しようとしていた。どこまでも娘に弱い父親であった。
「ねえパパ、行ってもいいでしょ」
「わかった。とにかく来なさい」
 とにかくと言うことで、近くまで来てしまった娘を緊急避難的に受け入れるという口実を、自分に与えた。
「じゃあ行くね。ついでに何か買っていくものある?」
「パパのほうはないけど、さとみが買いたいものがあったら買ってくれば」
「じゃあ、アイス買ってく」
 さとみは昔からアイスが大好きだった。冬でも冷蔵庫にはいつもアイスがいっぱい入っていたのを思い出す。でも、こんなところはまだ子供だなあと思う。それから5分と経たずに、さとみはやってきた。
 ドアを開け入ってきたさとみの姿は、白のカットソーの上に黒のジャケット、下はデニムのパンツで、赤いスニーカーだった。背中にリュックを背負っている。いかにも軽装で、友達の家に遊びに行くという感じだ。きっと普段着はこんな服装なんだろうと思う。しかし、良太にとっては初めて見るさとみのファッションだったので、思わず全身を眺めていた。
「何?」
 気味悪そうな顔をしたさとみの目に出くわす。
「こういうスタイル珍しいなと思って」
 面談日には、いつも恵子の意向、趣味でガーリーなファッションでやってくる。先月来た時は、白のミモレ丈のプリーツスカートに、春らしいラベンダーのニットを着ていた。恵子に似て美人だけど癒し系で優しい顔立ちのさとみには、そううした清楚で可愛らしいコーデが似合うと、これまで思っていた。でも、今年になってから長かった髪を切ってカールボブにしたので、今日のようなジーンズ姿も似合う。
「パパのところに来る時は、ママの着せ替え人形になってるからね」
 本人も恵子の意向をわかっていながら文句を言わないところが、さとみらしい。
「でも、すごく似合っているよ」
「ああ、そう」
 父親のそんな関心にも、娘は無頓着だ。リビングダイニングに入ると、さとみはリュックをソファーに置いた後、一直線に冷蔵庫に向かう。
「アイス後で食べるから冷蔵庫に入れておくね。ちゃんとパパの分もあるから」
 そう言って良太の方を見る。こういうところは優しい。
「いくらだった?」
 勝手にお小遣いをあげると、元妻に怒られるので、アイスの分だけお金を渡そうと思ったのである。
「はい、これ」
 ジーンズのポケットからからレシートを差し出す。受け取った良太が金額を確かめ、財布からお金を出して渡す。ソファに座っているさとみを見ても、特に変わった様子は見られない。
「何か飲む」
「う~ん、アイスティがいい」
 良太に似てさとみはコーヒーが苦手だ。
「わかった。今用意するから待ってて」
 そう言って、良太がキッチンに向かうと、テレビの音量が大きくなった。チャンネルを変え、自分の好きな音楽番組を選んだようだ。
「はい」
 さとみの前にアイスティを置く。さとみの目は画面を見ているようでありながら、目線が宙に浮いているのを良太は見逃さなかった。これほど心ここにあらずというさとみを見たことがない。いったいさとみに何があったのだろう。気にはなったが、良太のほうから話を向けると、きっと口を噤んでしまう。さとみにはそういう難しいところがあった。
 なので、良太はいつものように何気なく近況を聞く。それに対してさとみも面倒くさそうな顔をしながら、普通に返事をしていた。ところが、次第にさとみの表情が空洞になっていく。さとみは心の中にあるものを吐き出そうかそれとも止めようか逡巡しているように思えた。良太は、本人が話す決意をするまで辛抱強く待つことにした。近況の話も一通り終わったところで、沈黙が訪れ、部屋にはテレビの中のアイドル歌手の歌声だけが支配していた。さとみの思いが水のように良太の中に浸食し、いたたまれなくなった良太は、用もないのにキッチンへと向かおうとした。その背中にさとみの声が被さった。
「ママに好きな人ができたらしいの」
 良太が遠くへ行ってしまうとでも思ったのか、思いのほか大きい声だった。さとみの複雑に絡み合った思いが、部屋の空気の中にすっと溶けた。  
 離婚して3年が経つのだから、恵子に好きな人ができても不思議ではない。自分は別れてしまったけれど、恵子は十分に魅力的な女性だ。世間の男が声をかけるのはむしろ当然のことだろう。その中に恵子のほうが心惹かれる人が現れても不思議ではないし、良太としては彼女が幸せになるのであれば歓迎したいと思う。でも、さとみにはそう思えないのであろう。先月の面談日にさとみが不機嫌だった理由もここにあったのかもしれない。だから、あの日さとみは私たちの離婚の理由を聞いてきた。さとみの心の中に、微かにでも二人の復縁を望む気持ちがあったのだとしたら、さとみの思いが切ない。
「そうかあー、ママがさとみにそう言ったのか」
 重くならないよう、努めて軽い感じで言う。
「前の月の面談日の少し前の夕食後に、急に言われたの。さとみ、ママ今付き合っている人がいるの。ママ、その人のことが好きなのって」
 恵子としても、悩んだ末に、ごまかさず素直に言ったことだと思うが、やはりそれは残酷だ。
「さとみはそれが嫌なのか?」
「わかんない。でもママがママでなくなってしまう気がするの」
 さとみの寂しそうな顔が、どんどん透き通っていく。
「ママ、その人と結婚してしまうかもしれない」
 さとみは、恵子の一本気な性格を思い、先を予感しているのかもしれない。自分の母親に新しく好きな人ができるまでは許すけれど、結婚は許せないのかもしれない。結婚したら、ママがママでなくなると思い込んでいるのだろう。
「それはまだわからないじゃないか」
「でもママは…」
 そう言ってさとみは口を噤んだ。なんと慰めたらいいのだろうか。さとみは恵子のことを本当に愛している。だからこそ、揺れ動いている。
「さとみ、気持ちはわかるけど。さとみはもっと自分のことを考えたほうがいいよ。残酷なようだけど、ママにも新しい人を好きになる自由はあるのだから」
「そんなのわかってる。だけど…」
 さとみも理屈の上では理解している。でも、感情がそれを許せない。
「嫌だったら、しばらくパパのところへ来るか。パパがママに話してもいいぞ」
「そういうことじゃないでしょう。もういい」
 半分冗談、半分本気で言ったが、きつく言い返されてしまった。
「ごめん。余計なことを言ってしまった。どんな思いでも、とりあえずはパパは聞くよ。ママとの約束はあるけど、さとみが辛いと思ったり、苦しいと思ったりしたことがあったら、いつでもパパのところへおいで。パパに話すことで、少しは気が楽になるかもしれないから」
 女性というものは、何かあった時、それを吐き出すことで、精神的バランスを取り戻すことができるということを思い出した。
「うん…」 
 さとみも心の中にため込んでいた思いを吐き出したことで、幾分気持ちが楽になったとみえる。顔に明るさが戻っていた。
「忘れないうちにアイス食べたら。でも、せっかく来たんだから、パパのオムレツ食べていくか。アイスはその後食べればいじゃない」
 なぜだか、さとみは良太の作るオムレツが好きだった。というか、オムレツだけは喜んで食べてくれる。
「うん」
「じゃあ、手を洗っておいで」
 さとみが洗面所に向かったのを見て、良太はキッチンへ行き準備を始めた。ところが、ほどなくさとみが戻ってきて、良太の後ろ姿に声をかけた。
「パパ」
 胸の内に押し寄せる怒りを押し殺したような、強いけれど低い声だった。振り向いた良太が目にしたのは、いつも由香が使っている歯ブラシを持ったさとみの姿だった。
「これ何?」
 声が固く軋んでいる。一目で女ものとわかる、使いかけの歯ブラシがすべてを物語っている。さとみとの面談日には、歯ブラシに限らず、由香が日頃使用しているものはすべてさとみに見つからないよう隠してあった。しかし、今日はさとみが突然来たため、歯ブラシだけ隠し忘れてしまったのだ。良太は致命的な過ちを犯してしまった。それでなくとも、母親のことで傷ついているさとみに良太が追い討ちをかけてしまったのだ。どう答えるべきか、言い淀んでいる良太の姿が、さとみには決定打となった。
「最低、何よ二人とも。もう嫌、帰る」
 そういって、さとみは歯ブラシをソファーに投げ捨て、自分の荷物を奪うように取り上げて、硬い背中を向けたまま部屋を出て行った。
 自分の心の拠り所であるはずの両親から裏切られたさとみの怒りや悲しみや痛さが、空中に揺らめいている。
「さとみ…」
 良太はさとみの出て行ったほうに向かって弱弱しく声を出して見るが、もはや引き留める手立てはない。自分の愚かさに呆れ、打ちのめされ、地獄の淵をのたうちまわる。ソファーに崩れ落ちるように座り、頭を抱え込んだ。部屋中のすべての家具や、真っ白な壁が非人間的な冷たさで自分を嘲笑っている。
 さとみのいなくなった部屋は、色を失っていた。川口から病気を告げられた後、良太の心を一番占めていたのがさとみのことだった。自分の病気のこと、余命のことを、いつ、どう伝えるべきか、良太を苦しめた。人生の中で、一番繊細な年頃にいるさとみのことを考えると、伝えること自体が辛い。彼女がどう受け止めるかも心配だった。結論が出せずにいたのだが今日思いもかけずさとみが来てくれることになり、良太は思い切ってさとみに告げる決心をしていた
 後になればなるごど、話すのが辛くなると思ったからだ。だが、これでその機会を失ってしまった。さとみは、次の面談日も、その次の面談日も良太の元へは来ないだろう。そして、その次は、たぶんもう遅い。それくらい酷い仕打ちをしてしまった。
 カーテンの向こうはいつの間にか夜の影に覆われていた。どんどん縮んでいく部屋の中にひとり残された暗闇の中で、良太は重い決心をする。
 このままさとみには直接知らせないで、すべてが終わった後に、専務の大垣から伝えてもらうことにする。このままさとみの顔を見られないと思うと辛く、悲しいが、自業自得だから致し方ない。心の中を空にする。
 結局、大垣にはまた荷の思い役割を引き受けてもらうことになり申し訳ないと思うが、彼なら自分の思いを理解して協力してくれるだろう。

         九
 キッチンで由香が料理を作っている。良太はリビングのソファーに座って、テレビ画面を見ている、ふりをしている。見てはいない。ただ眺めているだけだ。頭の中では、この後、由香にどう切り出し、どう話すか、先ほどからずっと頭の中でシミュレーションをしている。さとみへの告白が失敗に終わったことで、良太は神経質になっていた。
 本来なら楽しいはずの金曜日の夜が、良太にとっては苦悶の時間になっている。由香は出来上がった料理を次々ダイニングテーブルの上に並べていく。その姿は今にも口笛でも吹きそうなほど喜びに満ち溢れている。そんな姿を見てしまうと、良太は自分の決心が揺らぎそうになるが、ここは心を鬼にしてやりきらなければならないと、自分に言い聞かせる。
「ねえ、良太、用意できたからテーブルに移って」
 由香の弾んだ声が聞こえる。テーブルの上には、由香の自慢の料理が並び、いい匂いが立ち上がっている。
「美味しそうだね」
 実際、美味しいに違いない。しかし、緊張のせいか、本当のところあまり食欲はなかった。
「『そう』って何。美味しいにきまっているじゃない。良太のためにたっぷり愛情を込めて作ったんだから」
「そうだよね、ごめん。いつもありがとう」
 由香への感謝の気持ちが込み上げてくる。まずい、涙が出そうだ。こんな顔を見られるわけにはいかない。慌てて洗面所へ向かう。
「ちょっと手を洗ってくる」
 戻ると、由香がワインを開けて待っていた。
「体調悪い?」
「なんで」
「顔色が良くないみたい」
「いや、なんでもないよ。じゃあ始めようか」
 特に記念日でもない、普段と変わらぬ金曜日の夜の食事がいつものように、穏やかに始まった。良太も食事の間は、極力いつも通りを心掛けた。会話はいつも由香が、会社であった面白い話を聞かせてくれる。このところもう会社へはたまにしか出社していない良太にとって、そのひとつひとつが新鮮であり、楽しくもあった。おかげで、これまで気づかなかった社員の人となりがわかり驚くこともあった。今日は専務の大垣が最近やってしまったドジな行動について話している。由香は学生時代演劇部にいたせいか、話し方や表現の仕方が豊かで聞く者の気持ちを掴むのがうまい。
 この後話さなければならない深刻な話のことも忘れ、思わず大笑いをしていた。学生時代から知っている大垣に、そんな面があること自体がおかしかった。楽しい食事はあっという間に終わってしまった。良太は再びリビングのソファーに座り、由香の後片付けが終わるのを待った。
「はい、お待たせ」
 由香が食後の紅茶をローテーブルの上に置く。
「ありがとう」
 さっきから、いつも以上にありがとうという言葉を使っていることに気づく。無意識に出てしまうのであろうか。目の前には、由香の、少し上気した顔がある。会社で見せる、凛々しく、時に冷たい表情はまったくなく、むしろ隙だらけで、安心しきった優しい顔。
 それでいて、時折無意識に見せる表情や仕草は、はっとするほど色気がある。もともと美人だが、それが普段は近寄りがたいオーラとなってしまっている。ところが、こうして気を緩め、自然体の由香は、まったく違う女に見える。このギャップに、由香と付き合った男はみなやられてしまうのだろう。プライベートな由香を知ってるのは俺だけだという男の所有欲を刺激するのだ。もちろん、良太もそのひとりに過ぎない。
「付き合い始めてどれくらいになるかなあ」
「一年とちょっと」
「そうだよなあ。まさか由香とこうなるとは思っていなかった」
「私だってそう」
 二人とも、時間とともに流れるように生きてきた。身体から空気が抜けていくような幸福感に浸る。
「突然だったけど、私は嬉しかった」
 新年会の日の出来事が頭を過り、良太は少し気恥ずかしい。あの時自分はまるで20代の若者のような行動をとってしまった。
「あの時僕は、由香の告白を受けて、自分もずっと由香のことが好きだったことに気づいたんだ」
「嬉しかったけど、でもあなたはあの時かなり酔っていたわ。だから、社長の気の迷いかもしれないと思うことにしたの」
 由香は、良太でもなく、あなたでもなく社長という言葉を使った。あの時、由香にとっては良太ではなく、自分の上司の社長以外の何者でもなかったのだ。だから、由香は何もなかったことにして、自分を守ろうとしたのだろう。
「あの後、前にも増して冷たかったもんね」
「前にも増してって、私って、そんなにひどい?普段」
「う~ん、そう見える時があるということ。でも、仕事している時の由香はある意味女王様みたいで、男どもがひれ伏しちゃう迫力があるんだよね。でも、誤解しないでね。これ褒めているんだから。由香の仕事ぶりを見た男どもが、俺ももっと頑張らねばという思いにさせてくれるほど仕事ができるという意味」
「女王様なの、私。なんか嫌だな、そんな噂」
「だから、誤解だって」
 良太はちょっと言い過ぎてしまったことに反省する。
「でもね、たいていの男は表面上強がっていてもほとんどがM男だから、そんな女性に憧れるんだよ」
「ええー、なんかやだ、それ」
 余計まずいことを言ってしまったようだ。
「心配しないで、同性の、あの山根女史だって、由香の仕事ぶりを高く評価しているよ。そういうことだよ」
 なんとかごまかそうとするが、これ以上、この話題を続けるのは得策ではない。
「山根女史がいない時に誘ったのは仕事の話だと思った?」
「正直なところ、社長が何考えているのかわからなかった」
「まあ、由香にすればそうだよな。でも、僕のほうも由香の本心がわからなかった。お互い手探り状態だったんだよなあ」
 まだわずか一年前くらいの出来事で、古い話ではないのに何か懐かしい。切り取った一瞬の光景のひとつひとつが眩しいいほど輝いている。良太にとっては、もう二度と味わうことのできない、恋の先端の瑞々しい感情。
「良太、好きよ」
 感慨に耽っていた良太に由香が囁くように言った。
「ありがとう」
 そう答えた良太だが、いつもなら言う『僕もだよ』という言葉は飲み込んだ。そんないつもと違う良太に、由香は何かを感じ取ったのだろうか。さきほどまでの笑顔がすっと顔の奥へ消え、暗い影が差していた。
「私のこと嫌いになった?」
「ん?」
 明らかな誤解だが、その切羽詰まった表情は頼りなさげに揺れている。良太は由香の思わぬ反応に戸惑っていた。由香の目は、怖いくらいに澄んでいた。
「どうした? もちろん、好きに決まっているじゃないか」
 そう言ったが、その答えを由香は信じていないようだった。黙ったままだ。そんな由香の姿を見ながら、今度は良太が自分でも驚く言葉を口走っていた。
「大好きだけど…、もう別れよう」
 今でもあの時、なんであんなことを言ってしまったのかわからない。本当は自分の病気のことを告げるはずだったのに…。何かがぽっきりと折れてしまったせいだろう。カップの中のこげ茶の液体がてかりと輝いた。
「なぜ…」
 由香はその一言を言うのがやっとだった。その後、良太が話したことは自分の放ってしまった言葉に、自ら折り合いをつけただけだった。
「このまま二人の関係を続けても、由香を不幸にするだけだと思うんだ。付き合い始める時に言ったように、もう僕は誰とも結婚する意思はない。由香は、そんな男に愛想をつかしたほうがいい。というか、愛想つかしてほしい。お願いだ。由香を好きになればなるほど、そういう思いが強くなってきたんだ。由香にはもっともっと幸せになってほしいんだよ。今なら間に合う」
 良太の本心と言えなくもなかった。でも、限りなく身勝手で、しかも別れたい女に対して男が使うあまりに陳腐な台詞であることもわかっていた。こんなことを言いたかったのではない。だが、もう止めようもなかった。由香のソファーの後ろの壁にかけてある時計の、時を刻む音だけが、とってつけたように現実の時を知らせている。
 まっすぐ前を向いている由香の眼からは、止めどなく涙が流れていた。でも、その表情は決して崩れていなかった。凛とした美しさが溢れていた。
「そんなのずるい」
 つい最近、誰かから同じような台詞を投げかけられたなと思い、それが娘のさとみからであったことに気づく。由香はどんな思いを込めて、ずるいと言ったのだろうか。でも、自分が限りなく卑怯な男に思えて、愕然とした。
「僕は嘘なんてついていないよ」
 しかし、由香は良太の言葉に、子供がいやいやをする時のように、首を左右に大きく振りながら、涙を流し続けた。良太が由香の肩に手を触れようとすると、その手を激しく払った。良太にできることはもう何もなくなった。ただ、由香の涙が収まるのを待つだけだった。どれくらいたっただろうか、由香の瞳から涙は去り、そこには清々しいほど冷めた由香の顔が現れていた。まっすぐ良太の顔を見て、今度は彼女のほうから別れを告げられた。
「わかりました。私たち別れましょう。短い間でしたけど、私は楽しかったです。あなたと出会えて嬉しかったです。私はあなたを愛することができて幸せでした。ありがとうございます」
 最後に刹那的な薄い笑顔を良太に向けたが、すぐに真顔に戻り、軽くお辞儀をしてリビングから立ち去った。その背にかける言葉を良太は持ち合わせていなかった。足元が沈み込んでいく。恋の燃えかすを見つめながら、心が半分もぎとられたような感覚に陥る。背をまるめ顔を両手で覆い泣こうとしてみるが、泣くことすらできない。
        
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