第4話 旅立ち

文字数 13,938文字

  十四
 軽いノックの後、川口が看護師を伴い入ってきた。担当医の回診だった。看護師から症状の確認をとった後、良太の顔を見ながら川口が言った。
「何か要望はないか」
 病状が進行し、ついに入院となった。残りの時間をここで過ごすことになるのだと、覚悟を決めた。だから、入院前に、今住んでいる部屋の荷物や家具などを、大垣の手を借りて処分した。がらんどうの部屋を見ると、案外さっぱりした気持ちになった。余分なものをすべて捨て去って、なんだか、自分の身体まで軽くなったようだった。最後に洗面所の鏡で自分の全身を眺めた。以前よりだいぶ痩せてしまったが、顔にはまだ生気が確認できた。
「要望?あるとしたら、その美人看護師さんと二人っきりにしてほしいということくらいかな」
 自分の担当ではないけれど、時々やってくるその看護師の名は、奥山という。ネームプレートでしっかり確認済みだ。良太が奥山のことが印象に残っているのは、とにかく明るく元気で、どの患者にも優しく声をかけているところだった。性格の良さはみんなが感じているようで、良太だけではなく、みんなに好かれている。しかも、美人という噂だった。
 看護師は普段マスクを着用しているため、目元しかわからない。だいたいの男性患者は、その目元から全体の顔を想像して楽しんでいる。奥山の場合、目が大きくパッチリしているため、美人を予想してしまいがちだが、マスクをとったところを見るまではわからないと思っていた。これまで歯科医院に通っていた時などに、マスクを外した女医や看護師にがっかりさせられた経験を持っているので、期待は禁物だった。
 しかし、先日ナースステーションで、偶然奥山がマスクを外すところに遭遇し、噂どおりの美人であることが判明したのである。
 良太のおふざけに、普段の奥山なら軽くかわしてくるはずなのに、下を向いてしまった。隣に医師の川口がいるから、余計な返事を避けたのだろうか。そんな奥山をちらっと見た川口が、少し怒気を含んだ声で良太に言った。
「まあ、そんな冗談を言えるほど、元気ということかな」
「うん?彼女が美人なのは冗談じゃないけどね」
「私はそういうことを言っているんじゃなくて…」
 川口は呆れたような顔を見せる。すると、下を向いていた奥山が川口の顔を見た。その目の中に、川口に対する思いや感情や共犯のよしみのようなものが蠢めいているのが感じられた。
「おっ、そういうことなんだ?」
「何だ。そういうことって」
 一瞬怯んだような表情を見せる川口。だが、すぐに体勢を整え、腕を組みながら、怒ったような、困ったような顔をして言った。
「そういうことって、そういうことでしょう」
 そう答えた良太だが、その時、明らかに奥山が狼狽しているのを見て、良太は確信を持った。この二人は付き合っている。川口はまだ独身なのだから、二人が付き合っていてもおかしくないのである。しかも、お似合いのカップルだ。
「もういい。次の部屋へ行こう」
 医者にもあるまじき言葉を残して、川口は奥山を引き連れ部屋を出て行った。
 良太は病院生活の中に、新しい楽しみを見つけることができたことに、ご満悦だった。
 入院してからの楽しみといえば、食事と看護師と交わす会話ぐらいなものだった。入院のことは大垣にしか知らせていないため、見舞客は来ない。幸い、まだ食欲は普通にある良太にとっては、食事が大きな楽しみであった。入院してみて、最近の病院食が案外美味しいのに驚いた。なかなかのレベルである。後は、奥山のような気さくな看護師をからかうことが楽しみくらいだった。ところが、川口と奥山の関係を知ったことで、新たな楽しみを見つけた思いだった。病院内で二人が付き合っているらしいという噂は、今のところ聞いたことがない。でも、良太は二人が恋人同士であると確信していたので、今後二人が病院内でどんな感じで接触するのかを見てみたいと思った。ちょっと悪趣味だが、そのくらいは許してほしい。
 病院の夜は早い。消灯時間が10時なので、入院した当初は時間の過ごし方に困った。自宅では、12時前には寝たことはなかった。大体、午前一時か二時くらいにベッドに入る生活だった。しばらくは読書灯つけて本を読むことで過ごしていたが、それにも飽きてしまった。
 暗い中、ベッドを下りた良太は窓へ近づき、カーテンを左右に開ける。眼下には西新宿の街の夜景が広がる。目を少しあげると、高層のオフィスビル群の部屋の明かりが点在している。それは夜景の一部であり、欠かせないもののようにも見える。でも、一方それは、この時間まで仕事をしている人たちがいることを示している。日本の、東京のエネルギーの証と言われ、日本の経済発展を支える原動力になっている。もうその中に自分はいない。底無しの孤独感が湧いてくる。
 だが、最近、若い人が、企業の中で労働基準法に違反する長時間労働を強いられた末に自殺するということが多発している。会社に命を奪われたといっても過言ではない。あのビル明かりの中に、今も辛く、苦しい思いをしながら働いている人たちがいて、その叫び声が闇に吸い込まれているかもしれないと思うと、何とも悲しいし、切ない。
 その時、部屋の扉をノックする音が聞こえた。夜景に目を落としたまま「どうぞ」と答える。ドアが開き、静かに入ってきたのが川口だということは、その動きでわかった。良太は姿勢を変えなかった。川口は、そんな良太の横に並び、同じように夜景にかがみこむように目を落とす。闇の中で仄かな光が気づかわしげに揺れ動いている。何か話があって来たのに違いないのに、何も言わない。
「きれいに見えるものの裏には、必ず汚いものがあるもんだよな」
 良太は先ほどまで自分を支配していた思いを口にしたのだが、川口には何のことだかわからないはずだ。だが、良太の言葉に何も答えずしばらく黙っていた川口がぼそっと言った。
「それを当人たちは汚れだと気づいていないんだよ」
 川口が良太の独り言のような言葉をどう推測し、何を感じとったのかはわからないけれど、川口の言う通りだった。
 いわゆるブラック企業に対して遺族が起こした裁判記録を見たことがあるが、最後まで経営者は自分のしたことの汚さをわかっていない。本気でわかろうとしていない。だから、判決が出ても、結局型通りの謝罪はするけれど、それはあくまで謝罪のふりだ。汚れは汚れのままその経営者に残っている。かつて経営者の一人であった良太は、そんな経営者たちを断じて許せないと思う。
「川口、お前、奥山さんと付き合っているんだろう」
 いつまでも肝心の話を切り出さない川口に、良太のほうから話を仕掛ける。
「ああ」とだけ答える川口。
「似合いのカップルだと思うよ」
「ありがとう」
「幸せになってくれよ。俺はお前の結婚式には出られそうにもないけれど」
「畑中…」
 湿り気を帯びた川口の声の中に、たむろしている自分の影が見える。
「なあ、川口。結婚生活に失敗しないためには何が一番大切か教えてやろうか。何せ、自慢じゃないが、俺は結婚に失敗しているからわかるんだ。何事も成功する方法よりも、失敗する方法を知っているほうがうまくいく。これは、俺の経営者としての経験でもある」
「なるほど」
 二人とも、椅子に座ろうとは言わない。眼下に見える都会の孤独は深まるばかりだ。光と闇の先に、二人の感情の切れ端が浮かんでいる。
「実は俺、川口から病気と余命のことを聞いた時、残された時間をどう使うか、どう過ごそうか考えたんだ」
「うん」
「たとえば、銀座で遊びまくるとか、海外旅行に行くとか、娘をさらってどこかへ逃げるとか。最後のは冗談だけど。でも、実際色々なことが頭に浮かんだんだけど、そのどれもが俺には現実感が持てなかったんだ。結局俺が選んだのは、過去に付き合った女性と会うことだった。でも、なんでそれを選んだのか、その時は自分でもわからなかった」
「そうだったのか」
「突然話が変わるようだけど、俺が中学生時代に両親を交通事故で失って、その後伯父夫婦の世話になったことは知っているよな」
「ああ、もちろん、知っている」
「伯父夫婦はいい人で愛情深い人だった。俺のことを、ひとりいた実の息子となんらかわりなく育ててくれた。でも、やはり実の両親とは違うんだよね。しょうがないことだけど。中でも、どうしても嫌なことがあったんだ。何だかわかるか?」
「わからない」
「食事だよ」
「食事?」
「そう。昼は給食だから学校で食べるけど、朝食と夕食は家で食べるだろう。それが俺には愛情の施しを受けているようで苦痛だった。屈辱で耐えられなかった。むろん、伯父夫婦にはそんな意識はなかったんだと、今ならわかる。でも、当時の俺にはそうとしか思えなかったんだ。だから、早く大人になって、自分で稼いだ金で食事がしたかった。高校時代からアルバイトに精を出したのも、そんな理由だった。精神が歪んでいたんだな。その歪みが俺という人間の一部になっていた。そのせいで見えなくなっていたことがいっぱいあったんだと思う。一番大切なものが何かに気づかなくなっていた。俺のラストランは、そのことを俺に気づかせてくれた。言い換えると、俺に一番足りなかったことを教えてくれたといってもいいような気がする。今更遅いよな。笑っちゃうだろ」
 川口は何も言わない。言いようがないのだろう。良太と並んでただ窓外の景色を眺めている。
「神様がいじわるをして、俺の人生を少し短くした理由はそこにあったと思う」
「そんな風に自分を責めるな」
 川口の言葉はどこまでも優しい。
「言い方を変えようか。俺が深い理由もなく選んだはずの過去形の恋の旅は、俺が妻を愛し切れなかった俺の一番弱いところを浮き彫りにしてくれたんだ」
「そうか」
「お前はまだ結婚していないからわからないかもしれないんだけど、夫婦の間で何か問題が起きた時、とたんに相手のことがわからなくなるんだよ。それまでわかったつもりでいたのに、まったくわからなくなる。目の前で話している妻が、自分のまったく知らない女のように思え、信じられなくなる。でも、夫婦だから話し合う。それが解決策だと思うから。でも、話し合えば合うほど、相手のことがわからなくなる。自分の考え方との違いがより明確になり、違和感が強くなるだけだ。結果、二人の距離はもう埋めることはできないという結論になる。俺たち夫婦もそうだった。でも、今回、過去に付き合った女たちと改めて会ってみてわかったんだ。みんな、俺が愛しただけのことがある、いい女のままだった。でも、俺にはやっぱり彼女たちのことはわからないままだった、ということがわかった。それと、自分は何ひとつ成長していないこともわかった。俺は事故で突然両親を喪った時、両親から愛された記憶を捨てることでその後の人生を生き抜こうと決めた。でも、そのことで俺は人の愛し方ががわからなくなっちゃったんだ。いくら愛するという気持ちがあったとしても、愛し方が間違ていてはダメなんだ。恋愛は一時的なものだから、それでも良かったのかもしれないけど、結婚は違う。俺は恵子と結婚した時に、そのことに気づくべきだった。でも、何も気づけなかった。そんな一番大切なことを、彼女たちは思い出させてくれたってわけさ」
 川口は良太の言わんとすることを理解しようとしているようだったが、黒い夜に吸い込まれてしまう。
「考えて見れば、わかろうとすること自体が無理なんだな。男と女というだけで、先天的に違うのに、ひとり一人別々の人間だという、ものすごく当たり前のことを忘れてしまって、無理にでもわかろうとしてしまう。真面目すぎると、余計にそうなってしまうんだ。そんなことをしたって、何もいいことなんかないのにな。何が言いたいかわかるか、川口。君たちも夫婦になって、同じような状況になることは必ずある。そんな時、お前の役目は、わかろうとすることじゃなくて、わからないままの彼女に、そっと寄り添うだけでいい。これが、俺からお前に送るアドバイスだ」
 思いを込めたつもりだったが、言葉はさらさらとしていて頼りなく、今にも消えてしまいそうだった。
「ありがとう。肝に銘じておくよ。お前、今でも恵子さんのこと愛しているんだな」
 穏やかな波打ち際のような、意思を持たずに流れに身を任せる時間を作ってくれた恵子のことは、やはり今でも愛してるのだと思う。
「そうかもしれない。でも、もう遅い。俺たちは失敗した。その結果、俺の最愛の娘のさとみに哀しい思いをさせてしまった。俺はもういつ死んでもいい。でも、そのことだけが後悔していることなんだ」
 言葉がもやもやとした息苦しさとなって喉を塞ぐ。
「辛いな。そのさとみちゃんに、このまま何も伝えないつもりか。入院する時、大垣さんを除いて誰にも入院のことは伝えないと言ったけど、俺はそのことがずっと気がかりだった。もう一度考え直してみてはどうか」
 川口が良太の部屋を訪れた理由がやっとわかった。川口にすれば、まだちゃんと会話もできる今のうちに家族と会わせたいという思いがあるのだろう。しかし、さとみとあんな別れ方をしてしまった時、入院しても知らせないと決めたのだった。
「ありがとう。お前の気持ちはよくわかっている。でも、これは俺が決めたことなんだ」
「そうか、わかった」
「しかし、川口、俺のラストランは楽しかったったぞ」
「ん? そうか」
「うん。俺、3人の元カノに会ったんだけど、みんな一時とはいえお互いに真剣に愛し合った人じゃないか。だから、会えるとなると、胸の高鳴りが止まらなかったんだ」
「それはわかるな」
「でも実際に会ってみると、最初は意外に冷たかったりするわけよ」
「突然現れれば、そうなるのは当然だろう」
「まあ、そうかもね。でも、いろいろ話しているうちに、ある瞬間恋人同士に戻れたんだ。それは、彼女の言葉遣いだったり、眼の動きだったり、何気ない仕草だったりでわかるんだ。ほんとに一瞬だったけどね。嬉しかったなあ」
「良かったじゃないか」
「でな、俺、会えたら最後の晩餐で彼女たちの手料理を食べるって決めてたんだ」
「なるほど」
「結局、手料理を食べさせてくれたのは3人中一人だったけどね」
「そうか。でも、最後の晩餐は一回のはずだから、それで良かったんじゃないか」
「そうかもしれん。食べたのは何の変哲もないオムライスだったけど、涙が出るほどおいしかったよ」
「本当に涙が出たんじゃないか」
「それはなかったな。嬉しさのほうが勝ったから」
「そうか」
「当時の関係性はもちろんそれぞれ違ったわけだけど、一瞬で気持ちはその時に戻れるんだよね。だから、当時の喧嘩の続きをやってしまったり、当時の相手に対する疑問を投げかけてみたりしてさ」
「なるほど」
「でも、そんな感情に戻れるって幸せなことだと思わないか」
「幸せだよ」
「おかげで、俺、最高の時間を過ごせたんだ。豪遊とか海外旅行なんか比べることもできないほど贅沢な時間だった。俺は自分のラストランを元カノたちに伴走してもらったんだ。幸せ者だよ。神様に感謝している」
「そうか。それは本当に良かった。でも、お前らしいな」
「お前らしい? そうか。そうかも知れないな」
「でも、畑中、ラストランはまだ終わっていないぞ」
「わかっている」
「嫌かもしれないが、これからは俺が伴走者になる」
「いや、頼もしいよ。でも、いや、だからこそ、ひとつだけお前に頼みがある」
「なんだ」
「延命治療は止めてほしい」
 川口は答えない。
「一分一秒でも延命させるのが医者の役目だということはわかっている。だからここは友人としてお願いしている」
 極力切実な空気にならないよう、淡々と話す。横に立つ川口の表情は伺い知れないが、きっと怖い顔をしているに違いない。
「俺は残り火が自然に、だけど懸命に燃え尽きるように最後を迎えたい」
 川口は相変わらずまっすぐ前を向いたまま、何かと戦っているようだったが、しばらく経って低い声で言った。
「わかった」
「ありがとう」
「礼なんか言うな」
 二人とも無言で空を見つめる。今お互いの頭の中を去来しているものはきっと違うと思う。それでも、二人は深い信頼で結びついていた。
 やがて川口は良太の肩に軽く手を置いた後、静かに部屋を出て行った。暗闇のその先の暗闇の中で、良太はひとり立ち尽くしている。

         十五
 病院は暖房が利いているので部屋は暖かいが、今日のような冬の冷たい空気は病人にはやはり堪える。痩せ細り、軽くなったはずなのに、もはや自分ひとりで寝返りすらできなくなった身体は、慢性的な痛みとともに、地の底に鉛のように沈み込んでいる。そんな身体には、理不尽にも、見たくもない夢を断続的に見ることしかできない。それにしても、見る夢見る夢、どうしてこうも辛いものや、苦しいものや、悲しいものばかりなのだろう。なぜか、楽しい夢はたまにしか見せてくれない。案外、神様は意地悪だ。
 こうやって神様は、最後にかつてない痛みや苦しみを与えることで、「死」を恐怖の対象から安寧への入口と勘違いさせてくれるのだろう。それは、神様流の優しさなのかもしれない。
 遠くから誰かが自分のことを呼んでいる声が聞こえるような気がするが、意識が朦朧、混濁しているため、夢なのか現実なのかすら判断できなくなっている。かろうじて残っている薄い意識で、瞼を開けて確かめようとするが、重すぎて開けられそうにない。
 しかし、声が次第に大きくなるにつれ、それが娘のさとみの声だと気づく。すると、不思議な力が働き、重かった瞼を少し開けることができた。靄のかかった視界の先に、さとみの姿があった。意識もクリアになってくる。
「ママ、パパの目が開いた」
 さとみが後ろを振り向きながら言っている。その視線の先に、恵子が立っている姿が見えた。君には最後まで気を遣わせてしまった。ごめん。考えると、君は俺には過ぎた妻だった。それなのに、自分は夫として何もしてあげられなかった。何ひとつちゃんと応えることができなかった。そんな俺なのに、君はよく尽くしてくれた。今更ながら、感謝しているよ。
 最後に君にひとつだけ言いたいことがある。俺のことがすべて済んだら、君も新しい幸せを見つけてほしい。でも、その時、さとみの気持ちを最大限に考えてやってほしい。時間をかけて彼女の気持ちをほぐしてほしい。さとみもいつかきっとわかってくれる。君のことだから、さとみの気持ちは十分理解してくれていると思うけど、さとみにこれ以上辛い思いや悲しい思いをさせたくないんだ。さとみのこと、頼んだぞ恵子。
 そんな良太の気持ちが通じたのか、恵子の顔が歪んだ。「おい、泣くなよ」と、良太は目で訴える。君はもう俺のことなんかで泣く必要はないんだ。しかし、恵子の目からは一筋の涙が頬を伝っていた。
 瞼をぱちくりして、靄をかき分けよく見ると、真ん中に大垣がいて、その左側に元妻の恵子が立ち、右側には由香が立っている。二人の間にある微妙な距離は、そのまま二人の微妙な感情を表しているのだろうか。恐らく、すべての事情が大垣から伝わっているとは思うけど、とはいえ、元妻の恵子と由香を同じ場に呼ぶとは、大垣も人が悪い。
 由香の目からはすでに大粒の涙が流れている。本当は良太の元へ走り寄り、すがりつきたいのだと思うけど、さとみと恵子に遠慮してできないでいるに違いない。『心配するな。大垣のことだ、すべてが終わった後できっと俺と由香の二人だけの時間を作ってくれるさ』
 由香が良太の元へ来て言いたいことはわかっている。「なぜあの時、本当のことを話してくれなかったの」と。
 なぜなのか、自分でもわからなかった。でも、あの時の自分には、すべてを捨てる覚悟が必要だった。そうすることで、自分の死を受け入れる心の準備ができたのだと思う。嘘なんかついて、ごめんな由香。短い期間だったけど、離婚後唯一真剣に愛したのは由香しかいない。あんな別れ方をしてしまったことは後悔しているが、やはりあれで良かったと今になって思う。どうあれ、自分には君を幸せにすることはできなかったのだから。
 でも、みんなお願いだからもう泣かないでほしい。今、自分は幸せなのだから。恵子と由香を同じ場所に呼んでしまったことは申し訳ないとは思うけど、そんな二人と、さとみと、さらには心からの友人である川口が俺のラストランのために集まってくれている。俺はこのラストランを今走り切るから、温かく、そしてできれば笑顔で見届けてほしい。難しいかもしれないけれど…。
 その時、すぐ横に立っていた川口が、良太の腕に注射を打ったような気がした。それは、もうこれ以上我慢しなくていいぞ、楽になっていいんだぞという合図のようにも思えた。とたんに、再び意識が薄くなって行く。
 さとみの「パパ死んじゃいや、死なないで」という泣き声がひと際大きく聞こえる。
 さとみの思いが切ない。でも、今の自分が父親としてさとみにしてやれる唯一のことは、「死ぬ」ということがどういうものなのかということを、自分の身をもって教えてあげることだ。これが人間のラストランを走り切る姿だと。さとみよ、肉体の死というものの、むごたらしさ、残酷さ、虚しさをしっかりとその目に焼き付けてくれ。でもなあ、さとみ、一方で「死」を迎えるということは必ずしも哀しいことではないんだ。そうも伝えたいけれど、もうできそうもない。
 この後行われる葬儀、焼き場での骨拾い、墓への納骨等々の儀式は、きっとさとみの心を深く抉ることになると思う。親の死を受け入れるには、さとみは少し若すぎるかもしれないけれど、これも運命だ。一時は虚無感に襲われることになると思うけど、この経験は、さとみが自分が生きる意味についてより深く考え、自分の人生をより高める力に、必ずやつながると思う。だから、辛いと思うけど、どうかママと一緒に乗り切ってほしい。
 目はまだ薄く開いたままだが、もうほとんど力が入らない。呼吸がだんだん小さくなっていくのが自分でもわかる。悲しくなんてまったくないはずなのに、両目からは水滴が流れ落ちている。
 「みんなさようなら、みんなありがとう」と、心の中でそっと言う。
 意識がどんどん薄くなり、ほとんど何も見えないし、何も聞こえなくなる。その時、電気を切る時のようなパチッという音がして、真っ白になった。

         十六
さとみへ

 先程から降り出した雨が、闇の中から落ちてきて銀色に光って消えていく様子が窓越しに見えています。今パパはひとり病室のベッドの上で半身を起こし、眠れぬままに、夜のいちばん深い時刻を迎えています。
 さとみに自分の思いを書き残そうとノートPCに向かったのだけれど、一向に感情がまとまらず言葉となって出てきません。夜が時間と一緒に固まってしまいそうです。人生は言葉で伝えられないことのほうが多いのだと改めてわかりました。本当は、大事なことが何もわかっていないまま目先のことをとりあえずやり過ごしてきたパパの空虚な生き様のせいなのかもしれないのだけれど。とりあえず、今のパパが君に伝えておきたいことを、思うままに書いてみますから読んでください。(さとみに伝えたいという思いが強すぎて、だらだらと長い文章になってしまいました。ごめんなさい)
 最初に、さとみに謝らなければならないことがあります。もちろん、さとみが最後にパパの家に来た時のことです。
 あの日、さとみがパパの部屋の洗面所で女性物の歯ブラシを見つけ、部屋から出て行こうとした時、パパは立ち尽くすだけでした。さとみがママのことで心を揺さぶられ、パパにアドバイスを求めてきたであろうに、あの瞬間パパは応える資格などないことを知らされたからです。それでも、本当は身体を張ってでもさとみを止め、ちゃんと話すべきでした。
 ママと別れて、パパの心にはずっと大きな穴が空いていました。そんなパパの心の淋しさを埋めようとしてくれる一人の女性が現れました。それが、あの歯ブラシの持ち主である新井由香という女性です。でも、彼女から付き合いたいと言われた時、パパはもう誰とも結婚しないと決めていたので、そのことを彼女に伝えました。それでもいいと、彼女は言いました。だから二人は付き合うことになりました。そんなパパは、卑怯でズルイ男だと思います。それでも、彼女は純粋にパパを愛してくれました。パパも彼女のことが好きでした(もう終わっていますけれど)。これが事実です。
 子供にとっては、そんな事実を受け止めることなどできないことなのかもしれません。でも、パパとママは正式に別れたのだから、新しい恋をすることを許してほしいのです。人間としてそれは自然な姿だから。だからといって、さとみに対する愛情には何の変わりもないことは知っておいてください。
 でも、これだけは覚えておいてほしいのです。パパにとってママは特別な存在だったことを。パパはママ以外の誰とも結婚することは考えられませんでした。パパにとってはママしかいませんでした。
 よく子供は親を選べないと言うよね。こんな親は嫌だから、もっとお金持ちの親から産まれたいと思ったとしても、そんなこと不可能だと。それが現実論です。でも、ある人が子供はちゃんと親を選んで産まれてくると言っているんだ。
 そんなことって?と思うかもしれないけど。パパはずっとさとみを見ていて、そうなのかもしれないと思ったのです。さとみはいつもパパとママを冷静に見ていて、二人の考え方や姿勢をきちんと評価しているよね。だから、きっとさとみはパパとママを選んで産まれてくれたんだと思っている。
 同じように、パパにとってママは選ばれた人でした。
 それなのに、なぜパパはママと別れてしまったのかとさとみは言うかもしれないね。
 残念ながら、人生は本当に大事なことを後になって気づくことがあるものなのだよ、さとみ。でも、時は戻せません。だから、パパはママとの結婚生活、そしてさとみと3人で過ごしたあのかけがえのない時間を何よりも大切なものとして心の中にずっと留めておこうと決意したんだ。
 さとみはパパたち夫婦にとって、小さな、でも大切な宝物でした。
君が産まれた時、産院に駆けつけパパは君を見て嬉しかったけど、でも不思議な感覚だった。初めてパパと言われた時のことは今でも忘れられない。案外おてんばだった君はいつも男の子のような遊びに夢中になっていて心配したこともあった。幼稚園の時には、公園の遊具から落ちて怪我をしたと聞いて、パパは急いで帰ったっけ。小学校の低学年の時、プールで迷子になった君を向かえに行ったパパとママの顔を見て、安心したのか泣き出したこともあったね。でも、高学年になるにつれ、君はどんどん大人びてきて、すっかりママに似てきた。それがパパには嬉しかった。
 そんなひとつひとつのかけがえのない時間がいつまでも輝いています。
 君と過ごせた、それほど多くはない時間は、ありふれた日常だったけれど、染みるような幸福感に満たされた時間でした。 
 ありがとう、さとみ。
 はからずもさとみにはパパと同じように、中学生の時に親を喪うという悲しみにあわせてしまうことになるんだよね。自分が味わった悲しみを自分の子供にもさせてしまう、不甲斐ないパパを許してください。きっと君は一時喪失感に襲われるかもしれない。けれど、時が必ずや君を癒してくれるから、前を向いて、そして上を向いて歩いてください。
 「人は誰しも幸せになるために生まれてくる」と言っている人がいます。パパが最初にこの言葉に出会ったのは、今からちょうど10年前。そう、パパが起業した時でした。本屋で偶然立ち読みした本の中に書かれていた(本のタイトルも、著者名も、もう忘れてしまいましたが)のです。パパはこの言葉が気に入りました。ちょうど前向きにならなければならない時だったこともあって、この言葉を信じました。というか、信じることにしたのです。信じて、まっしぐらに進みました。
 でも、その結果パパは癌になり、余命半年と宣告されることになりました。だから、この言葉は嘘だと思いました。
 しかし、死を目の前にした今、もう一度この言葉に向き合って、やっぱりこの言葉は信じられると思ったのです。パパは癌が発覚した時、最初は苦しみました(それこそ、死ぬほどにね)。でもね、癌で余命半年と宣告されて初めて本当に大切なことが何なのかわかったのです。病気になって今まで気づかなかったことに気づかされもしました。病気になって初めて学んだこともありました。もちろん、さとみやママと暮らした時間や思い出の大切さ、重さも教えてくれました。最高に楽しい時間も過ごせました。だから、今は病気(癌)に感謝すらしているんだ。
 今のさとみはこの言葉を聞いてどう感じるんだろうか。嘘くさく思えてしまうのかも知れないですね。もし、そうであったとしても、敢えてパパは伝えたい。さとみには、この言葉を信じてほしいと。
 まだ中学生の君は、これからいろんなことに出会うことになるでしょう。嬉しいことにも、苦しいことにも、辛いことにも、哀しいことにも。時には、道に迷うこともあるでしょう。些細なことで自信を失うこともあるかもしれない。悩みで眠れずにくるまった毛布の頼りなさに涙する日もあるかもしれない。そんな時、「人は誰しも幸せになるために生まれてくる」という言葉に疑問を持つかもしれない。でも、この言葉を信じ、そして、自分を信じ続けて、自分がやるべきことをやり続けていさえすれば必ずや、自分が幸せになるための道は開けると思う。どんな形であれ、幸せが待っている。もし、わからないことがあれば、ママに聞けばいい。ママはさとみにとってベストのアドバイスをくれると思う。
 要するに、パパが言いたいのは、「人は誰しも幸せになるために生まれてくる」という言葉を意味あるものにすることができるのは、他の誰でもない、自分自身(さとみ自身)だということです。
 だから、さとみもこの言葉を自分のものにして幸せな人生を送ってほしい。
 
 パパは自分の予定より少し早くこの世を去ることになるけれど、もう未練はありません。ただ、一つだけ心残りというか心配なことがあります。それは、パパとママが離婚したことで、さとみが人を好きになったり、愛したりすることに臆病になってしまうのではないかということです。
 人を好きになること、愛することはとても素敵なことです。人間は愛することで成長でき、世界とひとつになれるのだと、パパは思っています。人を愛するということは、自分とはまったく違う他人のすべてを受け入れて、自分と同じように愛することだと思う。愛することで、愛されるということの意味もきっとわかるはず。そういう意味では、パパにはその力が少し不足していたんだと思う。離婚してしまったのだから。さとみには本物の愛をつかみ、本物の愛に出会ってほしいと願います。
 いつかさとみも好きな人に出会い、恋愛するんだよね。さとみは知らないだろうけど、パパは恋愛の達人(?)だから、生きていれば、さとみの恋愛の相談相手になれたのに、それができないのは残念だ。
 恋愛の末に、やがては結婚することになるよね。さとみの花嫁姿、見たかったな。きっとママに似てきれいなんだろうな。その隣にパパがいられないことが、とても切なく寂しいです。

 どんなことがあっても、誰が何と言おうとパパとママはずっとずっと君の味方だし、君を応援していることを忘れないでください。パパの姿は一瞬見えなくなるけれど、君が会いたい時、君が必要な時に目を瞑ってくれれば、いつでもパパに会えるよ。だから、「さようなら」は言わないよ。
 最後に報告があります。3日前にパパは再婚しました。その人は突然パパの病床に現れ、やせ衰えたパパを見て涙を流しながら、パパに逆プロポーズをしました。嬉しかったけど、死にゆくパパには彼女のプロポーズを受け入れる資格はないので固辞しました。でも、パパのその意思よりも強い意思で、その人はパパとの再婚を願いました。だから、パパもその思いを受け入れました。その人の名は旧姓中島恵子。そう、さとみの大好きなママです。パパは本当に幸せ者です。

じぁあね、また会う日まで。

                                        ダメダメのパパより

 何度も何度も読み返した手紙を、折り目に沿って丁寧に畳み、封筒にしまう。もう涙は出ないけれど、いつ読んでもパパの深い愛情を感じることができて、心がじんわりと温かくなる。
 ママがパパと再婚という形を選んだことは、さとみもこの手紙を初めて読んだ時に知ったのです。パパがママと離婚した後で、ママが自分にとって特別な存在であったことに気づいたように、ママもパパを喪うことがわかったことで、パパが一番大切な人だったと気づいたのです。だから、当時付き合っていた男性とも別れ、パパと再婚という形をとったのでした。そんなパパとママが素敵だと思いました。
 パパはさとみに手紙をくれた同じ日に、ママにも手紙を送りました。どんなことが書かれていたのかは、ママに聞いても教えてくれないのでわかりません。でも、封筒の中には離婚届の用紙も入っていて、いつでも出せるようにパパの署名、捺印がされていたようです。でもママは未だに出していません。
 さとみは自分が大人になり、結婚することになった今だからこそ思うのです。ママにも新たな幸せを見つけてほしいと。もういいよね、パパ。
「さとみー」
 結婚式の招待状を書くために来ている横山晃が、さとみを呼ぶ声が隣室から聞こえる。たぶん、自分が書く分を書き終えたのだろう。
「はーい。今行くから待ってて」
 もう一度パパに会いたくて、そっと目を瞑る。そこには飛びっきりの笑顔のパパがいた。
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