第1話

文字数 1,998文字

 駅のベンチに座っていると、ぎしっと音を立て、わたしの隣に誰かが腰掛けた。
 ビクッとして、うなだれていた顔を少しだけあげて隣を見ると、一人の女性が、大きなスーツケースを足元に置いて座っていた。
「どうした?」
 彼女が、わたしの方をチラッと見て声を掛けてきた。
「なに、彼氏にでもフラれた?」
「なんっ……」
 なんでわかったんだろう。
「図星? あー、待って待って。別にあなたのこと、からかおうと思ったわけじゃないから。かく言うあたしもさ、今から実家に帰るとこだから。旦那と別れて」
「……」
 突然の身の上話に、どう言葉を返すべきか迷っていると、彼女は黙ったままのわたしに構わずもう一度口を開いた。
「『あたしのこと、ホントに好き?』って聞いたらさ、『わからない』だって。なにそれって思うでしょ?」
 彼女の吐いたその言葉に、わたしは少なからずドキッとした。
 まさに同じだったから。
 彼の問いに、咄嗟に『好き』って答えられなかった。『わからない』って、答えてしまった。
「『だったらもう別れよっか』『そうだな』って、お互い売り言葉に買い言葉って感じでとんとん拍子で別れ話が進んでさ。……って、ごめんねー。あなたのこと、慰めるつもりだったんだけど、ただあたしの愚痴聞いてほしかっただけだったみたいだわ」
 そう言って、彼女が自嘲気味に笑った。
「結局さ、あいつ、あたしのこと、どう思ってたんだろうね。『わからない』ってさ、結局なに? 好きか嫌いかくらいわかるでしょって話よ。まあ、百歩譲って『好きかも』とか『嫌いかも』とかでもいいけどさ。わからないってなに? あたしの存在、無ですか? なにも感じないってこと? だったらいっそのこと、嫌いだって言われた方がまだマシ」
 そう言い終えると、彼女はベンチに背中をもたせかけ天を仰いだ。
 彼も、そうだったのかもしれない。
 彼の瞳に浮かんだあの悲しげな色を思い出して、ぎゅっと胸が締め付けられるような気がした。
「ごめん。ありがとね。あたしの愚痴に付き合ってくれて」
「いえ、わたしはなにも」
 そのとき、駅のホームに次の電車の到着を知らせるアナウンスが流れた。
「それじゃあね。次はきっといい人に巡り合えるよ。頑張って。あたしは……しばらくはいっかな」
 泣き笑いみたいな表情を浮かべて立ちあがった彼女に向かって、わたしは思わず口を開いた。
「……よくないです。そんなの。ちゃんともう一度、聞いた方がいいと思います」
「え?」
 わたしも立ちあがると、彼女の正面から顔を見据え、必死にもう一度口を開いた。
「恥ずかしくて、咄嗟に『好き』だなんて言えなかっただけかもしれませんし……そんなことを改めて聞いてくるなんて、ひょっとしてわたしのこと、もう好きじゃないのかなって、そんな風に勘繰って、好きだって答えられなかっただけ……かもしれませんから」
「そんなわけ——」
「だって、嫌いって言われてないんですよね?」
 彼女の言葉を途中で遮ると、わたしは重ねて言った。
「それは、そうだけど……」
 そう言いながら、彼女の目が少しだけ泳ぐ。
「だからわたし、蒼くんにちゃんと伝えにいきます。私は、蒼くんのことが好きだよって。蒼くんがたとえわたしのことをどう思っていたとしても、わたしはちゃんと蒼くんのことが好きだよって。じゃなきゃ……きっと後悔するから」
「そっか」
 彼女がふふっと笑った。
「あ、ご、ごめんなさい。わたし……」
 自分の恥ずかしい発言に今さらながら気付いて、かぁっと顔に熱が集まってくる。
「あーもう。どーしよっかなー」
 そう言いながら、彼女はもう一度どかっとベンチに座り直した。
「とりあえず今晩は駅前のビジネスホテルにでも泊まるかー」
 ブツブツ独り言を言いながらスマホを取り出して検索をはじめる。
「おっ、ラッキー。一部屋だけ空いてる」
 そんな彼女をホッとしながら見つめていたら、彼女がふいにわたしの方を見あげた。
「で? あなたはどーすんの?」
「わたしは……今から行ってきます」
「そっか。ま、善は急げって言うしね」
「はい。あの……ありがとうございました」
 ぺこりと頭をさげると、彼女はそっけなくひらひらと左手を振ってみせる。
「別に、あたしはなんもしてないし。それに、お礼を言わなきゃなのは、むしろあたしの方かもだし」
 そう言うと、彼女はニッと不敵な笑みを浮かべた。
「ま、お互い健闘を祈るっつーことで」
 彼女が、座ったまま拳を握ってわたしの方に突き出してきた。
「はい。ご健闘をお祈りしてます」
 わたしは、こつんと彼女の拳に自分の拳をぶつけた。

 たった10分にも満たない短い時間だったけど、わたしはきっとこの出会いを一生忘れない。
 わたしの目の前で美味しそうにご飯を口に運ぶ彼——蒼くんと、その隣に座った蒼くんソックリな息子を見て、10年前に出会った彼女に、何度目かわからない『ありがとう』を心の中で告げた。
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