第3話

文字数 6,459文字

 月が満ち、生まれてきたのは女の子だった。鼻がツンととんがっていて、少し切れ長の目は、どこか意志の強さを感じさせ、泣き声も新河より大きいような気がした。びくびくしたのは、最初の二ヶ月くらいだろうか。私には、娘を疎ましく思う気持ちが全く起こらず、それどころか女の子だけが持つ愛くるしさがまたかわいくて、よく力いっぱい抱きしめては美葉に嫌がられていた。しかも、である。ちょこちょこしている新河を私が追いかけて行っても、美葉は決してどこかへ行ったりしないので、助かった。よく言われることだけれど、下の子は上の子の様子をじっと観察して、むやみにトラブルに巻き込まれないように学習していくのだろう。
 美葉が生まれてしばらくした頃のこと。私は、確信した。ほぼわかってはいた。けれど、目をそむけていた。疑いようのない事実があるのに、無視することも困難で、それを身体全体で受けとめてみると、虚無感が私を支配して、気づくとうつろな眼をしていた。
「ママ、なんかボーっとしてるー。どしたの?」
 何度か新河に、指摘されたくらいである。
 新河が生まれた時には、あんなに足繁く通ってきた母。美葉の時は、全然違う行動を取った。まず新生児の頃、あまり来なかった。不思議に思いつつ、あれこれ指図されるのも嫌なので、ラッキー、くらいに思っていた。たまに来ると新河ばかりをかまい、美葉のことは放っておく。眠りから覚めて泣き出すと、
「泣いてるわよー」 
 とキッチンにいる私を大声で呼ぶ。違和感。
 新河が新生児で泣き出した時は、
「はいはいはい」
 と我先に駆けつけ、私をはねのけてでも抱きあげていなかったか。夫が家を出て行った頃は、私も仕事を始めて忙しくなり、新河を幼稚園から保育園に移し、美葉も預けて頑張っていた。
 美葉は、二歳を半年ほど過ぎていた。何事にも「嫌」から入る難しい時期ではあったけれど、私にはそれさえかわいくて、全てを抱きしめたかったし、この頃、
「もしかしたら、娘も愛せるかも」 
 という大きな希望が芽ばえ、それが確信に変わっていったので、毎日が楽しかった。たとえ、夫がいなくなってしまっても。
「あーあ、一家の恥。親戚には誰にも言ってないから、今度伯父さんの法事に行ったら、幸せなふりしとくんですよ」
 母は、冷たい目をして、そう言った。こういうことを人一倍嫌う人間であることは、重々知っていた。
 誰それが国際結婚をすれば、
「日本人と結婚しときゃぁいいのに、わざわざ好き好んでなんで外人なんかと」
 と「外人」が差別用語だなんて知らないので大声でまくしたて、姪が高卒の男性と結婚すれば、
「やっぱり大学くらい出てないと、後で苦労するんだから。見てな、絶対離婚するから」
 と予言者めいたことを口にした。私はそのような母の暴言を聞くのがとても嫌だったけれど、母はとりわけ私に向かって口汚い言葉を浴びせた。
 心のごみ箱。
 そう思っていたのではないか。弟に言っている姿は、見たことがない。母は、どうして私をごみ箱にしても良いと判断したのだろう。わからない。
 父も父である。母の暴言を聞いたことはあるだろうに、全てに対して無関心のため、
「そんなこと子供の前で言うもんじゃない!」
 と叱り、ストッパーの役目を果たすのを怠った。だから母は誰からもとがめられず、言いたい放題。けれども、本当は知っている。だから、余計にいやらしい。このようなことを外で言ったら、人格を疑われるということを。
 言いたいのに、外では言えない。その不満をまるで花火の玉のように丸め、私にぶつけて来るのだから、私の心の中で爆発したそれは痛く激しく心を焼いた。 
 私だって好きで離婚したわけではなかった。このままずるずると結婚生活を続けたところで、夫は家に帰って来ず、会話もないような家庭なら、どこかで区切りをつけたかっただけだ。それに。結婚など出来ないと思っていた私が婚姻届を提出でき、子供なんて持てないとあきらめていた私が二回も出産を経験した。そして、子供たちがこんなにかわいいと知る。実は、もうそれだけで、充分なのであった。いつも希望をへし折られていた私は、ささいなことでも幸福感を感じることができる。結婚して子供が持てて、それだけで幸せだと思っていた。
 思い込もうとしていただけかもしれないけれど、とにかく二人がいてくれるだけで良かった。
 母の性格を知りつくしていた私は、全てが片付いてから報告をした。案の定、相当に騒いだけれど、もうやり直すことは出来ないのだから、仕方がないと思ったようだ。
「あー、かえすがえすもあの時結婚を認めなけりゃ良かった。初めて会った時、なんか意志の弱そうな男に見えたのよ。私が探して、ちゃんとした人と見合いしときゃぁ、こんなことにはならなかったのに」
 このセリフ。何度も言う。同じボルテージで。
 新河の保育園の運動会があると言えば、
「近頃は、お父さんたちも見に来るんでしょ? しんしんちゃんにはお父さん来ないんだよ。あーかわいそう」
 と嘆き、いつものセリフのオンパレード。新河の目の前ではばからずに言うので、始末が悪い。もっとかわいそうな思いをさせているということに、思いをはせられないから、しばしばこういうことが起こるのだ。新河は、きょとんとした顔をして、私と母を見るが、何も聞いては来ない。
「パパは仕事で長い間帰れない」
 と取りつくろっているが、新河は絶対に知っている。でも、子供なりに気を使って尋ねては来ない。そのいじらしさが、かえって辛く新河の成長を見つつ、真実を告げる日を見計らっているのに、そんなことも知らない母は、何の気遣いもなく、言い放つ。
 出入り禁止にしたかった。感情に任せて暴言を吐く姿は、子供に良い影響を与えるはずもなく。ただ、それでも新河にはやさしかったので、ある種我慢をしていた。
 離婚が落ちついた頃だったので、美葉はまもなく三歳を迎える頃だったと思う。もうダメだと思った。母は。新河と美葉とでは、全く違う扱いをした。同じいたずらをしても、美葉の時は、声を荒げて怒り、
「まったく誰に似たんだろうね!」
 と嫌味を付け加えることを忘れない。
 新河の場合は、
「男の子なんだから、これくらい元気じゃなくっちゃ」
 とかばいさえするのに。
 突然私にフラッシュバックが来た。これは、私と弟の時と同じだ。私は、理不尽に叱られ、締めくくりの文句は、
「お姉ちゃんなんだから、我慢しなさい!」
 だった。生まれてくる順番は変えられないのに。不本意ながら折れることが、度々だった。そんな時の、勝ち誇ったような弟の顔もよみがえる。
 それは、母が味方であるという絶対的安心感に基づく勝利の笑みだった。
 そうではなかった。順番ではなかったのだ。美葉は、第二子。本来なら、まだ小さい美葉に心をかけているはず。そこで、私は思い当たった。私と美葉が、女だからだ。
 ある時、美葉の三つ編みを引っぱって、
「こんな長くしたら、洗う時大変じゃない? シャンプー代もバカにならないし。まさかこの子コンデショナーも使ってんじゃないでしょうね?」
 と私に聞いた。相当に強く引っぱっているようで、美葉が痛がっている。
「コンデショナー使ってるけど。髪がまとまりやすくなるから」
 私が言うと、
「ま! 生意気ね!」
 母は、つかんでいた三つ編みをいきなり離した。まるで汚らわしいものをさわったかのように。また、
「こんなフリルがたくさんついた服着せてると、保育園の遊具に引っかかって大けがするよ」
 と言う。地元のフリーマーケットで買ったワンピースで、美葉がとても気に入っている一枚だ。
「保育園には着て行かないから大丈夫」
 私が助け舟を出すと、
「保育園は、スモック着ることになってるから」
 美葉もつけ加えた。ものすごく不満そうな表情。母は、その顔をずっと保ち続けた。
 もしかして。嫉妬しているのか。美葉に? 年端のいかない子供に対して、そんな感情を抱くことさえ理解できないけれど、そう考えると合点がいくことが、いくつもある。自分より、私や美葉がかわいくなったりすることが、許せないのではないか。母がどうやったって得られないもの、それは若さ。にごりのない瞳。毛穴の閉じたつるつるの肌。つやとコシのある黒い髪。そうして、天真爛漫さ。美葉は、これからますますかわいくなっていくだろう。主役の座を奪われつつある老女優、なのかもしれない。どうあがいても、世代交代はやってくる。それなのに、むなしい抗いを繰りかえす醜い姿。
 だからなのか。新河に話しかける時は、妙に猫なで声なのは。自分を女として認めて欲しい気持ちが、その声に現れているのかもしれない。耳の奥に残る弟に対する甘い声もよみがえり、ぞっっとする。
 それなのに。母は、べつだんおしゃれをするわけでもなく、一切のブランドに対する知識もなかった。多分どんなに着飾っても、父が気づいてくれるわけもなく、ましてや褒めてくれるわけでもなく、そういう気持ちは萎えてしまったのかもしれない。美容院に行ったところで、何も言ってはくれなければ、張り合いもなくすだろう。当然。だからと言って、娘が女性として成長する姿を拒絶して良いことにはならない。そこに結びつけるのは、おかしい。断じて。
 美葉に対する態度を見ていて、一気に押しよせてきた過去の記憶があった。そうなのだ。母は、自分ひとりが家庭の中の女として君臨したかったのだ。たとえおしゃれを止めてしまっても、女王として存在していたかった。
 だから自分よりかわいくなる者は、許さない。わざと私をざんぎり頭にし、スカートをはくことを禁じ、醜く装わせていたのだ。特に思春期の時は、ひどかった。ちょっとでも人並みに着飾ろうとすると、ヒステリーを起こした。
「中学生のくせに色気づいて、気持ち悪いったらありゃしない! そんなふうに育てたおぼえはありませんよ!」
 夏休みに、三百円のマニキュアを買って塗っていた時のことだった。その場で取りあげられ、捨てられた。拾いあげるのを防ぐため、何枚も重ねたティッシュペーパーの上に流し捨てられたピンクの液体は、部屋にエナメル臭を撒きちらした。なかなか紙に染みこまず、どろり、と揺れているのを見て、私は涙をこらえるのが精一杯だった。
「こんなこと学校で禁止されてるでしょ!」 
 だから夏休みを選んだのに。
「今度買って来たら、ただじゃすみませんよ。お小遣い取りあげるから!」
 規則に厳しい融通のきかない親だと思っていたが、そうではなかったらしい。全ては嫉妬から。そうだったのか・・・。
 私服もあまり買ってもらえないので、仕方なく毎日同じジャージを着ていた。友達は、それを主義だと好意的に解釈してくれていたので助かった。ありがたいことにジャージの生地は、すぐに乾くので洗濯している間はパジャマか制服で凌いでいた。
 母にかかれば私は、最悪の娘だった。のろまで役立たずで融通がきかなくて。その頃すでに、私のような人間は結婚はおろか、恋人だって出来ないに違いない、と母から刷り込みを入れられていた。一度など、そばにいるだけで不快、とまで言われたことがあり、私は家庭以外でも気配を消して生きていた。なぜなら、人の気分を害してはいけないと思っていたから。
 子供の成長を喜べない母親。そんな親がいること自体信じられない人がいるだろう。そう。私だって、そこに考えが及ばなかったので、気づくのが遅くなってしまったわけで。戦慄が遅れてやって来た。過去のことを責めようにも、きっと、
「覚えてない!」
「そんなことするはずない!」 
 などと、言い逃れをするだろう。せめて。美葉に同じ思いをさせてはいけない。美葉は、その愛らしさ、明るさで軽々と私という親を超えていけば良いのだ。身も心も大きく成長してくれるのが、私の喜び。容姿はもちろん考え方や知識、全てのことで私を追い抜いても、そんなのは一向にかまわない。むしろ、喜ばしい。そう思わないのは、歪んではいないか。
 全然理解ができない。けれども、現実にいる。母が、それを全身で証明する魔物だった。
「新河と美葉と違う扱いをするのは、どちらに対しても良くないことだから、そういうことをするのなら、もう来ないでください」
 言えた。子供二人が他の部屋にいる時に、切り出した。
 急激に般若の形相になり、こぶしはきつく握りしめられ、しゃべる度に唾が撒きちらされた。
「私がそんなことすると思ってんの? そんなことした覚え一度もない!」
 思えば、この威嚇にやられていた。怖いから言うことを聞かざるをえない。
 でも、わたしはもう母親。守るべきものがあり、この化け物と今決別しておかないと、後々こちらが壊れてしまう。私のように、美葉が。もうこの負のスパイラルは、私の代でおしまいにするべき。
 強い意識を持てば、言えるのだ。それを実感する。十代の時、それが出来ていれば私の人生は違った方向に向かったのかもしれない。あんな夫と結婚せずに、離婚も避けられたかも。大切にされたことがなかった私は、初めて大切にしてくれた夫に見境なく尻尾を振ってついて行ってしまった。ちゃんと人を見る目を養っておけば、それが本性かどうか見極めることができた、と今は思う。どこまで人を信じて良いかの基準が壊れている、いいえ元からないので、夫に他の女性の影がちらついた時も、そんな疑いをもってはいけないし、結婚したのだから信じなくてはいけない、と目の前の現実を見ていなかった。
 そうして、夫は去っていった。
 でも。謝らなければいけないことが、私にもある。自分を好きだと言ってくれた初めての人。実は、そんなに好きでもなかったのに結婚したのは、私の方。出来ないと思っていた「結婚」が出来るなら、自分のタイプかどうかはそんなに重要ではなかった。だから、離婚という形になっても、それほど落込まなかったのかもしれない。そう、私は元の夫と同じくらいにひどい人間。
 けれども。子供たちは別。この子たちは、どうしてこうも私に突進してきて愛を求めるのか。チョコレートでべたべたの手で私の顔をなでまわし、
「ママ大好き」
 と言ってくれるのか。なぜ私は、その汚れた頬までも幸せの一コマとして記憶にとどめることができるのか。自分でもわからないけれど、何よりもまず母と同じ罠に落ちないですんだ自分を祝福したい。初めて私を本気で愛し必要としてくれたのは夫ではなく、二人の子供。
 だから、私も二人の全てを受け入れることが出来るのだと思う。
「わかりましたよ。もう金輪際来ませんから、美葉の七五三の着物だって買ってやろうと思ったけど、止めた。レンタルでペナペナの着物を着なさい!」
 新河は、「しんしんちゃん」なのに、美葉は、呼び捨てだ。
 怒りが増し、肩で息をしている母を横目で見る。七五三の着物? 買ってくれたとしても、美葉や私の好みを無視して、わざと一番ランクの低いものを選ぶのではないか。それが無意識だとしても、変なバイアスをかけてきて、
「買ってやるんだから文句言いなさんな。まったく離婚なんかするからこういうことになる」 
 などど言うのだろう。目に浮かぶ。
 養育費の仕送りが、数ヶ月滞っていることは、口が裂けても言えない。言わない。
 それは、母の考えを正当化して、鬼の首を取ったように、またまたひどいことを言われる糸口になるだけだから。けれども、家に来ることを断ることが出来たことは、精神衛生上とてつもなく良い効果をもたらした。思っていたより私は冷静で、子供たちも本当は嫌だったのだろう、
「おばあちゃん、来ないね」
 などと言うこともなく、月日は平和に過ぎていった。
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