第1話

文字数 8,418文字

 夏休みまで指を数えるまでになった。午後の授業が終わり、生徒達は放課後の作業に入った。
 明弘は校舎内の階段を降り、玄関に向かった。話しかける生徒は誰一人としていなかった。正義を重んじて首を突っ込みたがるが故、周りは面倒くさい奴だと避けていた。本人は気にも留めず、周りが付いてこないだけだと言い聞かせていた。
 玄関は青いプラスチック製のすのこを敷いていて、出ていく生徒達で賑わっていた。
 明弘は中学校に入学した頃は自分の下駄箱の位置に迷っていたが、時間が経つと無意識に辿り着けた。覚えた番号が貼ってあるラベルの棚にある靴と上履きを交換し、生徒達と共に外に飛び出した。委員会の活動が残っている。校門に向かって先を歩いている亜美の元に向かった。「待てよ」亜美に声をかけ、肩を掴んだ。
 亜美は明弘の方を向いた。「何か用」明弘に尋ねた。
「お前、部活に行かないのか。何で帰るんだよ」明弘は亜美に尋ねた。
「用があるから先に帰るって、顧問の先生に話したわ」
 明弘は亜美の返答に不快な表情をした。用があるのは自分も同じだ。「言い訳が通用するかよ」
「相手が悪いんじゃない」亜美は明弘の手を払い、校門に向かって歩いて行った。
 学校は委員会と部活動を強制している。少子化対策として、部活動と委員会活動の2本立てでアピールする方針を取ったからだ。
 明弘は委員会の集合場所である隅の花壇に向かった。
 花壇の前に無数のカバンが置いてある。明弘はカバンを重ねて置き、生徒達の方に向かった。
 生徒達が花壇の前に集まっていた。明弘が所属する衛生員会は学校内の草むしりや花壇の整備、校舎裏にある緑のカーテンの育成を行っている。
 先生が生徒達を確認した。「集まったな」
「今日は花壇の清掃をする。分かっているが花壇は土壌が良いので雑草が育ちやすい。雑草ってのは早めに抜かないとすぐに伸びて尽くしてしまう」延々と説明をした。
 明弘は暑苦しさを紛らわせるべく、亜美がいた方を向いた。
 生徒達が網を囲っていた。事情があるからとはいえ、他人と異なる行動をすれば目を付ける。特に1年は上がいないのでかばう者がないので声をかけやすい。
「先生」
 明弘は体を小刻みに震わせた。
 先生は話を止めた。
「何だ、質問か」
「トイレに行きたいんですけど、いいですか」
 生徒達は笑い出した。
「お前なあ、先にすませておけよ」先生は呆れた。「仕方ねえな、行ってこい」
「すいません」明弘は先生に頭を下げ、亜美の元に向かった。



「お前、一年か。委員会も部活もしねえで、勝手に帰るんじゃねえよ」先輩の一人は亜美に突っかかった。
 亜美は逃げる為に引き下がったが、先輩達が囲っているので動けなかった。抵抗するより他にない。「先生に話したわ」
 先輩達は亜美の返答に怒りがこみ上げてきた。
「先生が許す訳がねえ。1年なんだからルールに従えよ」先輩の一人が亜美の肩を押した。亜美はよろけた。
「俺達の許可がいるんだよ、知らねえのか」先輩の一人は亜美を睨みつけた。
 亜美は先輩から目をそらした。
 明弘は亜美の元に駆けつけた。「何してんだ」
 先輩達は一斉に明弘の方を向いた。「お前、見かけねえ顔だな」
 明弘は先輩達の顔を見て動揺を覚えたが、落ち着きを取り戻した。毅然とした態度でないと付け込んでくる。
「知ってるぜ、一年の生意気な奴だ」先輩の一人は明弘の前に来た。「一年坊主、俺達はサボってる奴を注意してるだけだ」
「先生を呼んで来る」明弘は一歩下がった。先輩の一人が明弘にの後ろに回り込み、両肩を掴んだ。
「部活動と委員会はサボっちゃいけないんだ。規則は守ってくれないと迷惑なんだよ」
 先輩達は一斉に笑った。
 多くの生徒達が亜美達を避ける中、一人の生徒が近づいてきた。3年生の萩原だ。正義感と力が強いので同級生でも恐れ、面倒見の良さは先生も一目を置いている。「お前ら、楽しげだな」
 明弘は萩原の方を向いた。
「奴が許可取らねえで勝手に帰る気だ。止めるのは先輩として当然の義務だろ」先輩の一人は荻原に返した。
 荻原は亜美の顔を見た。困惑していた。
「事情も知らねえでか、帰してやれよ」
 先輩の一人は眉をひそめた。荻原の言葉が理解出来ない。「何を言って」
 荻原は明弘を掴んでいる先輩の顔を殴った。一撃が急所に当たり、意識が朦朧とした。明弘を掴んでいる手が離れる。明弘は下がった。
「てめえ」先輩達は荻原に殴りかかった。
 荻原は先輩達の拳をかわして殴っていく。格闘技は部活程度の経験なので動きは荒い。一方で腕力は強く拳は重い。顔面に食らうと気が遠くなり、腹に受けると痛みで呼吸が止まる。先輩達を次々に倒していく。
 亜美は萩原が喧嘩をしている間に引き下がり、校門に向かって駆けて行った。明弘は動かず、萩原が集団を相手に立ち回っている姿を見ていた。萩原は次々と先輩達を殴り動きを止めていく。
 先輩達は全身の痛みで力と戦意を喪失した。意識が揺らぎ、腹の痛みで呼吸も辛い。よろけながら解散した。
 荻原は目を動かして亜美の存在を探した。視界にいない。不快な表情をした。
 明弘は萩原の喧嘩の強さに高揚を覚えた。萩原とは入学直後のオリエンテーションで起きたトラブル以来の付き合いだ。強く、正義感に満ちている自分の理想を体現した憧れの人だ。「先輩、ありがとうございました」荻原に頭を下げた。
「困った奴を助けてやるのは当たり前だ。気にするな」
「はい」明弘は返事をした。
「明弘、妹さんは」
 明弘は周囲を見回した。亜美の姿は見えない。「帰りました」
 荻原は渋い表情をした。「お前は」
「委員会に戻ります」明弘は委員会の集まりに戻るべく、駆け出した。
 ジャージを着た先生が荻原の元に来た。「おい、お前だ荻原」
 荻原は先生の方を向いた。「用ですか、先生。今日は部活は休みですよ」
「生徒から知らせがあってな、また揉めてるのか」
「周りを見て下さいよ先生、何もないでしょ」荻原は白々しく返した。荻原が相手をした先輩達は皆去っている。荻原自身は着衣の乱れもない。
 先生は周囲を見回した。先輩達の姿はない。何もない状況で調べても面倒になるだけだ。「疑う真似はするなよ」
 荻原は笑みを浮かべた。今対処しないのは、永遠に対処しないのと同じだと経験から知っている。「分かりました」
「用がないなら、素直に帰れ。お前等が学校に居座るだけで仕事が増える。先生ってのは忙しいんだ」先生は踵を返して校舎に戻った。
 荻原は校門に向かって歩いた。
 明弘は委員会に戻って来た。「すいません、遅れました」
 先生は腕時計を見た。トイレにしては明らかに長い。生徒達に事情を説明していたので、明弘が向かった先で何があったのかを知らない。「お前、何をしていた」
「すいません、大がなかなか出なくて踏ん張っていました」明弘は大声で返答をした。
 委員達は明弘の言葉に吹き出しかけた。
 先生は呆れの表情をした。「仕方ないな、では抜けてたお前の為にもう一度説明をする。明日、生物園に行く。現地で解散するが、道具は学校に置きっぱなしだから学校まで戻る。地図は明日の委員会で配布する。迷いかねなかったら先生と一緒に戻るんだぞ」先生は説明を始めた。
 生物園とは区域内に唯一存在する、植物園と動物園を兼ねた施設だ。小動物や身近な植物を一緒に展示する他の設備にはない特徴を持っていて、開発により見かけなくなった昆虫や植物の調査や研究をしている。
 先生の説明は長く、生徒達は飽きを覚えた。校舎の時計が3時半を示した頃に説明を終え、作業に入った。校門からロータリーにかけての花壇に生える雑草をむしり取り、手押し車に乗せて運び出す。量が多く、校舎の裏にあるごみ捨て場に運ぶので手間がかかった。
 作業が終わる頃には日が暮れ、下着が体に貼り付く程に汗が吹き出していた。
 生徒達は手押し車を片付け、集合していた場所に集まった。先生は生徒達の疲れ切った表情を見て、余計な説明をせずに明日の概要のみを話して解散を命じた。
 明弘は花壇の脇に置いたカバンを取り、校門に向かった。風が吹いた。風が汗が吹き出ている体に当たり、寒気を覚えて震えた。
 校門に着いた時、萩原が明弘の前に出てきた。予め待っていた。「よお」
「先輩も一緒ですか」
「付き合わないか」萩原は笑みを浮かべた。「いい秘密基地の場所を見つけたんだ」
「秘密基地ですか」明弘はオウム返しに尋ねた。
 大人が用意した子供の遊び場は、安全から大人の監視が付く為に子供だけの隔離した世界は存在しない。故に大人が勝手に決めたルールに囚われ窮屈になる。子供は大人のルールからの開放を求め、自分達だけで完結する世界を製造段階から共有する為に秘密基地を作る。萩原達も例外ではない。
「来るか」
「でも用が」
「大丈夫だ、見に行くだけですぐ戻る」
 明弘は困惑した。萩原の頼みを蹴れば拳が飛ぶ。「分かりました、行きます」
 萩原は明弘の肩を叩いた。「行くぞ、ついて来い」萩原は通りを歩いていった。明弘は後に続いた。
 当初は生物園に向かう道を辿っていたが、次第に道を外れて空き地の目立つ場所に来た。明弘は建物や通りの状況を眺めていた。バブルの崩壊や高齢化を理由に閉鎖した工場や倉庫が散り散りに立っている。人気はなく、機械音が響いている。
 萩原は立ち止まった。「倉庫だ」
 明弘は萩原の目線の先を見た。鉄条網が上に付いた金網が敷地全体を囲っている。扉だけが中に入る手段だ。金網の先には膝丈の草が生い茂っていて、汚れの目立つプレハブ倉庫が敷地の中心に立っていた。
 萩原は扉に触れて引いた。きしむ音を立ててドアが開いた。
「鍵はない。億の倉庫も同じだ」
「人はいないんですか」
 萩原は首を振った。「誰かいれば鍵をかけるし草も倒れてるだろ。中も見てきたけどボロボロだ」
「勝手に入って、大丈夫ですか」
「大丈夫だって、不安なら扉に鍵かけときゃいいんだ」萩原は笑みを浮かべた。「運び入れる時にはお前も呼ぶからよ。中入るか」
 明弘は不安げな表情をした。
 萩原は明弘の表情から状況を察した。「用事があるんだったな、無理を言ってすまなかった。土曜にでも来いよ、皆で基地作るからよ。学校まで戻るか、一緒に送るぞ」
「心配しなくても、大通りに出れば帰れます」
「土地勘がいいな。俺は中に入って調べるから、お前は帰っていいぞ」
「はい」明弘は返事をし、倉庫から立ち去った。曲がり角に出る前に倉庫の方を向いた。萩原が扉を開け、倉庫の庭に立ち入っている。大通りに向かった。
 明弘は建物と道路の状況から来た道を覚えていた。倉庫から生物園へはほぼ一本道なので分かりやすく、大通りに出てから小さい通りへ入り、通学路に合流し家に戻った。家に着いたのは日が暮れた頃だった。体に疲労を覚えていた。
 家の前にはミニバンが停まる駐車スペースがある。玄関に向かうアプローチには鉢が並んでいて、セダムで埋まった土からバラが淡い色の花を付けている。
 母親は夕暮れにも関わらず、鉢に乗ったセダムを調整しバラの剪定をしていた。
「ただいま、まだ終わらないの。普段なら終わってるのにさ」明弘は母親に声をかけた。普段なら日が暮れる前に作業を終えている。夕暮れまで作業をしているのは珍しい。
 母親は息子の声に気づき。作業をしている手を止めて明弘の方を向いた。「あら、お帰りなさい」
「もう夕暮れだよ。戻らなくていいの。夕食が出来てないって、お父さん怒るよ」
 母親は笑みを浮かべた。「亜美が帰ってきたから大丈夫よ。素直な子で助かるわ」立ち上がった。「今日は植物にうるさいお客さんが来るのよ」
 明弘は眉をひそめた。父は近辺で手軽に飲める場所がない関係から、仕事仲間を家に呼んでくる。植物にうるさい客など聞いた試しがない。「何をしている人なの」母親に尋ねた。
 母親は手袋を外し、タオルを取って汗を拭った。「光博の同級生でね、田舎の植物園で学芸員をしているのよ。山に採りに行くのがメインだから、屋内にいないって言ってたけどね」
「何で田舎から来るの」
「近くの生物園でサンプルに使う種の取り付けに来たって言ってたわ」
「生物園って、近くの生物園」明弘は母親に尋ねた。生物園は他所の動物園や植物園に比べ大した施設ではない。田舎から取りに来る程の珍しいサンプルがあるのかと疑念を覚えた。
「他にないでしょ」
「取りに来ただけなのに、何で家に誘ったのさ」
「お父さん、中学生の時に随分いじめてたのよ」
「たまたま来ただけで呼ぶなんて」
「お父さんだけじゃないわ、お母さんにとっても重要な人よ」
 明弘は母親の言葉に驚いた。二人に関わりのある人物とは聞いた覚えがない。
 エンジン音が駐車場から響いてきた。
 乗用車が、駐車場の空いているスペースに入ってきた。ドアが開いた。
 父親が荷物を持って降りてきた。ドアを閉め、明弘と母親のいるアプローチに来た。普段は夜半に帰って来るが、今日は夕暮れ時と早い。
「ただ今戻った」
「お帰りなさい」
「おかえり」
 明弘と母親は父親に挨拶を返した。
「そろそろ井上が来る頃だ。準備はしてるのか」
「亜美がしてるわ」
「亜美一人に任せるのは酷だ。お前も土いじりをやめて家に戻れ」
「分かっているけど、井上さんって妙にこだわる人でしょ。手を付けたくなって来るのよ」
 父親は唸った。「井上はうるさいが、いちいち文句をつけてくる奴じゃない。詳しいのは生態程度で、綺麗さなんて分かりゃしないさ」
「だといいんだけどね」
 父親は笑みを浮かべた。「何かあったら俺が言ってやるさ」
「昔と同じ感覚で」母親は父親に尋ねた。
 父親は気難しい表情をした。「昔は度を知らなかったからな。今は互いに立場がある」
「お父さん、まだ若いんだからすぐ怒りかねないから」母親は井上の方を向いた。「大丈夫よ、何かあったら止めるから。先に中でお風呂に入ってて」
 父親は反論をしかけたが飲み込み、明弘の方を向いた。「明弘。学校に行く時、亜美ににも話したがそろそろ客が来る。お前も戻りなさい」
「はあい」明弘は適当な返事をし、玄関ドアに向かった。
 同時に、バイクの音が鳴り響いた。
「早いな、まだ生物園が閉まる時間ではないが」明弘は音がした方を向いた。
 大型バイクが駐車場の端に向かってきた。ヘルメットをした井上が乗っている。
 井上はバイクを止めるとヘルメットを脱いだ。
 父親と母親は、井上の元に向かい互いに頭を下げた。「久しぶりね」
「すまないな、すぐに帰る予定だったのを誘ってしまって」
 井上は首を振った。「予定より早く方が付いてしまってね。都会の研究員は優秀な人が多くて助かるよ。準備がまだなら近場で暇を潰してる」
「近場には何もないですよ」
「ですね」井上は母親の言葉に納得した。
 父親はバイクに目を向けた。余裕のあるリュックサックが荷台に乗っている。「サンプルは」
「郵送したよ。自分で運ぶより業者に頼んだ方が確実だからね」
 父親は井上の返答に驚いた。自分でサンプルの取り付けに来たのだから、自分で持って帰るのだと予想していた。「仕事が早いな、改めてよろしく」
 明弘は井上の態度に違和感を覚えた。井上はいじめを受けていた身なのだから無意識に恐縮すると予想していた。相手は恐れず堂々としている。
 井上はアプローチに目をやった。ガーデニングの植物が目に入る。アプローチの脇に腐葉土の袋と、手を入れかけているプランターが置いてあるのに気付いた。作業途中で放棄したのが容易に分かる。「準備が出来るまで土いじりでも手伝いますよ」
「お客さんの手を汚すのは」
「気にしないで下さい。慣れてます」
 明弘は母親の元に向かった。父親を差し置いて母親と話を進めている。隙出来れば手を出す気か。「お父さんがいる前で何をしてるんですか」
「君は」井上は明弘に尋ねた。
 母親は明弘の方を向いた。「息子です」
 明弘は井上を睨んでいる。
「息子さん、お父さんに似ていますね」井上は明弘が来た理由を察し、父親の方を向いた。「大崎さん、片付けに息子さんを借りていいですか」
 父親は井上の提案に面食らった。「息子より俺を使わないのか。何より小夜に準備をしてもらわないと困る」
「置いてある用具の置き場所や、土の配合は分かりますか」
 父親は井上の質問に驚いた。
 井上は笑みを浮かべた。「家の準備には指示を出す人が必要ですから、お父さんかお母さんに家に戻ってもらうしかないですよね。でも用具の置き場所や土いじりに関してはお母さんしか分からない。となれば残るのは息子さんとお母さんが適任です」
 父親は井上の意見に頷いた。理にかなっている。「分かった。終わったら亜美を出す」
「すみません」
 父親は井上に笑みを浮かべた。「気にするな、お前が客なんだからな」家に戻った。
 明弘は井上の前に来た。「明弘です、よろしくお願いします」
「井上と言います。よろしく」井上は優しい口調で言い、プランターのある場所に向かった。「何から始めればいいですか」
「はい」母親は井上の元に向かった。
 明弘と母親は井上のアドバイスの元で作業を行った。明弘は衛生委員会でプランターに植物を植え替ているので手慣れていた。作業中に井上を見た。真剣な眼差しで小夜にアドバイスをしながら作業をしている。父からいじめを受けていた理由を聞きたかったが、井上の目つきを見てやめた。嫌な思い出を掘り返すのは良くないと判断した。
 作業が終わった。日が暮れかけていた。
 明弘は片付けを終えると手袋を外し、アプローチの端に置いてある水道で手を洗った。ぬるい水が腕に付いた泥を落としていく。備え付けてあるタオルで濡れた腕を拭った。井上と母親は手を拭き終えていた。先に済ませるのは客と接待をする側なので当然だ。タオルを元の場所に置いた。井上に質問をする機会は今しかない。「すみません、井上さん」
「何かあったかい」
 明弘が質問を言おうとした時、亜美が3人の元に来た。「準備出来たわよ」
「分かったわ。では井上さん、入って」母親は明弘と亜美の方を向いた。「貴方達は部屋に戻りなさい。井上さんが帰ったらお風呂に入るのよ」
 明弘は眉をひそめた。質問をする機会を失った。「分かったよ」曖昧に返事をして家に戻った。
 亜美も明弘に続き、家に入った。
 明弘は家に入ると即座に2階の自分の部屋に入った。壁には机と本棚とテレビを置いたボードが寄せて置いてあり、一方はバルコニーとつながっている掃出窓がある。床は漫画本で散らばっていた。テレビを置くボードの下にあるゲーム機を取り出して起動した。テレビゲームは生産性のないが、時間を潰すには丁度いい。
 次第に夜が更けていく。
 明弘はテレビゲームに夢中になっていた。本棚にある漫画はページが決まっているので果てがあるが、画面に映る娯楽は飽きるまで続いていく。延々と続けているうち、体が休眠を訴え始めた。意識がコントローラーを持ったままなくなり、気付いた時にはノックアウトして相手が勝利ポーズをしている画面を見ていた。眠気に抵抗するのをやめ、スイッチを切った。コントローラーを乱雑に置き、床に転がり漫画本を読み始めた。読書で眠りを促す気だったが、次第に鮮明になってきた。寝る気がない時に限って眠気を覚え、眠る時になって取れる。立ち上がり、伸びをして窓を見た。カーテンがかかっていない。閉めなければと気付き、窓に近づいた。亜美の声が聞こえてきた。亜美も窓を開けたままにしているのかと勘付き、注意するべく窓からバルコニーに出た。
 バルコニーは木製の簀の子が敷いてあり、亜美の部屋と繋がっている。服を干すのに便利な他、避難用の通路として使う為だ。
 明弘は亜美の部屋の窓の前に来た。窓は開いていて、カーテンが敷いてある。窓が隠れているので、開放したままなのに気付いていない。
「でね、鈴木君だけど、返してくれないの。うまく対処出来なくなって、何をしたらいいか分からなくなるわ」亜美の声が聞こえてきた。
 明弘は亜美の言葉を聞き、眉間にシワを寄せた。鈴木は亜美の隣の席にいる男で、入学直後の自己紹介がぎこちなかったのを覚えている。隣の席にいる人間が貸すといえば教科書か文具だ。亜美は貸したままの状態なので、勉強が出来なくて困っていると推測した。指摘して返すならいいが、自分の所有物にする場合がある。明日にでも鈴木に追及してやると頭の中に叩き込んで引き返した。部屋に戻り、床に寝転がって漫画本を読み始めた。次第に意識が遠のいた。
 両親と井上の話は9時頃に終わった。母親は井上を送ってから2階に上がり、明弘の部屋の戸を開けた。明弘は仰向けに寝ていた。広げた腕の先には開いたままの漫画本が置いてあった。
 母親は窓を開放しているのに気づいた。窓に向かい閉めてから照明を消し、部屋の戸を閉めて去った。
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