第3話

文字数 10,576文字

 係員による講習が終わり、生徒達は全員ロビーに集まった。
 先生が係員の隣に来た。「以上だ。一同、礼」
「ありがとうございました」生徒達は一斉に係員に礼をした。係員は用務室に戻った。
 明弘は浮かない表情をしていた。萩原の行動が気にかかっていた。萩原の正義感は時に度を超えている。自分の正義の為に他人を踏みにじるのもためらわない程だ。鈴木に話をつけるだけならいいが、学校内ではなく外に呼び出しているなら違う手段で決着を求めた可能性が高い。
 先生は生徒達の方を向いた。「よし、解散だ。残ってもいいし、学校に戻っていいぞ」
 生徒達は先生の言葉を聞き、ロビーから自動ドアを通って外に出ていった。皆、施設に残らず学校に戻る選択を取った。
 先生は明弘に近づいた。表情から不満があるのを察した。「大崎、問題でもあったか。嫌なのは分かるが顔に出すもんじゃない」
 明弘は先生の言葉に何も答えず、開いたままの自動ドアに向かい外に出た。
 外は昼過ぎから夕暮れに差し掛かっていた。
 先生は明弘の前に出た。「話を聞いてるか、お前は態度が悪いって言ってるんだ」
「分かってますよ」明弘は適当に返した。
「今度から気をつけるんだ、いいな」
「はい」明弘は適当に返事をした。素直に従っている分には文句はなく、説教は簡単に終わる。先生に歯向かうのではなく、一刻も早く倉庫に向かい仲裁するのが重要だ。
 明弘は学校に行く道と逆の道に駆け出した。萩原が連れて行った倉庫で暴行をしているなら、鈴木はタダでは済んでいない。鈴木が亜美に何かしらやらかして虫を続けるのは許せないが、かと言って暴力を容認する気はない。
 先生は明弘の行動に不審を覚えた。荷物を学校に置いている以上、学校に向かわねば帰れない。「おい大崎、待て」明弘の前に来た。明弘の歩は先生に寄って止まった。
「解散を言ったのは先生ですよ」明弘は猛反発した。
「生物園に残るか学校に戻るかは自分で選べって意味だ。勝手な行動までは許可してない」
 明弘は気難しい表情をした。頭の中で議題が浮かび、議論を始める準備が出来たが結論は既に出ていた。「先生、3年の萩原先輩を知っていますか」
 先生は明弘の言葉に驚いた。「知っているも何も、お前とよくつるんでるよな」
「先輩が、同じクラスの鈴木を呼び出したのを見たんです。気が短いんで、暴行してるんじゃないかって心配なんです」
 先生は眉をひそめた。萩原は問題行動が多いのを知っている。実際に起きているなら見過ごせない。かと言って、適当な場所に遊びに行く方便を吐いている可能性もある。
「空き倉庫があるんです。昨日、案内してもらったんです。暴行するなら他に場所はないですよ」明弘は先生を払おうとした。
 先生は明弘を止めた。「場所は分かるか」
 明弘は先生の目を見て頷き、駆け出した。
 先生は明弘の後をついていった。目つきから嘘を付いていないと分かった。
 明弘は人のいない道を走っていく。先生が後から付いていく。昨日見た場所と今いる場所とを記憶の光景から繋ぎ合わせ、倉庫への道へと調整していく。次第に喉の乾きと暑さを覚えて喘いでいった。体は休みを求めるが、萩原を止めなければと言う使命感から止めずにムチを打って走り込む。通りを曲がり、倉庫の敷地の前に来た。扉は開いていた。
 先生が明弘の元に来て、敷地の中にあるプレハブ倉庫に目をやった。「大崎、お前の言っていた倉庫か」
 明弘は先生を見て頷いた。深呼吸をしていくうち、次第に落ち着いた。火照った体も汗で冷え始めた。周囲に誰もいないのを確認してから扉に手を触れ、敷地に足を踏み入れた。足跡はないが、草を踏み荒らした痕跡がある。
 先生は明弘の方を掴んだ。「土地の主を呼ぶのが先だ」
 明弘は苛立った。萩原が押し込めたなら、何をしているか分からない。大体、持ち主が誰だか分からないのに何を言っているのか。先生の手を振り払い、敷地の中に入り倉庫に駆け出した。
「待て」先生も敷地に入り、明弘の後を追いかけた。
「勝手に敷地に入っていいのか」
「確認してから出れば良いんでしょ」明弘は怒り気味に言い、倉庫の前に来た。ドアは閉まっている。
 明弘は意を決してドアノブに手を触れた。人のうめき声に似た音が小屋の中から聞こえる。ドアを開けた。
 薄暗い倉庫の奥にうずくまっている鈴木と、枯れた声を上げて悶えている萩原の姿があった。鈴木は動かず、萩原は怪我をした足首を抑えている。先生は状況を見て即座に異質な状態だと気づいた。「何があった」萩原に近づいた。
 萩原は涙目で先生に枯れた声で訴えるも、何を言っているか分からない。
 先生は鈴木に近づいた。鈴木を触れるも動かない。意識がないのだと気付き、仰向けにした。
 明弘は異様な光景に何をするかを頭の中で組み立てた。今出来るのは外の人間に状況を訴えて警察を呼んでもらうだけだと結論付けた。実行するべく、外に飛び出した。
 先生は胸ポケットに入れている携帯電話を手に取り、開けた。携帯電話のアンテナは圏外を示している。元々電波が弱い上にプレハブの壁が金属なので遮断した形になっている。自分が倉庫から離れれば圏内になり通報が出来る。一方で二人に応急処置をする人間がいなくなる。振り返って明弘を確認した。明弘に携帯電話を渡せばいい。
 明弘の姿はない。
 先生は舌打ちをした。異常事態に逃げ出したか。ついで小さく首を振った。誰かを呼びに行ったのだと信じ、二人を交互に見て状況を確認した。
 明弘は倉庫から飛び出て、草むらを踏み潰しながら敷地の外に出た。道路を見回した。人はいない。
 公衆電話を探すが見当たらない。うかつに飛び出したのを後悔した。
 中年の男が倉庫から出てきた。倉庫の脇に止めているアイドリング状態の車に向かっている。
 明弘は中年の男が倉庫から出てきたのをを見て、近づいた。「すいません」
 中年の男は、明弘を見て眉をひそめた。制服の上から汗だくなのが分かり、草の葉や穂が足元についている。周辺で草むらがある場所を知らない。「何かあったのか」
「倉庫で人が倒れてるんです」明弘は中年の男に説明した。「草むらの空き倉庫があるんですけど、先輩と同級生が倒れててまして」
 中年の男は、明弘の突然の要求に唖然とした。空き倉庫は近所に沢山ある。「大人をからかうのはやめろ」明弘を払った。
 明弘は中年の男の前に来た。「すいません、本当に詰まってるんです。ですから」
 中年の男は明弘を睨んだ。明弘は困惑した表情をしている。「何が理由か分からんが、忙しいんだ。しつこいと警察呼ぶぞ」
 明弘は中年の男の言葉に頷いた。「警察ですよ、今すぐ呼んで下さい」
 中年の男は眉をひそめ、携帯電話を取り出して電話をかけた。「もしもし、警察ですか。今変な中学生が来て倉庫に人が倒れてるって訴えてきてるんですよ」電信柱に目をやった。番号が書いてある。「住所は分からないんですけどね、電信柱の番号で位置分かりますか」
 明弘は力が一気に抜け、軽くよろけた。「すいません」
 中年の男は延々と携帯電話を通して相手と説明をしている。話を終えて電話を切った。明弘を睨み付け、車に乗り込みドアを閉めた。間もなく車が動き出し、彼方に去っていった。
 代わりにパトカーが来た。近くをパトロールしていた車両に連絡が来たのだ。倉庫の前に止まり、警察官が降りてきた。明弘は警察官に近づいた。「すいません」
 警察官は明弘を見た。疲れている印象がある。見慣れた制服だ。また例の学校の生徒が問題を起こしたか。「君が通報で言っていた中学生か」
「はい。空き倉庫で人が倒れていまして」明弘は一生懸命説明した。
 警察官は訝しげな表情で明弘を見ていた。連絡した時、通報者は不審者がいると言っていた。実際には切羽詰まった表情の中学生がいる。
「人が倒れているとは」警察官は丁寧に話した。精神に余裕がない人間には、余裕を与えて自分のペースで話を引き出すのが有効だ。
「空き倉庫です。先生が中に入ってます」明弘は駆け出した。
 2人の警察官は後をついていった。
 明弘の案内で空き倉庫に向かい、3人が入ると鈴木と萩原、先生の姿があった。
 警察官は萩原と鈴木の様態を確認するなり、異常事態だと判断して無線で救急車を要請した。
 間もなく空き倉庫の敷地の前に救急車が駆け付け、2人を搬送した。
 先生は携帯電話で学校に連絡を入れ、現在の状況報告と家族への連絡を頼んだ。
 警察官は先生に近づいた。「二人共警察署に来て下さい」
 明弘は警察官の態度に驚いた。自分が悪事を仕掛けたと疑っているのか。
 警察官は明弘の表情から状況を察し、笑みを浮かべた。「話を聞くだけですぐ帰します。逮捕する気はないですよ。逮捕状が必要ですからね」
 明弘は警察官の話に安堵した。
 警察官は明弘と先生をパトカーに乗せた。
 二人共パトカーに乗るのは初めてだった。タコメーターの部分には無数の計器が付いていて、無線機のホルダーがある。パトカーの中は明弘にとって、未知の空間だった。
 10分程で警察署に着いた。警察官と明弘達はパトカーを降り、警察署内の事務室に入った。白を貴重とした清潔なイメージで、机の上は書類で散らばっている。警察官が席に座った。机を通して対峙する形で明弘と先生が座った。
 警察は威圧せず、淡々とした調子で次々と質問をぶつけてきた。質問は5W1Hを的確に付いた内容で、自然に答えていくうちに自ずと事実に行き着いた。
 先生は明弘から3年生の萩原と鈴木との間に何らかのトラブルがあると聞き、共に向かったと話した。明弘も先生と同じ内容の話をした。トラブルの発端は話さなかった。亜美に迷惑がかかるのを避ける為だ。実行したのは萩原で、自分は鈴木に迫って対処しただけだと心の奥底で正当を訴えたのもある。警察は明弘の深層に鍵がかかっているのを知っていたが、あえてこじ開けなかった。当事者から話を聞く方が、関係の薄い人間の心の扉をこじ開けるより確実で楽なのを知っている。
 警察官は先輩と後輩のトラブルで、たまたま1年生が聞き付けて先生と共に駆け付けただけだと記録した。但し当事者である二人の言い分を聞かなければ、明弘や先生の話が本当か否かは分からない。あくまで証言の一つとしての記録だ。
 二人が警察署に来てから20分近く経った。
 警察官は深く追求しても何もないと悟った。搬送先の病院に連絡を入れ、電話を切った。「以上で終わりです。お疲れ様でした。お二人共学校に戻るのですか」笑みを浮かべて尋ねた。
 先生は頷いた。「戻って緊急の職員会議を開きます」
 警察官は明弘の方を向いた。
「すぐに帰ります」明弘は席を立ち、先生と共に警察の事務所から立ち去った。
 外に出た。警察署はガラス張りで周囲の景色が反射している。似た構造の建物が並んでいる近辺でも迷わない、大通りに沿った場所に建っている。
 明弘は駐車場に自分の家の車が停まっているのに気づいた。
「先生」明弘は先生に話しかけた。「俺のせいで萩原先輩と鈴木が」
「お前が二人と何の関係があったのかは分からんが、お前が向かわなかったら事態はもっと悪くなっていた。お前を叱るのは二人から事情を聞いてからだ」
「はい」明弘は返事をした。
「俺は学校に戻る。お前は」先生は明弘に尋ねた。
「帰ります」明弘は先生の質問に答えた。
 車の運転席のドアが開き、母親が出てきた。
 母親は明弘の元に駆け寄った。「また問題を起こしたの。何かあっても警察の世話にはなるなって、お父さんが言ってたでしょ」
 明弘は答えに詰まった。自分が発端になっているのは事実だ。かと言って直に危害を加えていない。
 母親は明弘に詰め寄った。「警察に捕まっていると内申書が下がって、高校にいけなくなるのよ。小学生のガキ大将気取りは卒業しなさい」明弘に強い口調で叱責した。
「すみません」先生は母親と明弘に割って入った。
 母親は話を止め、先生の方を向いた。
「お母さんですか、落ち着いて下さい。お子さんは悪い理由で警察に来たのではなく、事件を目撃したので事情聴取で連れてきただけです」
「事件って、殺人でもしたの」
「違いますよ。お子さんは通報した側なので何もないです。ご安心下さい」
 母親は明弘の方を向いた。「本当なの」
 明弘は頷いた。
「分かったわ」
 先生は明弘に笑みを浮かべた。「事情が分かるまでお預けだから、明日は気にせず学校に来い」駐車場から去って行った。
「学校に忘れ物はある」母親は明弘に尋ねた。
「現地解散だから、荷物は持って来てる」
「家まで送るから、乗りなさい」自分の車に向かい、ドアを開けて運転席に入った。
 明弘は助手席側のドアを開けて中に入った。
 母親は車を起動した。
 車は動き出し、駐車場から出て大通りに出た。
 明弘は景色を見ていた。大通りの景色は近所と言い難いが、見慣れている。車内を見回した。母親以外に他人はいない。
「お母さん」明弘は母親に尋ねた。
「何」
「昨日、お父さんが井上さんをいじめてたって言ってたよね。何で今になって頭を下げたの」
「大人なんだから、お客さんに頭を下げるのは当たり前でしょ」
「井上さんはお父さんを怖がってなかった。苛めてた人が呼び出してきたら、自分だったら避けるよ」
 母親は頷いた。「確かにね。お父さんも私も井上さんに借りがあるから、もういじめないって分かってるのよ」
「借りって何」
「中学生の時にいじめてたんだけど、大学の時にまた一緒になってね。互いに避けてたのよ。だけどお父さんが私と付き合ってた時に変わったの。ガーデニングが理解出来なかったのよ。お父さんは何とか理解しないと私が嫌いになるんじゃないかって焦ったの。だから植物に詳しい人だからって理由で井上さんを頼ったのよ。井上さんは良い人で、いじめてた関係を流して取り持ったのよ」母親はふっと笑みを浮かべた。「忙しいからって結婚式に来なかったのはショックだったけど、抜け目なく電報は出してたわ。沢山来た祝辞の中でも一番嬉しかったわよ」
 明弘は母親の話を聞いて新たな疑念が浮かんだ。「何でいじめてたの」疑問を口に出した。いじめていたのを流す程の人を、いじめる理由があるのか。
「中学生の時に並木や道端に生えてる草にブツブツ言ってたから、気持ちが悪かったって言ってたわ」
 明弘は眉をひそめた。同級生に同じ行為をしている人がいたら、父親と同じく目を付けている。父親がいじめていた理由が何となく分かった。「お母さんも、井上さんは変わってる人だなって感じてたの」
「お父さんは何も抵抗しない、抵抗しても弱い奴だったって言ってたから私も同じ印象だった。でもアドバイスをしながら土をいじっている時は違ってた。職人の目だった。人間って、弱い部分と強い部分は領域で変わるのよ。弱くていじめていた人が、気づいた時には得意な領域の人で頭が上がらなくなってたのよ。自分が強いと意地が張っている時は今だけよ。だから強くても弱くても、互いの能力を尊重し合うのが大事よ」
 明弘は曖昧に頷いた。国語の授業で平家物語の最初が似た内容だったなと感じた。一方で適当に流していたので理解出来ず違うなとも頭の中で否定した。
 母親は苦笑いをした。「良い人だから知り合いの人を紹介してるんだけど、植物が伴侶だからって避けててね。ご両親も困ってるわよ」
 窓の景色が近所の光景になった。車は家の駐車場に入った。
 母親は車を止めた。
 明弘は車を降り、母親は車を止めてから降りた。



 翌日は昨日と同じ光景に戻った。
 明弘は亜美と一緒に出て学校に向かった。校舎に入り、職員室の前に来た。
 職員室は生徒達が寄り付きにくい場所なので元々人気はない。
 明弘は黒板に目をやった。特に何もない。周囲を見回した。萩原がいないのに寂しさを覚えた。普段なら喫煙室前でタバコを吹かしながら話をしているサラリーマンと同じ感覚で話し込むのが日課だった。職員室から先生が出てきた。「お前、全校集会だぞ。すぐ戻れ」
「全校集会ですか」明弘は先生に尋ねた。
「突然決まったんだ、戻れ」
「分かりました」明弘は適当な返事をし、教室に戻った。
 教室には廊下に生徒達が集まっていた。全校集会に向けて整列して行動する為だ。先生は戻って来て間もない明弘を見付け、近づいた。「おい早く並べ。集会だ」
 明弘は先生の言葉通りに生徒達の列に並んだ。点呼が終了し、生徒達は体育館に向かった。1時間目の授業は全校集会に差し変わった。
 体育館の中に全校生徒が集まった。少子化が著しいので全員が入っても尚スペースに余裕がある。
 全校集会が始まった。メニューは普段通り、校長先生と生活指導の先生の話だ。
 校長の話は延々と続いた。生徒達は壇上の脇に設置してあるアナログの時計を見ながら、終わる時間が来るのを待っていた。内容は誰も聞いていない。
 20分が経過した。話が終わり、校長は壇上から去っていった。ついで生徒指導担当の先生が壇上に上がった。生徒達への挨拶と共に話を始めた。生徒指導の先生は校長よりも長く、押し付けがましい話に定評のある。生徒達は校長先生の長い話の次なのもあって、魂が抜けた状態で話を聞いていた。
 明弘も他の生徒の例に漏れず、気を抜いていた。先生が話す内容は昨日の出来事に関する話だと気付き、抜けていた魂を戻して聞いていた。余りに冗長なので話の内容を拾い、頭の中でまとめて組み立てていく。
 生徒指導担当の先生の話によると、昨日生徒が倉庫にて工場跡に秘密基地を作ると称して向かった。内に入ると人が使った状態のままだったので中身を取り除くか否かで揉めて事故が発生した。との話だった。生徒は怪我をして一人は入院し、一人は治療を受けていると続いた。最後に無闇に他人の土地に入るなと警告して締めた。
 明弘は先生の話に違和感を覚えた。萩原に相談した為に鈴木を締めると言って秘密基地の予定にする空き倉庫に呼び出したのが理由だ。自分と萩原の正義感が背景にある。先生が言わなかったのはあえて隠したか、誰一人として証言しなかったかだ。
 話を終え、先生は礼をした。生徒達は魂を戻して、先生に礼をした。話を始めてから20分以上が経過していていた。
 生徒達は体育館から一斉に退場した。窓が開いているとはいえ、生徒が密集しているので蒸し暑くなっている。明弘が体育館から廊下に出た時、冷えた空気が体を通っていき爽快感を覚えた。檻から開放した動物の気分だ。通路を通って教室に戻った。
 授業は無事に終わった。委員会も今まで通りの校庭の掃除と花壇、緑のカーテンの整備だった。
 明弘は委員に混じり作業をしていた。萩原がいないだけで心に穴が開いた感覚がした。先生が緑のカーテンの網を調整していた。心の中で引っかかっている部分が糸を引っ張っているのに気付き、近づいた。「すいません、先生」
 先生は作業を止めて、明弘の方を向いた。「何かあったか」
「昨日の一件から、鈴木と萩原先輩の調子が気になってまして」
 先生は頷いた。「鈴木は骨折で近くの病院に入院してる。萩原は古い農薬が傷口に入って炎症を起こしている。二人とも当面は休みだな」
 明弘は先生の話に申し訳ない気持ちになった。自分が原因で二人にダメージを与えてしまったのだ。先生には余計なトラブルを避けたかったので言わなかった。「ありがとうございます」先生から離れ、別の場所に設置してある緑のカーテンの調整をした。
 委員会が終わった。明弘達は解散し、学校から去っていった。
 明弘も生徒達に混じって学校から出ていった。他の生徒と異なっていたのは、目的地が家ではなく病院だった。学校の近くの病院と言えば警察署と同じ通りにある病院しかない。地元の人間の評判は低い。但し地元密着型の病院ではごく当たり前で、実際には他に場所がないので普通に利用している。通学路を外れ、大通りに出た。警察署と違い、病院は歩いて行くと決めたら行ける距離にある。似た景色を歩いていくと、白みがかった黄色の建物が見えた。
 病院は5階建てで外壁は白だったが、年数の経過と共に色あせて黄色くなった。救急車を止めるスペースがあり、脇に出入り口がある。入り口に病院の名前が張り出してある。入り口は2箇所ある。一つは往診用で、もう一つは面会用だ。他に緊急用の搬送口がある。
 明弘の足は無意識に往診用の入り口に向かっていた。鈴木が入院する羽目になったのは自分に原因がある。謝らないと気が済まなかった。ロビーは年寄りを中心に人が集まっていた。自動ドアが開き、中に入って待合室に来た。
 待合室は年寄りを中心に、席の空きがない程度に混んでいる。受付の上に備え付けてあるテレビから刑事ドラマの再放送が流れていた。
 明弘は病院の階段に向かった。階段前には看板が立っていた。面会の受付時間と手続きに関する内容が書いてある。引き返して受付に向かった。デスクにある用紙に必要事項を書き込み、看護師に提出した。
 看護師は笑顔を見せず、事務処理を行う感覚で用紙を受け取った。首掛けのストラップのカードと共に注意事項が書いてある紙を渡した。ついでラミネートしてある案内の紙を取り出し、鈴木の入院場所について説明を受けた。
 明弘はストラップを首にかけ、紙の内容を流しで読んでからポケットに入れた。内容は読まずとも分かっていた。公の場所で私を出さない。ただ一つの事柄さえ守っていれば十分だ。階段を上り、看護師が指定した場所に向かう。
 廊下は白一色で静かだった。ドラマで見かける慌ただしさはない。
 明弘は病院の落ち着いた雰囲気に安心した。同時に尿意を覚えた。看護師から説明を受けた時に見た案内図の状況を思い出し、急いでトイレに向かった。
 亜美が早歩きで廊下を歩いて来た。明弘とすれ違い、階段を降りていった。
 互いに似た人間とすれ違ったのに気づいたが、用があるので振り返らなかった。
 明弘はトイレに入り、用を済ませた。トイレを出て、看護師が案内した病室に入った。
 病室の中は入院している人のベッドが並んでいて、カーテンでプライベートエリアを確保出来る仕組みになっている。看護師が入院している患者の世話をしていた。
 明弘はベッドに付いている表札を見て鈴木のベッドを見付けた。鈴木の姿はなく、ベッドの上に淡いピンク色の封筒が乗っている。鈴木の名前が書き込んである。亜美の書いた文字だと気付いた。幼い頃から兄妹で楷書の塾に通っていたので、文字の癖が分かる。看護師の方を向いた。患者の世話が終わっていた。「すみません」看護師に声をかけた。
 看護師は明弘の方を向いた。「何か御用ですか」
「昨日か今日から入院している鈴木、さんですけど今はいないんですか」
「つい4、5分前に診察に行きましたよ」
 明弘は看護師の言葉に眉をひそめた。入院する程の怪我なのに診療室で診察をするのか。「診察って、歩いていけるんですか」
 看護師は首を振った。「連れて行きましたよ。精密検査の続きがあると言っていました。戻ってくるまで待ってますか」
 明弘はベッドの上の手紙を見た。亜美は余計なトラブルは未然に避ける。裏を返すと良好な状態を保つのに余計な手間を惜しまない。避けずにワザワザ手紙を置いていくのだ、貸し借りがあったのは事実だとしても険悪な関係ではない。放置しておくのが最適だったと気付き、後悔した。「すいません、帰ります。自分が来たのは言わないでおいて下さい。色々と面倒になりますから」
 看護師は頷いた。
 明弘は病室を出て待合室に戻った。首から下げているカードを返していないのに気付き、面会の受付に戻るべく踵を返した。
「よお」明弘の耳に聞き慣れた声が聞こえた。
 明弘は振り返った。萩原の姿がある。足首に包帯が巻いてある。
「お前も怪我で来てたのか」
「別の要件があってきたんだ」
 萩原は明弘を訝しげな表情で睨むも、すぐに笑った。「病院に来るなんざ、普通の用事じゃないもんな」
 明弘の表情が緩んだ。
「何で来なかったんだよ」
 明弘の表情が固まった。
「お前が来なかったせいでいらねえ怪我したんだ。お前だって、妹に近付いてくるろくでなしは嫌だろ。鈴木の奴、退院したらトラウマ植え付けるまでやっつけてやる」
 明弘は息を呑んだ。同時に萩原にある疑念が浮かんだ。問いの答え次第で疑念が事実か杞憂か分かる。「亜美は病院にいませんでしたか」
 萩原の表情が和らいだ。「妹さんが来てたのか」喰い気味に明弘に尋ねた。
「いえ、来てたかも知れないって何となく」明弘は適当に返事をした。亜美は往診用の受付に来ていないのが分かった。萩原が亜美が帰る時間に病院にいたのは確かだ。来ていなければ来たばかりで分からない、と返す。
 萩原は笑みを浮かべた。「お前いい加減だな。次は来いよ。妹さんの為だからな」
「はあ」明弘は曖昧に答えた。いいえと答える訳に行かない。かと言って、はいと主体のない返事もしたくない。「帰ります」
「じゃあな」萩原は明弘の肩を軽く叩いた。
 明弘はロビーから廊下を通り、面会の受付に向かった。亜美は面倒を嫌う。嫌いだと判断した要素からは徹底して避ける。行き来が楽な往診用ではなく、面倒でも面会の受付を通って帰ったのだ。理由は明確に分かった。萩原が嫌で避けているのだ。鈴木に借りているのは道具ではない、関係の確認から来た借りだ。他人に話せばこじれ、亜美に迷惑がかかるのが明らかだ。鈴木は分かっていたから話さなかった。萩原が脅しても話すより話さない方を選び自分で答えを貫いた。屈しない強さを持っていると言えば聞こえが良いが、話さなかったがために入院する程の怪我を負った。萩原も亜美に近付く者を排除するのが自分の強さだと認識している。強さとは他人を犯し自らを破滅に導く毒だ。受付に来て、カードを返却した。
「ありがとうございました」看護師はカードを回収した。
 明弘は面会用の出入り口から外に出た。肌に当たる空気が、冷房の冷えた空気から蒸した空気に変わった。一瞬寒気を覚えるもすぐに慣れ、何も感じなくなった。大通りを辿り、角を曲がって通学路に合流すると駆け足で家に向かった。
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