夢でありますように

文字数 2,953文字

 ―― 誰かに追いかけられていた。
 走って、 走って、 死に物狂いで走って逃げていた。 俺は何かから逃げていた。
 恐らく、 とてもおぞましい存在から逃げていた。
 
 太ももを上げるのが重い。 腰や肩に何かが乗っている様な変な感覚がする。 前に走っているのに、 後ろに引っ張られているような、 そんな不思議な感覚がする。 地球の何十倍も重力がある様な場所を走っている、 そんな気がする。 そして逃げようと必死になればなるほど、 体は思い通りには動いてはくれず、 重さも増すばかりだった。
 背後から、 おぞましい存在が近付いて来た。 少しずつ、 俺との距離が縮まる。

「どうか、 夢でありますように」

 俺は神か仏か、 もしくはこの世界を見守る『彼女』に、 祈った。 視界が暗転した。
 見慣れた天井が見える。 仰向けになって、 俺はぼんやりと天井を見ながら…… 夢で良かったと胸を撫で下ろす。

 *

 ―― 窓の向こうに雲が見えた。 俺は旅客機に乗っていた。 目的地は分からない。
 雲間から鳥が見えた。 こんな高さに鳥? 首を捻る間も無く、 鳥が旅客機に急接近して、 衝突した。 機内が激しく揺れる。 鳥だと思っていた黒い飛翔体は、 戦闘機だった。
 客室乗務員が何かを叫んでいた。 乗客は酷く混乱している。 機体が火を噴いて傾いた。 安い玩具が壊れる様に、 旅客機はバラバラと砕けて墜ちていく。
 ―― 死ぬ……
 死んだことは無いが、 直感で死ぬのだと確信した。 数秒先はもう、 俺としての意識は消えて、 肉体も灰になってしまうのだろうと。 そう思った途端、 とてつもない恐怖が脳を支配した。

「どうか、 夢であってほしい」

 俺は神か仏か、 もしくはこの世界を見守る『彼女』に、 祈った。 視界が暗転した。
 見慣れた天井が見えていた。 仰向けになって、 俺はぼんやりと天井を見ながら…… 夢で良かったと心から思った。

 * *

 ―― 空を飛ぼうとしていた。 走って、 助走を付けて、 地を蹴った。
 身体がふわりと浮かび上がった気がした。 しかし、 すぐに引力によって地面に戻された。
 俺は負けずに、 何度も何度も走って助走をつけて、 空を目指した。 飛行機が離陸する時の様な感覚で、 俺はふわりと上がった。
 町中に張り巡らされた高圧線を紙一重で避けながら、 広い空を飛ぶことができた。 とても気持ち良かった。
 都心の高層ビルを、 華麗に避けながら空の旅を楽しんでいた。 暫くすると、 陽が落ちて夜になった。 美しい夜景が広がる。 もう少し、 高くから町を見る事は可能なのだろうか?
 空を飛びながら、 宙を見上げると真っ暗な空間が広がっていた。
 漆黒だけが無限に広がる宇宙を見て途端に、 恐くなった。
 地上に戻ろうとするが、 引力が弱い。 背中に広がる漆黒の宙に、 俺は吸い込まれた。 どんどんと地面が、 町が、 大陸が、 地球が遠くなっていった。
 光のような速さで後ろに引かれた。 肉体がバラバラになっていった気がした。 俺という存在は地球から無くなって、 言葉の通り消えてしまったのだと思った。 誰も、 俺を覚えてはいないし俺を知っていた人も居なくなった。
 ほんのりと残ったこの意識は、 何処へ向かうのだろう。 なぜ後ろに引っ張られ続けるのだろう。 ブラックホールにでものまれてしまったのだろうか……
 何年、 何十年、 何百年、 何千年、 何万年、 何億年…… 気が遠くなる距離で輝いていた、 今はもう存在しない星の光の様な…… そんな途方も無い時間、 引っ張られ続けて…… もう、 これが誰であったのかさえも忘れてしまった頃、 ふと

「どうか、 夢であったならなぁ」

 と、 かつて生きていた地球という星の超越した神と呼ばれる存在の類や、 もしくはこの世界さえも見守る『彼女』に、 祈る様な

をした。
 どうにか保てていた意識さえも粒子となって、 消滅しそうになった…… 時。

 粒子になった俺の意識を掻き集めるように、 光で象られた手の細い指先の様なものにそっと拾い上げられた。
 俺の存在を分解する途方もない力から守るように、 その指先は俺を優しく包み込んだ。

— — — —

「安心してくださいね」

 彼女が居る。
 白いレースのカーテンが、 四季のよそ風に靡いている。 彼女の深海を連想させる長い髪が彼女の室内に流れ込んだ風によって、 無数の糸がちらばるように、 さらさらとはためいている。
 俺に背を向けながら、 彼女は言う。

「ちゃんと、 今回も夢ですよ。 その恐さも目を開ければ泡のように消えてなくなるでしょう。 だから安心してくださいね」

 彼女の前には地球儀が置かれている。 地球儀を見つめながら、 彼女は紡ぐ。
 彼女は……

「見えない何かに追われて恐怖した命も、 空で航空機と衝突した命も、 空を飛ぼうとした命も、 何年、 何十年、 何百年、 何千年、 何万年、 何億年…… 気が遠くなる距離で輝いている、 今はもう存在しない星の光の様に途方も無い時を引っ張られ続けた命の記憶も…… キミにとっては、 過去の夢です。 だから、 安心してくださいね」


 …… 彼女は、 誰なのだろう。
 どうして彼女の後姿を懐かしく思うのだろう。 俺は、 誰なのだろう。
 また……

  ―― 会えるのだろうか。
「会えますよ、 必ず」

 俺の心の声と重なる様に、 彼女が囁いた。
 彼女が地球儀を、 人差し指で撫でた。
 
「命の旅を全て終えて、 私の許に還ってくる日を楽しみにしていますね」

 ―― 何かが廻転した。
 彼女が撫でた地球儀が廻転したのだ。 それと時を同じくして、 粒子になった俺の意識が、 すっかりと消滅した。

* * *

 天井があった――
 見慣れた様な、 酷く懐かしい様な、 そんな天井だった。
 仰向けになって、

は天井を見た。 今回は……
 今回は、 とても長い夢だった。 相変わらず、 夢の世界はあべこべだ。 楽しかった気もするし、 悔しかった気もするし…… でもいつも最後には消えてしまうのだ。 そうして…… 最後に消滅する瞬間は、 夢でありますようにと、 何かに祈るほど、 やっぱり恐さしか感じなかった。
 でも…… と、 俺は上半身を起こして、 サイドボードに置いていた写真を手に取った。
 写真の中の彼女は、 無邪気に笑っていた。 写真を抱きしめて、 俺はむせび泣いた。

 消えたいほど辛くても、 死にたいほどに苦しくても、 夢にみるほどキミに焦がれても……
 目覚めたこの瞬間こそ、 夢であれと願っても…… 叶わないのだ。

 痛みを感じる今こそがリアルなのだと、 彼女によって思い知らされるのだ。 そして、 この感情を抱けるリアルを、 俺は愛してしまうのだ。
 
 生きている俺は与えられた感情を抱き、 喪失と共に歩いて行く。
 己の死に向かって、 歩いていくのだろうと思う。
 その道中で、 夢であってほしい夢を夢みながら…… いつか、 見慣れたこの天井が映らなくなった、 その時……

 ようやく俺は、 俺を終わらせる日へと辿り着いて、 俺ではない俺が彼女と再会する。そんな約束を、 果たせるのかもしれない。
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