文字数 9,665文字

 殺しに殺し捲ってきた俺が、今日ばかりは年貢の納め時らしい。タバコを吹かしながらクスリと笑った。
 ──もう十分生きた。
 ──四十二まで思い通りの人生、散々生きた。
 ──思い残すことはねえ。
「ヤツの正体は一体なんだ?」
 ヒグマみたいな巨体のくせして、音もなく滑るような走りにしなやかな身のこなし。獲物を仕留めん、と躊躇いもなく猛進する猪の意志強さ。その存在感には終始圧倒され通しだった。しかし実態は掴めないのだ。あれ程接近して死闘を繰り広げたというのに。しかも獣臭は微塵もない。それどころか、どことなく人間臭さが漂ってくる。ヤツと対峙した時、惨めさと憎しみめいた感情が絡み合って胸の奥深くで複雑に渦巻いた。確かに、恐怖をもたらしてくる相手だが、どこか懐かしさを覚えて仕様がないのだ。あの赤い目の奥はこの俺の何を捉えているのか知りたい。心を見透かされているとしか思えない。なぜそんな風に思うのか分からない。取るに足らないこの世の屑ごときあんなケダモノに俺の心は乱されている。
「ヤツの存在が一体何なのか知り尽くしたい。いや、知らなければならない!」
 俺は直感的にそう思った。ヤツの正体を暴いてこそ、俺の存在理由が詳らかにされるのだ。だから俺は生死をかけて真っ向勝負すると決意したのだ。
 西口方面を振り返って見た。ヤツの気配はない。短くなったタバコを摘まんで地面に弾き飛ばし、東口へ向け、バイクを滑らせた。
 中間地点からしばらく行くと、池が見えてきた。そこに架かる橋は確か二〇〇メートルぐらいだ。俺は橋の袂で一旦バイクを停めた。
 凪いでいる。辺りはシンと静まり返り、平和を貪り尽くしているかのようだ。余りの静けさに耳の奥に痛みが走る。鼓膜が捉えた心臓のドクドクと脈打つ音だけが緊張を保っている証だった。
 拍動数が一気に上り詰める。こめかみの血管が痛み出す。眼球が膨らみ、瞼がキッと見開いて神経は過敏に反応し始める。案の定、鼓膜は微細振動を聞き逃しはしなかったし、皮膚はほんのりとにおう吐息すら感知した。舌なめずりの気配だ。俺の全身は忽ち粟立ち、武者震いした。

     *
 
 俺の背中に空圧が襲った。精緻な探知機と化した全身の感覚器が捉えたのだ。
「後ろだ!」
 咄嗟に振り返る。何も見えない。が、殺気は確実にこちらに迫りくる。
 寸前まで引き寄せておいて、殺る。
 Tシャツを引きちぎり、左手にトカレフを縛りつけて固定した。アクセルを吹かしながらヤツの接近を待つ。
 頭の中で勝利の瞬間だけを思い描く。飽くまでもポジティブな思考で気持ちを奮い立たせ、己のポテンシャルを最高潮に上げるのだ。位置エネルギーの高さに比例して仕事の成功率も高まる。
 鼻から息を吸い、肺に溜め、口から細くゆっくりと吐き出す。バックミラーを睨みつつ、それを繰り返しては平常心を保てるように仕向けた。
 ミラーに赤星が映り込む。針の穴を通したような点が一つ次第に小さく揺らぎ始め、いっときしたら、点は二つに分離し、上下左右へとランダムに振動を繰り返す。
 点は加速度的に大きさを増してきた。二つの赤い玉がうねりながら迫ってくる。俺は振り返った。目測で約200メートル。
 ──100メートル……50メートル……
 俺は急発進してバイクを唸らせた。
 バイクの加速と共に、ヤツもスピードを上げ、迫る。徐々に距離が詰まる。フルスロットルで引き離しにかかったが、ヤツは難なく追いついた。そのまますぐ後ろにピタリとついて走行してやがる。
 死臭を嗅ぎながら弄ぼうとの魂胆か、ミラーには欲望の赤い玉が俺を捉えて決して離さない。いよいよ輝きは増した。死肉を求めている証なのだ。
「オレの屍を貪りたいか!」
 俺は鼻先で笑いながらトカレフを標的に向けた。
 引き金を引く。
 命中する度に、重低音の声が俺の耳を襲う。苦しみの呻きというより、興奮を抑え切れずに発した歓喜の雄叫びに聞こえた。
 ヤツの爪が高々と天に翳される。
 俺は一旦トカレフを引っ込め、両手でハンドルを取った。攻撃をかわさんと蛇行する。
 と、爪は鋭く振り下ろされ、空を切り裂く悲鳴と共に革ジャンを引っ掻いた。咄嗟に尻をシートから外して左側へ避けた俺は、危機一髪で難を逃れたのだ。
 だが、ヤツの爪はそのままシートに突き刺さってしまった。車体が制動をかけられ減速する。
 体勢を元に戻し、再び銃口をヤツに向けると、前腕を狙って撃ち捲った。血飛沫が飛び散り、ヤツの悲鳴が聞こえたかと思ったら、突然バイクは加速し始め、その巨体を置き去りにして逃げ切った。
 橋を渡り切り、しばらく行ってバイクを停め、振り返って見た。ヤツの気配は完全に消えた。
 ふとシートに目を落とすと、黒い塊がくっついていた。銃弾に切断されたヤツの右腕の一部だ。そいつを両手で掴んで、革張りのシートに食い込んだ爪を引き剥がしにかかる。
 血潮の煮えたぎった毛むくじゃらの肉塊を、渾身の力でやっと引き抜くことができた。鎌のように湾曲し、先端は鋭く尖ったニ十センチメートル程の巨大な爪が五本、指先からのびている。こいつにやられたら、ひと掻きでお陀仏だ。
 血の滴る肉づきの鎌を木々の間へ放り投げると、東へバイクを走らせた。
 あと百メートル足らずで東口へ出る。やっとこの災厄から抜け出せるのだ。俺は心の中で勝鬨を上げ、アクセルを吹かすと、さっきの対決を振り返った。
 ほんの数十秒程度、否、十秒にも満たぬ攻防戦だったろう。捉えどころのない風貌といい、備えた武器といい、何とも身の毛もよだつケダモノだ。想像しただけで鳥肌が全身を走った。俺は生まれて初めて恐怖を味わっていた。一度身震いして、息を肺の奥へ吸い込み、己の臆病風の元凶を口元から思い切り吐き捨てた。
 出口が見える。前方を睨みつけながら、己が魂を猛り狂ったエンジンに乗せ、最後の直線を突っ走る。
 ──時速80㎞……100㎞……
 アクセルを吹かす。
 ──時速100㎞……80㎞……70㎞……
「なぜだ!」
 程なくしてバイクは減速し始めた。わけが分からない。
 ミラーを覗く。何も映ってはいなかった。後方を振り向いても、赤い目玉もヤツの影も見えない。
 ──時速50㎞……40㎞……
 減速はおさまらない。
 前方に東門が見える。あと数十メートルで森を抜けられる。しかしバイクはとうとう俺の意に反して停止してしまった。アクセルを吹かしても前に進もうとはしない。
「寸前で故障とは……オレの運も尽き果てたのか?」
 舌打ちして息を思い切り吐いたら、喉の奥が呻いた。
 ほんの4、50メートルに過ぎない。俺の足で8秒にも満たぬ距離だ。全力疾走で難なく決着はつく。考えあぐねた結果、バイクを降りた。決断したら最早躊躇はしない。バイクを捨て、スタートダッシュを切った。
 好スタートを切ったにも拘らず、数メートル行っただけで自ずと足は止まった。突然、さざ波が起こったかと思ったら、巨大な影が飛び出て、東門を塞いでしまったのだ。俺はあとずさり、バイクの元へ戻る羽目になった。
 どう考えても可笑しい。如何なる獣もこれ程速く先回りするのは不可能だ。どこかに抜け道でもあれば話は別だが、この森には存在しないことは承知済みだ。翼があるとも思えないし、木から木へと渡ってきたとでもいうのか。
「あんな体重のケダモノがか? まず、あり得ねえ!」
 俺は仕方なく、バイクを反転させ走らせてみた。と、難なく加速し、忽ちスピードメーターの表示は100を超えた。故障は既に直っていた。俺はまた西へ向けて走った。
 程なくして橋に差し掛かった。バイクは一直線上を唸り続ける。
 橋の中央にきた時、また減速し出した。俺は咄嗟に後ろを振り返った。が、ヤツの姿は認められない。バイクは急停車して動こうとはしない。アクセルを吹かす度にエンジン音が虚しく響くだけだ。
「万事休すか。ここがオレの終焉の地というわけか……」
 呟いてこの先の運命を見定めた。覚悟を決めると、心は穏やかなものだ。もうあたふたする必要はない。運命に身を委ねるだけだ。「どっちが勝っても恨みっこなしだぜ」
 俺はバイクを降りると橋の欄干に尻を落ち着け、左手に巻いていた布切れを解いた。トカレフを右手に持ち替え、その瞬間が訪れるの待った。
 長い時間が経った時、ガリガリと何かが引っ掻くような音が聞こえて、そちらに目をやる。
 バイクのシートの上を何かが這っている。その正体を見定めたとたん、背筋は凍りつき、脊椎が頭蓋に突き刺さる。反射的に銃口から火が吹いた。ソノモノは、俺に襲いかかってきた。
 ヤツの千切れた腕が俺の首を締めつける。

     *

 首を掴んだ五本の爪が徐々に肉に食い込む。
 必死にもがいて両手で引き離しにかかったが、抵抗虚しく、頸動脈を締めつけられると意識は遠退いて、ストンと両膝を地べたについてしまった。
 薄れゆく意識の中でトカレフをヤツの腕に当て至近距離からぶっ放した。と、意識は回復して、力の緩んだ隙に爪を剥がすと、地べたに叩きつけ、粉々に砕け散るまで銃弾を食らわせてやる。辺り一面にミンチが散乱した。
「さっきの減速の原因はこいつの仕業だ!」
 東の方から吠え声がした。どこか悲し気な響きで俺の魂を責め立てる。そちらに目をやると、真っ赤な目玉が闇に蠢いた。
 俺は咄嗟にバイクに跨って西へと走らせた。難なく加速し、橋を過ぎ、森を疾走し続けた。
 ミラーには赤い光は映り込んではいない。
 俺は何があってもこのまま走り続けることに決めた。たとえヤツと鉢合わせになろうとも。
 木々の騒めきを左耳が捉えた。微かなにおいと頬に風圧が届く。ヤツが移動する気配だ。恐らく行く手にヤツは必ず現れるだろう。
「それがどうした!」
 俺は前だけを睨み、バイクで闇を切り裂いた。
 前方に赤々と燃え立つ目玉が俺を嘲っている。俺はトカレフをぶっ放しながら立ち向かった。ヤツもこちら目掛けて突進する。
「コノヤロー!」
 俺が雄叫びを上げると、ヤツも吠えやがった。
 スピードメーターに目が行く。
 ──時速100㎞!
 互いのスピードが加算され、200㎞超えだ。
「上等だ! きやがれ!」
 俺の興奮は最高潮に上り詰める。最早、死も厭わぬ。殺るか殺られるか。この生存を掛けての刹那を生きるだけだ。
 凄まじいスピードで接近する。
 ──10、9、8、7、6、……
 俺は頭の中でカウントダウンを開始した。じきに決着はつく。
「5、4、3、2、1、……ゼロ!」
 目の前に眩い閃光が走った。俺の肉体と魂は引き離され、虚無が襲いかかる。物質と反物質との衝突で対消滅の瞬間だ。俺はバイクから飛ばされ空中を舞って背中から地面に叩きつけられた。全身に衝撃が走り、身動きは叶わなくなっていたけれども、意識は保っていた。
 仰向けに横たわった俺の体にヤツがのしかかる。重みに内臓が圧迫され、胸苦しくて息ができない。
「コイツはナニモノだ?」
 目玉だけがギラギラと赤い閃光を放ってはいるが、毛むくじゃらだとばかり思っていた肢体は黒い靄そのもので、まるで輪郭がつかめない。闇と溶け合うかのようだ。その上、何とはなしに俺と同じにおいがする。ヤツの目を見つめていると、どこか共感さえ覚える。底知れぬ恐怖と快楽とをもたらす真っ赤な熱情だ。俺を殺したがっているのだ。だが、不思議なことに俺に恐怖心は湧かない。死ぬことに怖れなどない。
「さあ、やってみろ!」
 俺はトカレフの引き金に右手の人差し指をかけると、手首を曲げて銃口をヤツの心臓付近に向ける。
 ヤツの残った左腕がゆっくりと動いた。俺の胸元に爪を立て、金切り声を発した。まるで歓喜の雄叫びだ。一本の爪が、俺の胸部を横一文字にスッと浅く切り込みを入れた。痛みは感じない。
 顔を近づけ、滲み出る血を舌ですくい取ると上体を起こし、また爪で傷口を弄り始めた。肉と皮膚の境目に爪を立て、じわりと剥がしにかかった。
 反射的に奥歯が合わさり、ギュッと噛み締める。喉の奥から甲高い振動が歯ぎしりを誘発した。俺の喉は激しく息を吐き出すだけで決して吸い込めない。 
 ゆっくりとゆっくりと皮膚を剥ぎ取ってゆく。
 堪らず俺の足は地団駄を踏み続ける。全身に震えが走る。俺は短い呼吸を繰り返し、身を震わせながら、やっとの思いで引き金を引いた。
 銃弾は数発確実に心臓を撃ち抜いたものの、ヤツは怯むことなく俺の両腕を膝で押さえつけながら、平然と俺を解剖し続けるのだ。
「助けてくれー!」 
 俺は堪らず叫んだ。
 すると、ヤツの手は一旦休息し、目玉が一層赤く燃え始めた。ヤツの爪が今度は深く抉るように俺の肉を骨からこそぎ落としてゆく。
 闇を切り裂かんばかりに俺の喉から雷鳴が轟いた。自らの悲鳴は苦痛を倍増する。苦しい。この苦しみから逃れたい。自ずと願望の言霊は口元から放たれる。
「早く殺せ。楽にしてくれ。頼む、死なせてくれー!」
 だが、弱音を吐いたとて、ヤツは俺の命を弄んで、一向にやめる気配はない。
 ──一体、何がしたい!
 ──お前みたいな魔物に弄ばれる命などない!
 ──人の命は尊いものだ!
 ヤツは一旦行為をやめると、こちらをじっと見下ろした。突然、その顔が目の前に接近して、赤い目玉が俺を睨みつけた。俺は顔を背けて逃れると、目玉は閉じられ、辺りは暗闇になる。
 再び二つの玉は尚一層真っ赤な炎と化したかと思えば、その牙で俺のはらわたが引きちぎられる。ヤツは俺の臓物を貪り始めたのだ。いよいよ俺の苦痛は極まった。早くこの苦しみから逃れたい。
 ──死にたい!
 ──オレの肉はお前にやる!
 ──だが、オレが死んだあとにしてくれ!
 ──オレの屍はお前のものだ!
 ──だから、早く楽に死なせてくれ!
 ヤツは食らうのをやめ、上体を起こすと、また俺を高みから見下ろす。
「頼む。トドメを刺してくれ!」
 俺が懇願すると、ヤツは嬉しそうに雄叫びを上げ、俺の臓物を舐め回し始めた。
 右腕が自由になっていたことに気づいた俺は銃口を自分のこめかみに当てた。このまま引き金を引けば悪夢から解放される。苦しみから逃れられるのだ。俺は迷わず引き金を引いた。
 だが、俺は生きていた。銃弾は頭を貫通などしなかった。それはヤツの手で防御されたのだ。
 俺は悲しさのあまり、嗚咽する。死にたくて堪らないのに死ねない辛さ。生き地獄を生きねばならぬ不条理。余りの不条理に己の運命を呪った。死にたくてもトカレフを持ち上げる力も気力も潰え去った。最早、己の命すら制することはできない。この命を支配できるのはヤツだけだ。ヤツが全能の神なのだ。
 俺は激しく嗚咽した。泣き喚いた。子供のように泣きじゃくった。
「死にたいよう。お願いします、殺してください。オレを苦しみから救ってください」
 俺は祈った。魔物に向けて祈った。
 俺を見下ろしていたヤツの目玉が幾分暗くなったかに見える。
 ──分かってくれたのか?
 ヤツは静かにあとずさると、再び雄叫びを上げながら向かいかかってきた。
 俺は覚悟を決めて、最期の瞬間を待ち侘びた。
 ヤツは爪を立て、俺の頭皮を剥がしにかかる。俺は悲鳴を上げ、歯を食い縛った。と、ヤツの牙が俺の頭蓋を噛み砕く音が響いてきた。
 ──ダメだ、殺せ! 
 ──ひと思いに殺してくれー!
「トドメを刺してくれー!」

     *

 夕日が左頬を突き刺す。
 死にたくて堪らないのに死ねない恐怖と苦痛に苛まれ、気がつくと、夕日を浴びながらベンチに座っていた。
 ハッとして己の胸元に手をやる。肉は削がれてはいなかった。頭部に牙の痕もない。辺りを見渡すと、森林が青々と茂っているだけだ。穏やかそのものだ。足元には短い吸い殻が一本だけ踏み消されていた。
「夢……か?」
 しかし、リアルな夢だ。
 ──本当に夢だったのか?
 もう一度己の全身を弄ってみる。この身に傷ひとつもない。懐に手を入れてみる。トカレフはちゃんとホルダーにおさまっていた。
 風が立った。
 微風にのって仄かな臭気が鼻腔をくすぐった。熟れたザクロの│()だ。
「ヤツのにおいだ!」
 あれが夢だった、と本当に言い切れるのか。夢だと思い込もうとしているのではないのか。俺は考え続けた。だが、俺には分からない。夢と現実の境界線がはっきりしないのだ。
 俺は震えていた。心底怖い。夢ならこれ程の怯えなどないはずなのに。
 ──どういうことだ?
 ──オレ自身が変なのか、この世がおかしいのか? 
 ──いや、オレは真っ当だ!
 世の中がまともじゃないのだ。だから俺はこの世を正すために悪者狩りをしてやった。正義の鉄槌を下しただけだ。
「嘘じゃない!」
 今、誰かが俺を否定したから、俺は自分の正当性を主張した。「違う! 確かに血のにおいが好きだ。だが、オレが殺ったのは悪人だけだ。オレの仕事は社会のためになってきたはずだ」 
 声がする。頭の奥部で激しく俺を揺さぶってくる。俺は耳を塞ぎ、頭を掻き毟った。何度もかぶりを振って声を弾き飛ばした。少しふらついたものの声は遠ざかった。
 俺はいっとき頭を抱えながら直接脳へと忍び込んでくる声と格闘したあと、ようやく落ち着きを取り戻し、ベンチの背もたれに寄り掛かった。暮れかかる公園の遊歩道がぼんやりと目に映る。
 俺は立ち上がると、メットを被りバイクに跨った。エンジンをかけ、東口へとゆっくりと滑らせる。
 夢の中の出来事を頭に再現しながら、すっかり日が落ちた森を行くと、ヘッドライトが橋の全景を照らす。
 袂でバイクを一旦停め、前方を見据える。赤い玉を探した。が、当然存在するはずはない。
「夢ごときに怯えるとは……」
 己を嘲ると、またバイクを走らせた。
 何事もなく東口までやってきた。アクセルを吹かし、最後の直線を疾走する。
 と、前方に何かが蠢いた。バイクを急停車する。
 じっと闇を凝視する。闇が破け、ほんの小さな光が見えた。俺は首を傾げながら見入った。
 それは次第に膨れ上がり、二つの赤い玉となってこちらに向かってくる。
 咄嗟に俺の体は反応して、バイクは逆走を始めた。一心不乱にフルスロットルで疾走した。バックミラーには何も映らない。
 ──あれは幻だ!
 ──現実じゃない、夢なんだ!
 何度ミラーを確認しても赤い光は映り込まないし、気配すら感じはしない。
「オレはどうかしてる。頭が変になったのか?」
 と、前方から赤い光が突進してきた。肌は粟立ち、急に全神経が滞り、生命活動を停止させたかのように、全身が強張って身動きできない。俺はなす術もなく激突の瞬間へと運命を走らせた。

     *

 ヤツは俺を生きたまま貪り尽くそうと躍起になっている。
 俺は命乞いなどしない。ただただ死を求めていた。この苦しみから逃れたい一心で死を求めた。だが、ヤツは許してくれない。これ程の恐怖を植えつけ、オレを生殺しの生贄に仕立てるとは……。
「お前はナニモノなんだ?」
 俺は赤い目を覗きながら、その奥の実態を探ろうとした。
 唐突に俺の思考を何者かが操るように、脳に直接囁きかける。その声を苦痛に喘ぎながらも聞いた。
 ──オレだと?
 ──お前はオレ自身なのか?
 ──別次元のオレ!?
 ──オレがお前を呼び寄せた?
 ──オレが次元の壁を破ったとでもいうのか!
 ──オレ自身が望んだ……?
 ──ほざきやがって!
 ──お前が真のオレの姿……?
 ──違う、断じて違う!
 ──オレはお前みたいなバケモノじゃねえ!
 ──オレは確実に殺してやる!
 ──死の恐怖は与えてやるが……
 ──死ねない苦痛は決して与えはしない!
 ──だから、お前みたいな残酷さはオレにはない!
 ──分かったか!
 ──だったら、早く殺ってくれ!
 ──もう十分楽しんだだろうが!
 ──頼むから楽にしてくれー!
 ──死にたい、死にたい、死にたい!
 真っ赤に燃え盛る二つの光が俺の魂を八つ裂きにする。身も心も苦痛に耐えきれず、目を瞑って闇に逃れた。力を振り絞り、腹の底から叫んだ。
「早くトドメを刺しやがれー!」

     *

 死にたいのに死ねない恐怖が襲いかかる。俺は頭を掻き毟り死を切望した。
 闇が去り、瞼が明るくなった。全ての痛みが消えていた。
 ──死んだのか……?
 ──ここは、あの世か?
 恐々目を開けてみる。
 穏やかな西日に照らされ、爽やかな風が頬に心地いい。木々の葉擦れが鼓膜をくすぐる。辺りを見回してみる。目の前にバイクが停まっていた。
 俺はベンチに座っていた。 
 ──夢なのか?
 夢か現か分からない。 
 胸に手を当て鼓動を聞いてみる。命の焔は灯っていた。
 ──ということは……
 ──こちらが現実の世界なのか?
 分からない。俺には分からない。なぜ生きているのか理解できない。生きているのなら、またあの恐怖が襲ってくる。死より過酷な苦しみを味わい続ける呪われた現実が。本当の恐怖は、死ねないという運命なのだ。それを悟ると、また全身に震えが走る。
 ヤツの赤い目玉が見える。脳裏に焼きついていつ何時も襲いかかる。常にヤツは俺を次元の狭間から監視して決して逃してはくれないのだ。俺の魂が怯え出す。最早この苦痛には耐えらない。
「死にたい」
 俺はトカレフをこめかみに当てた。迷わず引き金を引く。乾いた銃声が鼓膜をつんざいた。
 ──これでやっと死ねるのだ!
 だが、どうしたことだろう。何かが俺の行為を阻んだ。
 ふと横を向いたら、ヤツがこちらを覗いているではないか。恐怖のあまりギュッと目を閉じ、やり過ごした。
 恐る恐る目を開けた時には既にその姿はなく、ベンチの上には銃弾が一発だけ零れ落ちていた。
 ──オレはまだ生きている……
 絶望だけが俺を支配した。どう足掻いても死ねない。
 ──そんな絶望を友として生き長らえねばならないのか!
「嫌だー!」
 誰かがこちらにやってくる気配がした。そちらに目をやると、通りすがりの制服姿の女子高生二人が目に留まった。
 ──そうだ、彼女たちに頼もう……
 俺は立ち上がるとベンチを離れ、彼女たちのほうへ近寄った。怖がられぬよう笑顔を拵えると営業を始める。
「こんにちは」
 深々と頭を下げる。
「──こんにちは……何か?」
 彼女らも快く笑顔で応対してくれた。
「あのう、恐れ入りますが……私を殺してくれませんか?」
「エッ? どういう……意味でしょうか?」
 彼女らはお互い顔を見合わせ、首を傾げる。
 俺はトカレフを高々と天に翳して見せた。
「これで撃ち抜いてくれるだけでいいんです。人って簡単に死んじゃうんですよ。ねえ、物凄く面白そうでしょう……人殺しって」
 俺は天に向け発砲した。
 と、彼女たちは悲鳴を上げると、一目散に今きた西口方面へと走って行った。
 俺は二人の後姿を目で追いかけながら、絶望を噛み締めていた。仕方なくベンチへ戻ると、頭を抱えて嗚咽した。
 そうして、どれだけの時間が過ぎたのだろう。俺には最早時間の感覚さえ分からなかったし、そんなことなど最早どうでもよかった。ただただ、どうやって死ぬかを考え続けていた。
 人の足音が聞こえる。咄嗟にそちらを見た。制服警官が近づいてきた。突如、俺の気持ちは明るくなった。心に光明が差し始めたのだ。
 さっそく立ち上がり、銃口を向けながら警官たちを歓迎した。一発天に向かって発砲する。
「銃を捨てろ!」
 その声に心は浮き立ち、銃口を警官に向ける。
「ヘヘヘ……撃ってくれ! さあ、射殺してみろ!」
 俺は近づきながら躊躇せず、引き金を引き続けた。勿論、的は全て外して。
 リボルバーから放たれた銃弾は、有難いことに、俺の胸を撃ち抜いてくれた。俺はその場にくずおれた。仰向けに倒れた俺の目には広々とした空が映る。青々と晴れ渡り、一点の曇りなどない。
 ──やっと死ねる!
 ──ヤツの目から逃れられる!
 ──これで苦痛とはおさらばだ!
 俺は咽び泣いた。嬉し涙に暮れた。
「ありがとう……」
 俺を覗き込む警官二人に感謝の言葉を送った。
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