文字数 6,192文字

 幼い時分から死は身近だった。悪友といってもいい。
 最初の殺しは、十二の冬。
 小学校から帰宅したら、例のごとく伯母が暴れていた。
 木造ぼろアパート一階の隣同士に俺たちは暮らしていた。
 飲んだ勢いで我が家に乗り込んで母に悪態をつき、罵倒し、挙句にはわざわざ隣室まで帰り、再び戻ってきた手には包丁が握られていた。凄まじい険相で切っ先を母に突きつけた。
 母を庇おうとした俺にも刃は容赦なく向く。慌てて手を翳した瞬間、ちくりと切っ先が手の甲を傷つけ、微量の血がじんわりと滲み出る。
 母が俺と伯母の間に躍り出ると、猛り狂った全身凶器は尚も手を緩めることなく執拗に襲ってきた。俺たち母子(おやこ)はあとずさってうまく攻撃をかわし、その度に包丁がシュッと空を切る奇声が鼓膜をつんざいた。
 そこに三宅という老夫婦が玄関から顔を覗かせた。伯母の狂気の叫びと母子の悲鳴に、ただならぬ気配を嗅ぎつけてきたのだ。老夫婦は土足で上がり込み、伯母を制してくれた。三宅夫妻が現れてくれなかったら、母は確実に腹を刺されていた。この俺も無事では済まなかったはずだ。お陰で、俺たち母子は命拾いしたのだ。
 俺は実の伯母といえども、たとえ素面ではなかったとしても到底許すことはできなかった。その蛮行は未来永劫繰り返されるに違いない。
 だから俺は決心した。
 前日から雪が降り積もり、午後を過ぎても気温は下がり続け、バケツには厚い氷が張っていた。夕方になると増々冷え込み、どこもかしこも道という道は凍りついていた。
 俺は公園に伯母を呼び出した。珍しく素面で現れ愛想笑いをこちらに向けていたが、余計に憎らしかった。俺は、
「帰ろうか」
 と言って促しながら、公園を出て下の道路へ続く階段の上に誘導した。
「ちょっと待って!」
 と声をかけ、伯母が階段の上に立ち止まって後ろを振り返った瞬間、俺は全く躊躇しなかった。
「この外道が!」
 伯母の口癖を俺がそのまま返してやる。
 タックルされた伯母の体は後ろ向きに吹っ飛んで、くるくると舞を披露しながら転げ落ち、アスファルト目掛けてスイカ頭を叩きつけ、たちまち白銀は鮮血で汚された。
 俺は滑らぬように階段を下り切り、割れたスイカを覗き込んだ。
 これで災いは絶たれた。諸悪の権化を退治できたことに心は浮き立つ。同時にどくどくと流れ出る血潮のにおいを嗅ぎ続けたい願望が湧き上がった。
 それ以来、死に魅入られ、取り憑かれ、同じ感覚を味わいたい衝動に幾度も駆られた。だが、成人するまで、高校の同級生を一人、町のならず者を一匹殺ったに過ぎない。手口は伯母を仕留めた時と何ら変わり映えはしなかった。確かに、血のにおいに喜びは感じたが、面白くはない。もっと他のやり方も試してみたくなった。
 それから地元の大学へ進み、世間一般での真っ当な職に就いたものの、満たされるものではない。これでは蛇の生殺しだ。生きがいを求め、職探しに奔走することになる。今の世、探せば夢は必ず叶うと知った。営業マンをやりながら二足の草鞋を履くことにした。サラリーマンになってこの方、組織は性に合わぬと常々思い知らされたゆえ、フリーランスの道を求めたのだ。
「俺という人間は一匹狼がよく似合う」
 以来、請け負った仕事は誠心誠意責任を持って遂行してきた。掟に従い、失敗は決して許されぬ。
 この趣味と実益を兼ねた副業──否、こちらが本業だ──を始めて以降、精神衛生上も頗る良好な生活を送ることができている。
「ヒットマンは俺の天職だ!」
 声高に叫びたいものだが、小声で宣言する。
 依頼を受け契約成立に至れば、ターゲットを消すだけだ。が、接近しても直ぐに実行することはまずない。銃口を突きつけながら丁重に旅立ちの場へと誘導する。なぜ命を奪われるのか、その正当性と理由を申し述べ、命の尊厳を説いて末期の懺悔を聞いてやり礼儀を尽くす。最期の一服を施し、しばしその光景を眺める。
 俺がそんな慈悲深さを演出してやると、時に勘違いする輩もいて、殺害までには至らないだろうと勝手に解釈し、涼しげな顔をこちらに向けてくるのだ。しかし、全ての儀式を済ませたら、跪かせ、一発ぶっ放して不意打ちを食らわせる。狙う的はその時の気分に沿う。致命傷に至る部位は避け、肩、腿、耳、腕……の何れか一箇所を撃ち抜き、最早死は避けられぬ旨を悟らせる。あとは延々と傷口を痛めつけ、弄んで苦悶の表情で命乞いするさまを楽しむ寸法だ。段々と切羽詰まった色を滲ませる表情が面白くて堪らない。死にたくないのに不条理にさらされ死に追いやられる寸前の恐怖に歪んだ顔といったら、あらゆる芸術作品にも勝る、真の芸術だ。
 命を支配する。俺が全能の神となる瞬間なのだ。
 激しいドーパミンの分泌が中毒症状を引き起こす。そんな快感を味わい続けたい。
 ──それが殺しの理由だ。
 そして、せめてもの仏心から、二発目で必ず昇天させてやる。
 ──これが俺の流儀だ。
 さっき殺めた男たちの顔が目前に浮かび上がった。

     *

 ──さて、二発目はどこを狙う?
 一瞬で絶命に至らしめるには頭部だろうが、ここは思案のしどころだ。動脈を傷つけ、出血多量という手段も趣深いが、今はリスクが大き過ぎる。絶命に至る間に発見されたらことだ。証言から足がつき、俺の正体が暴かれ兼ねない。
 ──やはり頭だ!
 俺は即決した。
 恰幅はいいが幾分くたびれ気味の幹部風情のほうは、頭部を撃ち抜いて早々に仕事を切り上げ、活きのいい新鮮な未熟者は、泳がせておいて存分に楽しませてもらおう。
 こめかみに銃口を突きつけた。ダークスーツの右袖が血で湿っている。ヤツは右肩の弾痕に左手をあてがいながら命乞いをする。
 ──この表情が堪らねえ!
 ──さあ、もっと怖がれ!
 俺の興奮も頂点を極めつつある。
「殺したい」
 思わず口走り、頬が痙攣して笑みが零れ、上下の歯がガタガタと鳴った。俺の喉は嗚咽にも似た喜びの呻きを漏らした。目を引ん剥いて見やると、ヤツは獣の遠吠えらしき声にもならぬ声で懇願する。泣き出さんばかりの(まなこ)が訴えかける。
「誰が助けてやるものか!」
 俺は叫んでキッキッと奇声を上げて笑う。
 もう我慢の限界だ。目を引ん剥いたままチラと隣の若造に視線を向け微笑み、再び第一のターゲットに眼光を突き刺した。ヤツの恐怖もいよいよ極まったらしい。震えながらズボンを濡らす有様が何とも痛々しく、その姿に俺の全身も震えた。
「10、9、8、7、6、……」
 俺は御親切にもカウントダウンで命の期限を明示してやる。が、あと五つだけ残して中止し、じっと目を覗き込んだ。
「──頼む……見逃してくれないか……」
 威厳を奪い取られ、俺を拝み倒す姿が憐れだ。命を張って組織を束ねてきた男の成れの果てが、ただの物乞いだったとは見るに忍びない。
 ──最後に威厳を取り戻してやるべき……
「よーし、あんたが残りの五つを数えてください。それで男の威厳は保たれるはずだ。さあ、どうぞ!」
 年長者には最大限の敬意を払ってやるのが道理だ。会社勤めで培ってきたビジネスマナーをよくわきまえている俺は、言葉を選んだ。
「殺さないでくれ! お願いだ!」
 俺は静かに首を横に振り、左手を翳すと指を一本ずつ折っていった。
「さあ、早く。けじめは自分でつけてください。5、4、……」
「助けてくれー!」
「ダメだ。折角俺が慈悲を示してやったのに拒否するとは、人として許されるものじゃないですよ」
「死にたくねえ……」
 男は頭を抱えて地べたに這いつくばった。
「……3、2、1、……」
 俺が静かにカウントダウンを再開すると、男の喉が異様な呻きとも悲鳴ともつかぬ声を漏らした。
「ゼロ!」
 反動は腕から全身を揺さぶり、俺の魂が共鳴して嬉し泣く。
 乾いた銃声が残した鮮血が、横たわった男の体を洗い始めた。こめかみから噴き出る血潮を指ですくい取り、人差し指と親指で擦りながら鼻に近づけ、命を存分に味わい尽くした。
 ゴソゴソと衣服が擦れる音がして、靴音が遠ざかる。俺は微笑みながらそちらに顔を向ける。と、すかさず引き金を引いた。
 逃亡者は転倒し、広く殺風景な駐車場の中央でのたうち回っている。狙い通り、弾はヤツの右脚を撃ち抜いた。俺はゆっくり近づくと、地べたを這いずり回るイタチ野郎を見下ろしてやる。
「立て」
 素直に従い、くぐもった目を向けるイタチ野郎を見据えながら一歩近づけば、ヤツは一歩あとずさる。銃口を額に押しつけ、その目を覗き込み微笑んでやった瞬間、トカレフは激しく抵抗を企てた野郎の手中におさまっていた。
 ヤツは震えながらも勝ち誇った顔を向けた。両手でトカレフを構え、銃口をこちらに突きつけた。必死の形相で睨む眼が可愛らしくもある。抵抗こそ若さの特権だ。俺はヤツを頼もしく思った。
 ──そうだ、もっと抵抗しろ!
 ──若い生命力をオレに見せつけてくれ!
 俺は心の中で切に願った。無謀な衝動に駆られるのは生きんとする生命の反射だ。人は生きなければならない。その当然の権利を俺が吸い取ってやる。生き残りをかけての戦いこそ、この世で唯一意味ある尊い営みなのだ。
 ──命と命のぶつかり合い……
 ──何と美しいことよ!
 俺はヤツに背を向け、歩き出した。黒塗りのベンツの前に停めていたバイクの傍までくると、跨って煙草に火をつける。一服吹かして口角を上げ、熱い眼差しを送ってやる。
 ヤツは銃口をこちらに向けながらベンツのドアを開け、乗り込んだが、すぐに飛び出してきた。
「キーをよこせ!」
 俺は抜いておいたベンツのキーを右手に摘まんで目線に翳した。ヤツはツカツカこちらへ向かってくる。キーに手が届く距離まで近づこうとしたところを見計らって、キーを思いっ切り放り投げた。と、駐車場の敷地を越えて、傍を流れる川底へ沈んでいった。
「ヤロウ、ナメた真似しやがって!」
 呆然とキーの行方を目で追ったあと、ヤツはすっ飛んできて銃口を俺のこめかみに強く押し当てた。自ずと首が力の向きに靡く。俺はなされるがまま、鼻先で笑いながらもう一服吹かした。 
「お、降りろ!」
「これで逃走するつもりか?」
 燃料タンクを右手で撫でながら咥えた煙草を吹き飛ばす。
「早く……どけ! う、撃つぞ!」
「怖いか?」
「な、なにぃ!」
「的は近い。まず外すことはねえぜ」
 お互い睨めっこは続いた。
 ヤツは痺れを切らしたようで、少しだけ後ずさってトカレフを両手で構え直すと、引き金に指をかけた。銃口が小刻みに揺れている。とうとう、震えながらもヤツの右手人差し指は引き金を引いた。
「ステイ!」
 俺はその瞬間、おどけながら呪文を唱えた。トカレフはステイしたまま吠え立てることもなく黙りこくった。やはり、飼い主の指示には忠実に従うものだ。
 ヤツの焦りようといったら、喜劇を演じているつもりなのか、三文芝居もいいところだ。何度も引き金を引く仕種は、最早見るに忍びなかったので、抜いたマガジンを目線に掲げてやった。同時に俺はアクセルを吹かした。それに驚いたヤツは尻餅をついた拍子にトカレフを頭上に放り投げてしまった。トカレフは空中を舞い、ベンツのボンネットを直撃して地面に滑り落ちた。ヤツは慌てて起き上がると逃げる。逃げるは逃げる。脚を引きずりながら、一目散に遠ざかって行く。
 俺はトカレフを拾うと、マガジンを装填してイタチのあとを追った。
 一旦追いつくと、先回りして待ち伏せ、また追いかける。それを何度か繰り返した。ヤツの息が上がり、疲労の色が見えてきた。それでもとことん追い掛けっこで遊んでやった。いよいよヤツの脚も縺れ出すと観念したのか、その場に跪いて俺を拝み始めた。
「助けてくれー! 頼むよ、何でも言うこと聞くから……」
「オレは、お前に恨みがあるわけじゃねえぜ」
「た、助けてくれるのか。ありがてえ!」 
「クライアントに依頼されただけだからなあ」
「そ、そうか。恩に着るぜ!」
「ただ……」
「ただ……?」
「ただ……オレは生まれつき血のにおいが好きなだけなんだ」
「どういう意味だ?」
「お前のことはクライアントからは何も聞いていない。だから何も知らない、お前がどういう人間かなんて。知る必要もない。オレとお前に接点なんてないんだ。あるのは、殺しの契約だけだ。お前は、クライアントとの契約を破棄しろというのか?」
「あ、ああ……頼む! こっちも、あんたに恨みなんかねえし、そんな契約、不当なもんだろう? 金で解決できりゃ、このオレが倍額払うからよ……」
「じゃあ、オレの生きがいはどうしてくれるんだ?」
「生きがい? 金で済む話じゃねえか、そうだろう?」
「オレの生きがいを金で奪い取るつもりか? あまりにも悲しいぜ」
「分かった。オレを解放してくれたら幾らでも払うよ。すぐに用意するから……だからもう勘弁してくれよ!」
「そうできりゃ、苦労しねえのさ。まったくなあ……」
「だったら、あんたの生きがいってやつをこのオレが与えてやろうじゃねえか。それで文句はあるまい。何なんだ、あんたの生きがいって?」
「ほう、分かってくれるのか。だったらお前と契約し直そうじゃねえか。お前が生きがいを与えてくれるなら、契約成立だ。こっちも文句はねえぜ」
「そ、そうか。ありがとう。話が分かる相手で命拾いしたぜ。で、あんたの生きがいってえのは何なんだ?」
「殺しだ」
「どういう意味だ? 誰を殺るんだ?」
「契約成立したじゃねえか。お前がオレに生きがいを与えてくれるって。もう反故にはできねえよ。お前との契約を果たしてやるよ。だから、お前の助かる確率はゼロだぜ」
 俺は銃口をヤツのこめかみに突きつけた。
「やめてくれー! そんな理屈があるもんか! 死にたくねえよー!」
「おお、もっと喚け。もっとオレに恐怖の顔を見せてくれ……もっと、もっと!」
 俺はヤツと交渉を続けた挙句、契約に従った。そろそろ日も暮れかかってきたし、仕方なく引き金を引いた。

     *

 二体の屍を見やると、無事任務を遂行した満足感に浸りながら、その場を離れた。
 仕事場を無事に出て一般道をしばらく行くと、左手に森林公園が立ち塞がっている。街の向こう側へ出るには公園沿いの道路を行って迂回するか、公園内を東西に走る遊歩道へ進入して最短距離を辿るか、二つに一つ。
 さっき数台のパトカーと擦れ違った。恐らく犯行現場へと向かっているのだ。ということは、事件発生確認後、すぐに緊急配備が敷かれるはずだ。検問突破は困難になる。もたもたはできない。俺は迷わず近道を選択した。
 日暮れ時ともなれば、暗く寂しい園内からは人影は消える。たとえマシンが唸ったとて、気づかれる心配は無用だ。スピードを上げ、公園の入り口に差し掛かるとバイクを左に倒した。
 西口から中へ入ると、反対側の東口へ抜ける一直線の細い道路をしばらく行ってバイクを停めた。ジェットヘルメットとシートを交代すると、ベンチに座ってタバコに火をつける。ひと仕事終えた爽快な気分での一服は、昂った神経を宥めてくれ、ひと際美味いものだ。
 左目の視界を掠める夕日が眩しくて目を細めた。斜陽はバイクの影を東側のアスファルトへ長々と引いていた。
 ひと時の休息を味わったあと、背に西日を浴びながら東口へとバイクを滑らせた。
 魔物に遭遇するとは夢にも思わずに……。
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