秘めたる愛の証

文字数 1,991文字

 警察の鑑識員登用試験に合格したことを報告しようと西荻窪の家を訪ねると、婆ちゃんは居間の真ん中で大量の荷物と格闘中だった。
「婆ちゃん、何してんの?」
「遺品の整理」
 後ろから声をかけると、こっちを振り向くこともなく、冗談とも本気とも言えない口調の返事を返してきた。
 両親が共働きだった俺は、小さい頃から婆ちゃん子だった。小学校が終わると、毎日まっすぐ婆ちゃんの家に来て、夕飯を食べ終えた頃に迎えに来る母親と一緒に自宅に帰った。いわゆるキャリアウーマンの走り的な存在だった俺の母親は泊りで出張することもあり、そんなときはこの家から登校し、この家に帰ってきたものだ。
 婆ちゃんとの思い出で一番記憶に残っているのは、小学校五年生のときの運動会だ。
 その週末、うちの両親は二人とも外せない仕事で、運動会には来れないということだった。そういう状況には慣れているので、しょうがないなと割り切っていたつもりだった。だがやはり子供だ、本当は寂しく、それが表情に出ていたのだろう。
 婆ちゃんが応援に来ると言ってくれた。それどころか、父兄参加の借り物競争にまで出ると言う。しかも出る限りは裕太(俺だ)には恥をかかせられないと、婆ちゃんはその日からトレーニングを始めた。
 結果はぶっちぎりの一位だった。明らかに他のお父さんお母さんより年寄りで、誰よりも必死に運動場を駆け回る婆ちゃんの姿は滑稽で、正直俺は恥ずかしかった。でも、嬉しかった。
 あの日、小柄な婆ちゃんは俺にはとても大きく見えた。
 だが今俺の目の前にいる婆ちゃんは小さかった。
「洒落にならないから、遺品とか言うなよ」
 そう心の中で呟いたその時、俺の目は一冊の単行本に気をひかれた。見るからに年季の入ったボロボロのその本は、他の多くのガラクタと一緒に机の上に置かれていた。それなのに、なぜか俺にはその本だけが特別な扱いを受けているように見えたのだ。
 俺の視線に気が付いたのだろう、片付けを中断して、こっちに近づいてきた婆ちゃんの表情は、いつになく真剣だった。婆ちゃんは、本を手に取ると言った。
「こっちも、整理しておいた方が良いんだろうね。これも何かの縁かもしれないから、裕太に話を聞いてもらおうか」
 そう言うと、婆ちゃんは仏壇の爺ちゃんの遺影を伏せて、話し始めた。
「当たり前だけど、婆ちゃんだって生まれた時から婆ちゃんだったわけじゃなくて、今のあんたみたいに若い乙女だった時期があったんだよ。
 婆ちゃんさ、女学生の時、バスで学校に通ってたんだけど、そこで毎朝一緒になる大学生の男の人がいてね。色白な男前、バスの中でもいつも本を読んでて見るからに頭が良さそうな人で、婆ちゃん勝手に頭の中で先輩ってその人のこと呼んで憧れてたの。
 昔は恋愛が自由な時代じゃなかったから、こっちから声をかけることもなく、そのまま終わるはずだった。ところが、ある日バスが故障して、たまたまその人と二人で長い道のりを歩いて帰ることになって。それで、まあ色々あったんだけど、とにかくお付き合いすることになった。
 それからは、人生であんなに毎日が輝いていた時はない、そう言えるくらい楽しい時間を過ごした。ところが、半年くらいたったある日、いつものようにバス停に行ったら、思いつめた表情で先輩が立っていたの。びっくりして、婆ちゃんが近づいていったら、先輩は、押し付けるようにこの本を渡して、そして何も言わずに走り去っていったの。
 何が起きたのかまるで見当もつかなくて呆然と立ち尽くしてたんだけど、本の間に手紙が挟まれてることに気が付いてね、もちろんすぐに手紙を読んだ。
 手紙には、先輩が結核を患っていて、遠くの療養所に行かないといけないこと。婆ちゃんとはもう会えないこと。婆ちゃんのことがどれだけ好きだったかってことが書かれてた。そして、手紙が挟まれていたページには、吐血したんだろう先輩の血の跡が付いていた。
 今と違って、結核は不治の病だったからね。本当はそれでも、一緒についていきたかった。でも、先輩が婆ちゃんのことを考えてくれていることが分かったから、本当に泣く泣く諦めた。お爺ちゃんと結婚するときに、手紙は捨てたんだけど、この本だけは捨てきれなくてね。
 だから、これは婆ちゃんの秘めたる愛の証」
 おどけた口調で、そう語り終えた婆ちゃんの目は、愛おしそうに、でも切なく潤んでいた。
 俺は、その本を婆ちゃんから受け取った。川端康成の短編小説集だった。ぱらぱらと本を捲ると、明らかに何度も開いたのであろうページにたしかに婆ちゃんの言った染みが残っていた。
 その染みを眺めていて、つい専門的な疑問が俺の頭に浮かび、思わず口に出た。
「これ、血痕じゃなくて、コーヒーの染みだよ」
 あっと思った時には、遅かった。
 俺の手から本を奪い取ると、婆ちゃんはうなるように呟いた。
「あの野郎!」  
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