御堂狂四郎とスイートボブの出会い

文字数 4,295文字

 彼との出会いは僕が狂気のサバンナに閉じ込められていた時だ。
 
 僕はあの時期ほど、何かに怯えていた時はなかった。
 ドアの外にはカラフルなキリンやサイやゾウ。悍ましい紫色の舌をぶらんぶらんさせ、煙みたいな翼をはためかせ、僕を食い殺そうと探していた。やつらはみんな盲目で、僕の部屋の扉を見つけることはできやしなかったんだけど。それにしたって、自分を狙ってる連中が辺りをウロウロしてる場所ってのは恐ろしいもんさ。 
 僕はそんな場所で数ヶ月、隠れていたんだ。
 
 ある時、ベランダに漂着した小舟から、一人の男が降りてきて、部屋へ入ってきた。
 そいつは異様な姿だった。チリチリの髪、ロックスターのような派手な服、浅黒い肌、一目で外国人だと分かる顔付き。
 僕は毛布に包まったまま、彼をジッと見つめていた。男は僕を見つけると、わざと大げさに驚いたような仕草をしてから、笑ってこう言った。
『悪いんだけど、少し匿ってくれないか?』
 僕が黙って頷くと、男は安堵して地面にへたり込んだ。これが僕と、スイートボブとの出会いだった。
 
 僕は部屋の明かりをつけて、ボブにタバコをやった。ボブはそれを実にうまそうに吸い込むと、まるで天に昇るような表情で煙を吐いた。
 彼は半分ほどそのタバコを吸うと、僕に残りをくれた。なんともドラマティックな、友好のサインだ。僕らはそのやりとりだけで、互いに認め合う何かを感じた。
 
 僕は自分の話をほとんどしなかったが、ボブは何でも僕に話してくれた。
 彼は遠い国(どこかは言わなかったが、多分サンフランシスコとか、西海岸の辺りだと思う)でダンサー兼ミュージシャンをしていたが、とある有名画家の娘に手を出し、その画家と繋がりのあるギャングに命を狙われているのだという。
 ピストルの弾が頬をかすめる中、命からがら輸送船に密航して故郷を脱出し、しばらくはバリ島とシンガポールを行ったり来たり、土方や牛乳配達や麻薬運びなどのアルバイトで生計を立てていたものの、以前の華やかな暮らしが忘れられず、悶々とした日々を送っていた。ある日、カフェで旅行客が日本の話をしているのを聞いた。

 日本では身体を売りたい女がごまんといる。連中を捕らえてきて、他国で売れば金を生む事ができると。女一匹の売値で我々の一月の給料分になり、その女が日々日当を稼いでくれる、さらにその女に子どもを産ませれば手当が配給されるし、子どもが女なら数年後には売り物になる。これが次世代のビジネスになる、と。
 
『故郷には帰れねぇし、表舞台も危なくってダメだ。落ちぶれちまった俺が再び栄光を手にするには、これしかないって思った。そんで、あのオンボロに乗って買い付けに来たってわけさ。命懸けでね』
 
 僕はボブの話を黙って聞いていたが、その計画のバカバカしさに吹き出しそうになっていたのは言うまでもない。その計画には日本の女の恐ろしさがまるで考慮されていないからだ。

 僕は親切心から、ボブにそれを教えてあげた。日本人の女は君が思っているほど弱い生き物じゃない。ネコでも捕える気分でやろうと思っているのなら、今すぐ国へ帰った方が良い、と。
 
 ボブは具体的な説明を僕に求めてきた。寝転んでいた僕は座って、ボブにこう言った。
『日本の女、確かに今はそれなりの値で売れるかもしれないが、あっという間に供給過多になって価値が下がるぜ。なんせ、日本は売女列島の異名が付くほどのエロ国家なんだ。そのビジネスなら過去に多くの人が着手してるしね。それに女どもときたら、自分の淫売に誇りを持って淫売の過激さで競い合ってるような状況だよ。今に売れなくなったら組合を組織して、淫売騒動を起こして市場を転覆させちまうだろう。今の君の考えでは、ギャングの親父に撃ち殺されるか、おまんこの津波で窒息させられるか、二つに一つなんだよ』
 
 ところがボブはこう言った。
『お前さんの理屈には性欲が欠けてるぜ。熟れきった柿の実が地べたにボタリと落ちるみたいに、男が玉を失うっていうのか?ありえねえよ、男どもはどの時代も、女に飢えてる。未来永劫、女は売り物になるさ。ただし、鮮度が肝要だがな』
 僕を見据えるその目は青い炎に満ちていた。彼の野心と、人間が秘めている愚かさへの確固たる信仰が見てとれた。僕は何も言い返せなかった。実際、僕も四六時中、怯えている時以外は女の事ばかり考えていた。
 
 ボブと出会ってからというもの、外の様子は様変わりしてしまった。
 動物達は青白い月光の下で安らかに眠っているし、時々は塩ビやアルミの小人がラッパやオルゴールを鳴らしながら列を成して歩いているのさえ見かけた。屋根の先からメイプルシロップがツララみたいに垂れ下がるのを、蜂の胴体に少女の顔をした天使が一心不乱に舐めている事もあった。
 僕とボブはそんな光景を一日中見つめながら暮らしていた。なんて平和なひと時だったろう。
 なぜそんな変化が起こったのか、僕には分からなかったが、ボブはこう言っていた。
『精神なんてもんは、つまらない理由で簡単に変化するのさ。人間が思っているほど、俺達の内部はプロテクトされちゃいない。楽園でも地獄でもいい、そこに放り込まれちまえば、感染するのには三日とかからない。インフルエンザみたいなもんさ』

 僕にはボブの言う事が良く分かった。試しに、悲惨な記憶を掘り起こして徹底的に乱用してから、ドアの覗き穴から外を見てみた。すると、やはり世界は禍々しく捩れていて、サラリーマンも学生も、みんな死にたがっているか、殺したがっているように見えた。僕は大慌てで部屋に戻り、恐ろしさから逃れるためにボブを手を舐めた。分かってはいたものの、恐ろしい事は冗談でもすべきじゃない。ボブは僕の背中をさすりながらこう言った。
『だから言ったじゃねぇか』
 
 一月ほどが経ったある日、僕はボブに言った。
『居てくれても構わないんだけど、いつまで居るの?僕には金がないし、君は計画を実行するんだろう?』
 ボブはバーボンを瓶から直接飲みながら、
『ああ、じきにここを出ていくよ。長いこと世話になったなぁ』と、言った。
 
 僕はそれを聞いて少し不安になった。
 僕の安心や前向きな思考は、ボブが居るからだと信じていたからだ。実際、ボブの教えてくれた発想や知識で僕の生活は成り立っていたと言っていい。彼は僕の知らない事を山のように知っていて、それを惜しげもなく僕に教えてくれていた。その圧倒的な知識量が、当時の僕にはとても心強かった。

 例えば、彼は意識の構造について話してくれた。
 僕は自分の意識を、カメラで撮影した映像を直接観ているような物だと思っていたが、それは違っていた。
 ボブ曰く、意識には無数の検閲が存在し、情報が目や耳から体内に入って脳を通過し心に届くまでに、原型が留まらない程の変化をさせられているのだと言うのだ。僕はそんなはずないと言ったが、ボブは呆れたように笑った。
 
『いいか?あそこにシミがあるだろう?俺がこぼしたウイスキーのシミだが、あの中にはお前の全てが秘められている。それだけじゃない、全部詳細に語ろうものなら一生かかっても終わらない物語が秘められているんだ。これはどの物体においても同じだ。宇宙の実態や、生物史の全てや、存在という概念のアンサーまで、何もかもが全ての物体には記載されているんだ。だが、人間にそんな物を読破する時間は到底有りはしないだろう。そんな気の長い事をしていたら、女の中に子種を放出するスキがありゃしない。稀に、その神秘性に知的好奇心をヤラれちまって、全てを投げ出してまで読もうとするバカもいるけどな。宇宙の果てを目指してロケットに乗っちまうような行為だよ。まぁ、言葉で言っても信じられないだろうから、その片鱗だけをお前に見せてやる。だが、気をつけないとメンタルの配線が焼き切れてしまう。いざって時は止めてやるから、お前は俺の踊りだけを見てろ、いいな』
 
 僕は、半分止まったような、ぶつ切りの時の流れの中に居たので、ボブが何を言ってるのかサッパリ分からなかったが、言われるがまま、彼のダンスを見ていた。
 ボブは真っ暗なステージで片足を上下させ、リズミカルにステップを踏んでいた。やがて、悲鳴のような声が聞こえると、ボブの顔が印刷された原色の帯が頭上を通過し、辺り一面がボブの顔で一杯になった。その悲鳴のような音は僕の身体を握りしめるようだった。僕は全身の骨を背中から引き抜かれるんじゃないかという恐怖に襲われたが、頭の奥底は妙に冷静だったので、事前にボブに言われた通り、全神経を集中させ彼の踊りだけを凝視していた。

 ボブの背景は目眩くように変化した。オレンジ色の海、凱旋門、淀川工場地帯、毒の沼、16ビットのクレバス、アムステルダム、渋谷、クフ王のピラミッド、オーロラ、ガンジス川、アジアの寺院、火星、鯨の胎内、コミック雑誌、砂糖菓子の国、バポラ、水晶体、ヘモグロビン、葉緑体、気功、フィラメント、黒電話、だっこちゃん、パイプの中、ネオンで組み立てられたボブ、空撮、パイプの中、真っ暗な水、パイプの中。
 
 僕は流れる液体になって、世界を滝に変えたような場所を流れていった。信じられない大きさの闇に向かって落ちていくと、突然視界が開けて、黄金の都に辿り着いた。そこはボブの彫刻が回転している、奇妙な王国だった。
 だがボブは居なかった、誰も居ない王国。僕はまたパイプを流れる液体になって、元いた場所へと帰っていった。
  
 僕はその道すがら、何か物凄い真理を目撃した。それこそ、あらゆる存在を論理的に証明できてしまうような、核心的なアンサーをだ。けど、それらの記憶は帰り道に全て落とし、早い話が記憶を失ってしまっていた。正しく言うのなら『覚えているけど、どこに覚えているのかが分からない』という感じだ。
 自分の部屋の中で、物を無くすという事も有る。その場合、持っていると言えるのか僕には分からない。

 部屋に戻ると、ボブの姿はなかった。彼が座っていた場所を見ると、千切った画用紙に書き置きが有り、そこにはこう書いてあった。
『ダンスの代金、肝臓を一切れ貰っていくぜ。元気でな、またいつか』
 僕はショックで吐き気を催し、トイレの床に何もかも吐いた。部屋に戻る際、方角を見失ってしまい、二日がかりで部屋に戻るハメになった。
 
 ボブが消えた数日後、僕も部屋を出た。
 小さな広告代理店でアルバイトをする事になったからだ。
 
 ボブとは数年後、思わぬ形で再会するが、それはまた次の機会に書こうと思う。
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