第5話 くだらない言い合い
文字数 2,838文字
いつも飲んでいるコーンポタージュが、今朝は喉を通らない気がして、母が父と自分用に用意している味噌汁を飲むことにした。じゃがいもと玉ねぎの味噌汁。普段なら、あっさりしたものはあまり好んで食べないので、具合が悪いのかと心配されてしまった。
平気だから、と天田が返しても、母はまだ少し心配そうだった。天田より先に家を出た両親に続き、天田も歯を磨いて着替えを済ませ、自宅を出る。
通い慣れた通学路には、毎朝見かける顔がたくさんある。天田もその中を歩く。みんな、友達を見つけると駆け寄ったり、挨拶したりしている。いつも通りのことだ。……あの電信柱の下で天田を待っている本宮がいるのも、いつも通り。
「おはよう」
近くまで来たとき、ニコリと笑いかけられて、目を逸らす。天田には、何もなかったかのように振舞うことができそうにない。泣いてしまったのだ、この本宮の前で、僕は――。
気まずいのは天田だけなのか、それとも、本宮も同じだけど無理をしているのか。もし前者なら、少し悔しい。天田は逸らしてしまった目を本宮の顔に戻すことができずに、返事代わりに小さく頷く。
「今日も寒いね。あ、おばさん、昨日ちゃんと帰れた? 荷物多かったから――」
昨日の記憶がすっぽり抜けているわけではないことはわかった。もっとも、そんなことは、まあ有り得ないけれど――天田の母の荷物が多かったのは昨日のこと。ゴリゴリと、気持ちが削られていくような気がした。
どうして、なんでこんなに普通に振舞えるんだろう。僕が神経質すぎるだけ? 反対に、本宮が無神経だから?
本宮にできて、自分にはできないことが多い。そんなこと、天田も知っている。悔しい想いをすることだって、なかったとは言えない。だけど、自分は無神経にはなれない。今回は悔しくもなんともない。そう思った。
「ちょっと急いでるから」
天田は本宮の前を通り過ぎた。精一杯、早歩きした。
「何かあるの」という声には、「日直」とだけ返す。別に、日直だからといって、特別早い登校を強いられているわけではないのに、天田は嘘を吐いた。
本宮が妙な声を発しつつ、後ろからついて来ている。……ついて来ているというより、目的地が一緒だから仕方ないことでもあった。でも、わざわざ後ろにつく必要はないはずだ。
「何でついて来るんだよ」
天田が苛立ちながら問うと、本宮は「心配だから」と答える。何が心配だ。ああ、そうか。僕が先に学校に着いて、藤井さんと喋ったら嫌なんだ、きっとそうだ。だって、藤井さんと本宮は――そこまで考えて、虚しくなった。馬鹿みたいだと、自分でも思う。僕は何が嫌なんだろう。なぜ、紙やすりでやすられたみたいに心がざらざらしてしまうんだろう。いっそ、いっそ――この感情を吐き出してしまえたらば、楽になれるのだろうか? そんな風に考えてしまう自分が女々しくて、情けなかった。
結局、学校に着くまで天田は口を開かなかった。本宮が何かを言っても、聞こえないふりをした。だから、教室に着くと、少しホッとした。本宮と二人だけで展開されていたような世界が、解放されたような気がしたからだ。
「おー、天田。職員室行くぞ」
同じ日直の相川が、声をかけてきた。ちょうど、机の横に鞄を掛けたときだった。
「うん」と返事をし、立ち上がる。ちょっと、そう、ほんのちょっとだけ気になって、本宮の方を見てみると本宮は突っ伏す姿勢をとりながらも顔はこちらに向けていた。天田を見ている。そのメラメラと燃えるような熱い眼差しが怖くなった。何か、妙な勘違いをしてしまうような眼差しだったのだ。勘違いしてしまいそうな自分自身も怖い。
天田はサッと目を逸らし、相川に駆け寄った。
「いいんか?」と不意に問いかけられ、相川の目を見る。相川は苦笑いしつつ、「本宮だよ」と続ける。
「……僕に訊かないでよ」
そんな風に答える天田も苦笑する。相川は「まあなぁ」と言ったきり、その件については話を振ってこなくなった。不思議には思ったけれど、ありがたいとも思う。今はあまり、本宮の話をしたくはなかった。
職員室で、今日一日分のプリントを預かり、教室へ戻る。すると、本宮や自分の席の周りにクラスメートが固まっているのが見えた。そして、その中心ともいえる本宮の机に、本宮は突っ伏していた。クラスメートの一人は天田に気づくと、本宮の肩をトントンと叩く。
「ほら、よかったな。帰ってきたぞ」
意味がわからずに、天田がとりあえずプリントを教卓に並べていると、困ったように笑う藤井さんに手招きをされた。自分は無関係ではないのだと知り、天田が眉根を寄せる。
「何かあったの……?」
「天田くんが職員室に行ったときから、こんな感じ」
言いにくそうだったが、藤井さんはそんな風に教えてくれた。
「ぼ、僕のせい?」
戸惑っていると、突然、本宮は頭を上げて天田を見た。強い、強い視線だった。
「……ヒカルのせい。全部、ぜーんぶヒカルのせいだ」
見たことのない態度だ。少なくとも天田の前でこんな態度になることなんかなかった。だけど、いまの本宮は――何だか様子がおかしい。天田はひどく混乱した。頭の中で信号の色がチカチカと忙しなく変わっているみたいな気分だ。
本宮はこんな奴じゃない。いつだって気まぐれだけど、天田には誠実な奴だ。幼馴染として、友達として、こんな態度になるところを見たことはない。
「僕が本宮に何したっていうんだよ」
わからなかった。何がきっかけで、本宮がこんな態度をとるのか、本当にわからない。
本宮が、くだんの目のまま「冷たいじゃん」とボヤくように言う。冷たいとは、天田の態度のことを言っているのだろうけど、それは普段と変わらないはずだ。何を今更……。
「いつも、俺にだけ。みんな言ってるよ」
本宮が続けた言葉は、天田の心を搔き乱した。
――何なんだよ、自分は散々、こっちの気持ちを狂わせておいて! 気がつくと、天田の丸い目からはじんわりと涙が滲んでいた。
「知らないくせにっ」
いつもより上擦った大きな声が出て、クラス中がびっくりしてこちらを見ている。それでも、天田は言葉を吐き出すのを止められなかった。
「何で本宮のことでこんなに考えなきゃいけないんだよッ」
悔しくて、滲んでいた涙が零れた。何が冷たいだ。本宮だって、藤井さんと付き合うことになったんだったら、それでいいじゃないか。僕なんか、もう――必要ないくせに。
本宮の顔は見られなかった。どんな表情をしているのかもわからない。しかし自分の発言が、本宮の言葉に対する返事になっていないことだけはわかる。
藤井さんが心配そうに声をかけてくれようとするのを無視して、天田は教室を飛び出した。廊下は走ってはいけないけど、今はそんな規則は守ることができそうにない。先生に見つかったら、そのときだ。怒られてしまえばいいのだから――こんなときはどうしても、捻くれた考え方をしてしまう。
本宮なんて、本宮なんて――。
平気だから、と天田が返しても、母はまだ少し心配そうだった。天田より先に家を出た両親に続き、天田も歯を磨いて着替えを済ませ、自宅を出る。
通い慣れた通学路には、毎朝見かける顔がたくさんある。天田もその中を歩く。みんな、友達を見つけると駆け寄ったり、挨拶したりしている。いつも通りのことだ。……あの電信柱の下で天田を待っている本宮がいるのも、いつも通り。
「おはよう」
近くまで来たとき、ニコリと笑いかけられて、目を逸らす。天田には、何もなかったかのように振舞うことができそうにない。泣いてしまったのだ、この本宮の前で、僕は――。
気まずいのは天田だけなのか、それとも、本宮も同じだけど無理をしているのか。もし前者なら、少し悔しい。天田は逸らしてしまった目を本宮の顔に戻すことができずに、返事代わりに小さく頷く。
「今日も寒いね。あ、おばさん、昨日ちゃんと帰れた? 荷物多かったから――」
昨日の記憶がすっぽり抜けているわけではないことはわかった。もっとも、そんなことは、まあ有り得ないけれど――天田の母の荷物が多かったのは昨日のこと。ゴリゴリと、気持ちが削られていくような気がした。
どうして、なんでこんなに普通に振舞えるんだろう。僕が神経質すぎるだけ? 反対に、本宮が無神経だから?
本宮にできて、自分にはできないことが多い。そんなこと、天田も知っている。悔しい想いをすることだって、なかったとは言えない。だけど、自分は無神経にはなれない。今回は悔しくもなんともない。そう思った。
「ちょっと急いでるから」
天田は本宮の前を通り過ぎた。精一杯、早歩きした。
「何かあるの」という声には、「日直」とだけ返す。別に、日直だからといって、特別早い登校を強いられているわけではないのに、天田は嘘を吐いた。
本宮が妙な声を発しつつ、後ろからついて来ている。……ついて来ているというより、目的地が一緒だから仕方ないことでもあった。でも、わざわざ後ろにつく必要はないはずだ。
「何でついて来るんだよ」
天田が苛立ちながら問うと、本宮は「心配だから」と答える。何が心配だ。ああ、そうか。僕が先に学校に着いて、藤井さんと喋ったら嫌なんだ、きっとそうだ。だって、藤井さんと本宮は――そこまで考えて、虚しくなった。馬鹿みたいだと、自分でも思う。僕は何が嫌なんだろう。なぜ、紙やすりでやすられたみたいに心がざらざらしてしまうんだろう。いっそ、いっそ――この感情を吐き出してしまえたらば、楽になれるのだろうか? そんな風に考えてしまう自分が女々しくて、情けなかった。
結局、学校に着くまで天田は口を開かなかった。本宮が何かを言っても、聞こえないふりをした。だから、教室に着くと、少しホッとした。本宮と二人だけで展開されていたような世界が、解放されたような気がしたからだ。
「おー、天田。職員室行くぞ」
同じ日直の相川が、声をかけてきた。ちょうど、机の横に鞄を掛けたときだった。
「うん」と返事をし、立ち上がる。ちょっと、そう、ほんのちょっとだけ気になって、本宮の方を見てみると本宮は突っ伏す姿勢をとりながらも顔はこちらに向けていた。天田を見ている。そのメラメラと燃えるような熱い眼差しが怖くなった。何か、妙な勘違いをしてしまうような眼差しだったのだ。勘違いしてしまいそうな自分自身も怖い。
天田はサッと目を逸らし、相川に駆け寄った。
「いいんか?」と不意に問いかけられ、相川の目を見る。相川は苦笑いしつつ、「本宮だよ」と続ける。
「……僕に訊かないでよ」
そんな風に答える天田も苦笑する。相川は「まあなぁ」と言ったきり、その件については話を振ってこなくなった。不思議には思ったけれど、ありがたいとも思う。今はあまり、本宮の話をしたくはなかった。
職員室で、今日一日分のプリントを預かり、教室へ戻る。すると、本宮や自分の席の周りにクラスメートが固まっているのが見えた。そして、その中心ともいえる本宮の机に、本宮は突っ伏していた。クラスメートの一人は天田に気づくと、本宮の肩をトントンと叩く。
「ほら、よかったな。帰ってきたぞ」
意味がわからずに、天田がとりあえずプリントを教卓に並べていると、困ったように笑う藤井さんに手招きをされた。自分は無関係ではないのだと知り、天田が眉根を寄せる。
「何かあったの……?」
「天田くんが職員室に行ったときから、こんな感じ」
言いにくそうだったが、藤井さんはそんな風に教えてくれた。
「ぼ、僕のせい?」
戸惑っていると、突然、本宮は頭を上げて天田を見た。強い、強い視線だった。
「……ヒカルのせい。全部、ぜーんぶヒカルのせいだ」
見たことのない態度だ。少なくとも天田の前でこんな態度になることなんかなかった。だけど、いまの本宮は――何だか様子がおかしい。天田はひどく混乱した。頭の中で信号の色がチカチカと忙しなく変わっているみたいな気分だ。
本宮はこんな奴じゃない。いつだって気まぐれだけど、天田には誠実な奴だ。幼馴染として、友達として、こんな態度になるところを見たことはない。
「僕が本宮に何したっていうんだよ」
わからなかった。何がきっかけで、本宮がこんな態度をとるのか、本当にわからない。
本宮が、くだんの目のまま「冷たいじゃん」とボヤくように言う。冷たいとは、天田の態度のことを言っているのだろうけど、それは普段と変わらないはずだ。何を今更……。
「いつも、俺にだけ。みんな言ってるよ」
本宮が続けた言葉は、天田の心を搔き乱した。
――何なんだよ、自分は散々、こっちの気持ちを狂わせておいて! 気がつくと、天田の丸い目からはじんわりと涙が滲んでいた。
「知らないくせにっ」
いつもより上擦った大きな声が出て、クラス中がびっくりしてこちらを見ている。それでも、天田は言葉を吐き出すのを止められなかった。
「何で本宮のことでこんなに考えなきゃいけないんだよッ」
悔しくて、滲んでいた涙が零れた。何が冷たいだ。本宮だって、藤井さんと付き合うことになったんだったら、それでいいじゃないか。僕なんか、もう――必要ないくせに。
本宮の顔は見られなかった。どんな表情をしているのかもわからない。しかし自分の発言が、本宮の言葉に対する返事になっていないことだけはわかる。
藤井さんが心配そうに声をかけてくれようとするのを無視して、天田は教室を飛び出した。廊下は走ってはいけないけど、今はそんな規則は守ることができそうにない。先生に見つかったら、そのときだ。怒られてしまえばいいのだから――こんなときはどうしても、捻くれた考え方をしてしまう。
本宮なんて、本宮なんて――。