【糖分と塩分】3

文字数 3,933文字

 ――結局、俺と片桐はどちらも眠ることはせず、延々と会話を続けていた。良く、こんなに話すことがあるものだと、俺は自分にも片桐にも思う。そして、ちょうどサンドイッチの中身は何が好きかという話にピリオドが打たれたところで、四時限目終了を知らせる鐘の音を模した音が鳴った。

「あら、チャイム。そういえば頭痛の方はどう?」

「ちょっとはマシになったかな」

「良かったー! ところで、お昼ご飯はどうするの?」

「パンを買うか、食券を買うかだな」

「一緒に食堂でサンドイッチ食べない?」

 ああ、それでさっきサンドイッチの話題になったのか。と思うと同時に、そこでふと俺は疑問を覚える。

「そのサンドイッチ、誰が作った?」

「芳久」

 正直に言おう。片桐も良く分からない部分が多いが、橘さんも良く分からない。

 ――結果から言うと、橘さん作のサンドイッチは非常に美味だった。特にツナサンド。ただのツナサンドが何故こうもおいしいのか、不思議だ。コンビニで購入するものとは雲泥の差である。しかし、そのサンドイッチの味を遥かに凌ぐ発言が片桐の唇から紡ぎ出されたのだ。

「相模原君は好きな人、いないんだよね?」

 その瞬間、俺は喉を通過途中のツナサンドが危うく逆走しそうな予感を感じた。いきなり何を言い出すのだろう。本当に片桐には驚かされてばかりだ。

「ああ、いない」

 動揺していない振りをして、ツナサンドに正しい進路を教えた後に俺がそう告げると、

「私といると、相模原君は疲れる? それとも楽しい?」

 と、更に片桐は問いを重ねた。

 意図が分からなかったが、

「楽しい」

 と、俺は答えた。

 すると、間、髪を入れずに片桐は歌うように続けたのだ。

「良かったら私とお付き合いしませんか?」

 と。

 自然、俺の両目が軽く見開かれたのを感じた。何と言うか、唐突過ぎて。今しがたに話していたのは、どんなパンが好きかということだった。それが終わって少しの沈黙の後に、好きな人はいないんだよねと聞かれ。そして、この流れだ。

「ダメ?」

 卵とレタスのサンドイッチを持ちながら、日常会話のような普通の調子で尋ねて来る片桐。いや、ちょっと待ってくれと言いたい。何がどうなって、こうなると言うのだ。

「ダメなら仕方無いから諦めるんだけど」

 もぐもぐ。と、片桐は食べ掛けのサンドイッチの続きに走り、コップの水に手を伸ばし、飲む。そして再度、俺を見た。

 訪れる静かな空気。昼休みの食堂という喧噪に包まれた空間にいながらにして、俺達の周囲だけは静まり返っているような、そんな錯覚が瞬時にして流れていた。

 俺が黙っていると片桐は再び俺から視線を外し、弁当箱の中に並ぶサンドイッチに目を落とす。そして、ハムとトマトのサンドイッチを取り、食べ始める。その様子を見るとは無しに見ながら、俺は俺の思考回路を整理しようとしていた。しかし自分自身が、俺は何処か遠くに感じられていた。

 俺が思考を働かせている間も、目の前に座る片桐は、せっせとサンドイッチを食べて行く。まだ昼休みは十五分程しか過ぎていない。そんなに急いで食べなくとも良さそうなものだ。

 ――いや、俺が考えたいのはそんなことでは無い。断じて違う。そう思った時、先程の片桐の言葉が片桐の声で、俺の脳の中で再生された。お付き合い?

 確かに片桐はそう言った。いや、しかし。しかし? しかし何だと言うのだろう。逆接の接続詞の後に俺は何と続けようとしているのだろうか。俺は俺の思考回路が分からない。何かの歌にあったようにショート寸前なのだろうか。ニューロンとシナプスは情報伝達物質とやらを、きちんと運んでくれているのだろうか?

「相模原君、もう食べないの? 無くなっちゃうよ」

 もぐもぐもぐ。片桐はハムスターのように、せっせとサンドイッチを食べ続けていた。まるで先程の言葉など忘れてしまったかのように。

「ツナサンド、最後の一つなんだけど私が食べて良い? ジャンケンする?」

「いや、片桐が食べて良いよ」

 かろうじて俺はそう答えたが、サンドイッチのことなど頭には入って来なかった。

「さっきの」

「ん?」

「さっきのは本気で?」

「私はいつでも本気ですよ、百パーセント! 濃縮還元じゃないよ」

 俺の問い掛けに、そう答える片桐。それにしてはどうもアッサリしている気がして仕方が無い。あれを世間一般で言うところのいわゆる「告白」と捉えるとして、告白後、こんなに緊張も無くサンドイッチを次々と頬張れるものだろうか?

「お返事、ダメですか? 私といて楽しいって思ってくれているなら、きっとこれからも楽しいよ。フレッシュな毎日が送れるはずです。まだ短い時間だけど、相模原君といて私は楽しかったし、これからもそれが良いなあって思ったんだ」

 手元のコップを傾けて一息に水を飲み干した後、片桐は真剣な目を向けて言った。黒く、まるい二つの瞳が、じっと俺を見つめていた。

 俺が言葉を発しないでいると片桐も沈黙を守ったままだった。サンドイッチを食べるのも水を飲むのもやめて、俺の言葉を待つようにただ俺を見ていた。その瞳から俺は目を逸らせない。

 いや、目を逸らしたいわけでは無い。ただ、俺は未だ言うべき言葉を探していた。思考も整頓されていないままだった。その為の時間稼ぎがしたかったに過ぎない。

「片桐は」

「なーに?」

「片桐は、俺が好きなのか」

「好き」

 即答。そこに迷いも偽りも無いようだった。少なくとも俺はそう感じた。

 俺は、考えた挙句にひどくつまらないというか、何というか、小さな人間像を露呈するかのような質問をしてしまったようで後悔に似た思いを自身の発言後、すぐに悟ったのだが、無意識的にそこに二つの意が込められていたことに同時に気が付いた。しかし、渦巻いた複雑なようで単純な、或いは単純なようで複雑な心情は、片桐が発した、たった二つの音、たった一つの言葉で急速に霧散(むさん)して行った。

「あれ、まさか疑っているとか。本当だよ? 嘘じゃないよ」

「いや、疑っているとかそういうことじゃなく」

「そういうことじゃなく?」

「唐突で驚いた。今まで、そういう感じがしなかった気がして」

 俺がそう言うと、ああ、と片桐は納得したように頷いて両の手のひらを合わせた。

「確かに! 恋愛のお話とかしなかったし、好きですアピールもしなかったし。うん、確かに相模原君からしたら突然の出来事という感じだよね。でも、私は結構惹かれていましたよ? 分かりづらかったかもだけど」

 片桐が、にこ、と笑ってサラリとそんなことを言うものだから、俺は不覚にもグラリと揺れた。心の内側が。

 うまく言えない。非常にうまくは言えないが。俺も片桐同様、結構惹かれていたのだろう。その事実と現実に今、俺は他ならぬ片桐綾本人によって気付かされていた。そしてそれを、悪くないと受け止めている自分がいた。

 ふと、食堂全体に広がっている喧騒が耳に入って来た。まるで止まっていた時間が動き出したかのように。

 何となく、テーブルの上のサンドイッチに視線を落とす。大きな弁当箱二つにぎっしりと詰められていたサンドイッチは、あと三割程になっていた。

「あっ、サンドイッチを食べる前にですね」

 別に食べようと思って見ていたわけでは無いのだが、少しだけ焦ったかのような声の片桐へと視線を戻すと、

「お返事、聞かせてほしいな」

 そう、コトリと何処かに置くような、柔らかな調子で片桐が言った。

「勿論、お付き合いしませんよってお返事だからと言ってサンドイッチはもう食べないで下さいとかは言わないから安心してね」

 付け足された言葉は笑いを誘ったが、ここで笑っている場合では無い。

「お付き合い、よろしくお願いします」

「やった!」

 パチン、と合わせていた手のひら同士を一回鳴らすと同時に、片桐はやや大きな声でそう言って微笑んだ。

「ああ、良かったー! すっごく緊張した。心臓破けるかと思った。あっ、サンドイッチ、どうぞどうぞ」

 二つの弁当箱を、つ、とこちらに差し出して来る片桐。その後で、また一つポテトサラダサンドを手にして食べ始めている。どれほど食べれば満足するのだろう。そんな疑問が俺の脳裏を掠めた。

 とりあえず俺もポテトサラダサンドを手に取り、一口食べた。うまい。先日と言い、橘さんは料理上手のようだ。そう思った瞬間、先程に無意識に考えてしまったことが心中を再び満たして行く。それを片桐に尋ねてみたい気もした。しかしながら、簡単に口にしてはならない気もした。口にすればほぼ間違い無く、今、目の前でサンドイッチを食べながら嬉しそうに笑っている片桐はいなくなってしまうだろう。何より、俺の推測に過ぎないのだ。胸中に渦を巻いている不透明な想いなど。疑問など。

 別に聞かずに済むなら、それで良い。それが良い。単なる杞憂だと、向かいに座り笑顔で語る片桐が告げているような気がして、俺はその心を閉じ込めた。

 その日、俺は帰宅早々に風邪薬を飲み、夜の十時という眠るには早い時間にベッドに入った。今朝方よりも遥かにマシになりつつあった頭痛だが、未だに痛みは頭を支配している。一応と思い熱を計ってみたところ、平熱よりも二度高い、三十八度五分という数値を目にした。やはり風邪のような気がした。

 幸い、明日は土曜日で三時間の授業である。そして、その翌日は日曜日だ。学校を休むという選択肢は余程のことでないと俺の中には存在しない為、土日で完治することを祈るのみである。明日、起きて悪化していたら帰宅後に病院に行くことにしよう。確か、あの病院は土曜日も開いていたはずである。そう思いながら、おそらくは風邪薬のせいで生じているとろとろとした眠気に俺は身を委ね、目を閉じた。
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