【糖分と塩分】10

文字数 2,338文字

 待ちに待った、とまではいかないが三月下旬に訪れた春休みは、あっという間に終わってしまった。その間、全く高校へ行かなかったかというとそんなことは無く、自由参加の春期講習を幾つか受講していたので、約二週間程の休みの内の半分ぐらいは高校に足を運んでいた。我ながらご苦労なことだ。

 高校と公共のバス停の間の道は双方を小高い山のようなものが囲んでおり、そこに根付く沢山の木々には柔らかな緑が見られるようになっていた。その小さな山と山の中央を舗道が走るわけなのだが、そういった理由から、春めいた日にあまり道の端を歩くと頭上から毛虫という名の悪魔が落下して来ることもある。もしくは既に落下済みで、道の上でもぞもぞとしている場合もある。決して踏ん付けたりなどはしたくないものだ。

 春休みは暇です、と言っていた片桐を誘って何処か手近な所にでも出掛けようかと思っていたのだが、春休み始めにメールをしてみたら、体調が悪いという返信があった。それからずっと体調不良が続いたらしく、俺と片桐は一度も会わないまま春休み終了を迎えた。

 ――四月初旬、始業式の日。久しぶりに片桐の姿を見た。しかし、何処と無く元気が無かった。まだ体調が悪いのかと思い、そう尋ねてみたのだが、何故か誤魔化すような曖昧な返事がふわんふわんと返って来るだけだった。

 始業式含め、それから一週間程、俺は片桐と一緒に下校していたがやはり元気が無かった。春を彩る桜の花開く姿とは対照的な片桐のその様子に、何かあったのかと心配になった。折に触れて尋ねてはみるのだが、そのたびに始業式の日同様のハッキリしない返答が漂うだけだった。

 進級して二週間が経つ頃になっても、それは変わらなかった。相変わらず何処か元気の無い、ぼんやりとした片桐。気に掛かり、尋ねる俺。生まれる質問、(かわ)される質問。その繰り返しの日々だった。言いたくないことというものは誰にでもあるだろうがさすがに俺は心配になり、その日、明日辺りは何とか理由を聞き出したいなと考えて片桐と別れて電車に乗った。

 翌日、帰りのホームルームが終わって廊下に出ると、そこに片桐の姿は無かった。片桐の方が俺より遅くなることはあるので、その時はあまり気に留めなかった。が、十分が経ち、二十分が経ち、三十分が経っても片桐は現れなかった。付き合ってしばらくした頃に一緒に帰ろうと言われてから、こんなことは一度も無かった。

 立ち所にして俺は嫌な予感に包まれた。始業式からずっと元気が無かった片桐。体調を崩して学校を休んだのかもしれないし、早退したのかもしれないし、先に帰ったのかもしれない。それならまだ良いのだが、何となく生じた不安が拭えない。腕時計を見ると、更に十分が過ぎていた。廊下にいた生徒は既にほとんど居なくなっている。皆、部活に行ったか帰り道を歩いているか。目の前の一組の教室は、とっくに空っぽになっていた。

 ふと、片桐のクラスに行ってみようかと思った。けれども俺は片桐が何組なのか知らないことに気が付く。思えば、片桐が一年の時も何組か聞いたことは無かった。今回の進級にあたり片桐は文系クラスになったはずだが、俺が分かるのはそこまでだった。

 俺は教室に入り、その片隅で素早く携帯電話を取り出してメール作成画面を開いた。片桐に短いメールを送信してみたが十五分程経過しても返信は無く、そして依然として片桐は現れなかった。

 もやもやとする晴れない心情を抱えて俺は学校を出た。ひらひらと僅かに花びらが舞い散る桜咲く道を、落ち着かない心持ちで歩く。春になって若干は日脚(ひあし)が延びたのか、夕刻、冬よりも高い位置で太陽が光を放っていた。その夕日影は、樹脂光沢を持つ真っ赤な琥珀を飴色に溶かし込んだ色のようだった。何処か切ない光の色合いが更に俺を落ち着かなくさせた。未だメールの返信の無い片桐に電話をしてみようかと思ったが、高校付近の帰り道を歩きながらというのは気が引ける。その時、ちょうど公共のバス停にバスが停車しているのが目に入り、珍しく俺はそれに乗った。ゆったりと発車するバスに揺られながら、早く駅に到着することを願った。

 家に着いたのは夕方五時半前。部屋に入ってすぐに携帯を取り出し開いてみたが、やはりメールは届いていなかった。俺はメールがすぐに返って来ないとイライラするとか気になるとか不安になるとか、そういったことは無い。急用では無い場合は、返せる時に返せばそれで良いと思う。しかし、漂う一抹の不安がどうしても消えない。片桐は今、何をしているのだろう。体調が悪くて寝ているのかもしれないし、単にメールに気が付いていないだけかもしれない。そう思ってみるも、やはり不安を消すことは出来なかった。

 俺は電話帳を呼び出し、思い切って片桐に電話を掛けてみた。途端、お決まりのガイダンスが無機質な声で流れ始める。お掛けになった電話は現在電波の届かない所にあるか電源が入っていない為……というやつだ。胸が冷える思いがした。

 仕方無しに電話を切り、パチリと閉じる。数十秒、俺は部屋の真ん中に立ち尽くしたままだった。

 ――いや、別にここまで不安になることなど無いのかもしれない。病院に行っていて携帯の電源を切ったのかもしれない。電車か車に乗っていて電波の入りが良くないのかもしれない。単純に電池が切れているのかもしれない。そうだ、だからこんなに落ち着かない気分になることなど無いのかもしれない。そう思い、俺は携帯をベッドの上に放り、制服を脱いだ。とりあえず、あとでまたメールを送ってみよう。それで良い。

 夕食出来てるぞ、と叔父が俺を呼ぶ声がした。今行く、と返事をしてから一度ベッドを振り返る。携帯はチラとも光らなかった。
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