文字数 1,734文字

 神楽は物々しいコンクリートの壁の前で、涙を浮かべる女性に向き合っていた。
 「ヤマト先生、ありがとうございました……私、もうなんとお礼を言ったらいいか……」
 「いえいえ~!でももう大丈夫ですよ!向こうは大した怪我でもなかったし、執行猶予待ったなしって言った通りでしょ!」
 明るく笑い飛ばしてみせる男に、しばらくして落ち着きを取り戻した女性は話し出す。
 「……本当にそんな、そんなつもりはなかったんです。怖かったからすこし肩を押しただけで……でも躓いても反省のないところを見ていたら、無性に腹が立って……」
 追加で蹴とばしたんです、とまるで自分が信じられないというように顔を覆った。
 「あいつ、昔からそういうところのある男だって、……うっすら、知ってはいたんですけど。だからって、もう、私……」
 うろたえた様子の彼女に、神楽は安心させるように大きめに頷く。
 「うんうん、わーってますよ。で、踏んづけていたら交番のおっちゃんがたまたま来たと」
 俯く彼女の顔を覗き込んで笑いかけると、幾分か安堵したように見えた。
 「まあ言ってしまえば過剰防衛ですけど、反省もされてますし、理由もあったわけですから。帰りも気を付けてくださいね。マキさん」
 ほっとしたように薄く口角を上げた彼女に、片手を振ってその場を後にした。小さな手帳に【告・佐藤 原・江本 公判日7月8日 完了】と記しておく。
 「っし、今日の仕事終わり~~!気分はラーメンかな~~!」


 「あいつね、マジメでしたよ。まあ私はあんまりぺちゃくちゃ話す方じゃないんで……仕事以外の話も碌にしませんでしたけど」
 「そうですか」
 棗が被害者である千葉修哉の周辺を探るため、勤め先の工場を訪れたのは橘の解剖室を出てすぐの事であった。
 「何か気づいたことは?彼自身でなくてもいい、身の回りのことでも」
 所長である男は困った顔で頭を掻いた。
 「そう言われましてもねえ……というか、さっきも話しましたけど、私が知ってることは全部警察に言いましたんで」
 「まだあるでしょう。あなたは仕事以外の話を“私は”話さないと言った。おそらく千葉さんのほうからペラペラと問わず語りに色々と聞かされていたのではないですか」
 棗の言葉に嫌そうな顔を隠さないまま、所長はため息をついた。
 「……事件の少し前かなあ、彼女と喧嘩しただの、仲直りしただのと勝手に喋ってましたよ。内容は聞いてません」

 『7年前の事件だが、被害者の遺族はもういないも同然だな。父親は不在、母親は千葉の判決が出てから半年後に死亡届が出てる。姉がいたが相当不仲で遺体の引き取りを何度か渋ってたらしい』
 叩き上げの捜査一課刑事・仙石恭介は、毎度の如く棗から無茶な要求を受けていた。
 『何がお得意の捜査情報漏洩お願いしますだよ。こちとらシリアルキラーのご登場かもしれねえってんで軽く騒ぎになっててな、人一倍忙しいんだぞ!で、こんどは何?千葉の女?』
 「素性くらい調べたでしょう。データで送ってください」
 『素性ってお前さん、辞めたからって今更警察舐めてもいいこたないぞ。もう犯行が不可能なところまでアリバイも、裏も取れてる』
 得意げに鼻を鳴らす男には構わず、受信した画面の情報を見つめる。
 ――樫木 怜奈、27歳・スーパーのパート勤務。
 「この女は殺してないですよ。千葉の遺体のあった場所、状況から見て隠す気など毛頭ない、むしろ見せつけることが目的だ。わざわざ泣き悼んで容疑者から外れるようなポーズをとる必要はないですからね」
 『いや、分かってたけどね。それでも証拠を取るのが仕事なん』
 長くなりそうなので通話を切り、樫木のプロフィールを今一度見返す。いたって普通の、どこにでもいる女である。しかし情報は多い方がいい。
 念のため既に解放されているであろう彼女に話を聞きにいこうと画面を消しかけたとき、さっき切ったばかりの名前が再び映し出された。
 「何ですか」
 「すまんすまん!いままた殺しがあってな、お前が嗅ぎまわってる事件と酷似しているもんだから一応連絡と思って電話した!場所を送るから行ってみろ。俺もすぐ行く」
 仙石から送られてきた場所は、工場からも第1の現場からも離れた公園のようだった。
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