第1話

文字数 11,489文字

 metaverse
 6am-Princess

 作:玖遠 (第六文芸)

 第一話

 目が覚めると、僕は、おかしな場所にいた。
 学校の教室で見るような硬い椅子が、同じ方向を向いて三行三列で、合計九脚、白い床の上に置かれていた。
 知らない人たちが、座っていた。僕も、その中のひとりだった。空席は、真ん中の椅子だけ…。僕は、その空席の後ろに座っていた。
 それにしても……?
 なんで、ここに座っているのだろう?
 漠然と疑問に思いながら、ぼんやりと周りを見た。
 誰もが、同じ、白い、膝までのゆったりした服を着ていた。白衣…というのか、胸元から裾の先までのボタンがなければ、まるで幽霊の衣装のような、そんな服だった。
 座っている人は、若い人から、割と年を取った人までいろいろだった。けれど、僕と同じ年代、学生らしいのは、僕の二つ前の席、空席の向こうで背を向けて、少し日焼けしたうなじを見せている少年、そのひとりだけだった。
 上を見ると、青い空が広がっていた。雲ひとつない、抜けるような、けれどどこか嘘っぽい空だ。
 足元にある白い床は、教室ほどの広さしかない。その外側はカッターで切り落としたようにすっぱりとなくなっていて、そこから先は、雲ひとつない空と、海なのか、波ひとつ見えないけれど、深い群青色が広がっていた。その空色と群青は、遙か遠いところで、ぼやけながら接していた。そしてここは、その空色と群青色の間に浮かぶ正方形の場所だった。
 その上に、椅子が九脚、正方形になって並んでいて、真ん中の椅子以外には人が座っていて、みな白い服を着て、同じ方向を見ていた。
 僕は、だんだんと頭がはっきりしてきて、この場所の異様さを感じ始めた。
 こっそり、右を見ると、中年の男性が、口を半分開いた顔で真っ直ぐに前を見て、ゆっくりと呼吸をしていた。呼吸をしてはいたけれど、生きている感じがしない。けれど、瞳をみると、わずかに震えていて、意識らしいものはあるようだった。
 僕のいる三列目、左を見ると、大学生くらいの若い女性が、右の男性と同じような顔をして前を向いていた。猫背なのか、背をいくらか丸めている。
 真ん中の列、空席を挟んだ両側の人たちも、斜め後ろから見る限り、同じような表情をしていた。最前列の、右と左の人も、わずかに見える横顔に、そんな気配があった。
 みんな、生気がない。
 僕は、空恐ろしくなった。
 なんで、こんな雰囲気の場所にいるのかもわからなかった。
 そう思ったとき、ただひとり、表情のわからない彼のことだけが、救いの頼りになった。
 僕の席から顔が確かめられないのは、最前列の真ん中、空席を挟んだ目の前の少年だけだ。背筋をピンと伸ばしている様子だけでも、ほかの人とは少し違った。彼は、一体どんな顔をしているだろう。やっぱり、ぼんやりとして生気がない顔をしているのだろうか。
 僕は、気になって仕方がなくなった。年が近そうだというのもあったと思う。でも、気になった。その彼までもが、口を閉じず、ぼんやりと、あるいは呆然と、そんなうつろな顔をしていたら、僕ひとりが浮いた存在になると思ったからだ。それで、少し、身を乗り出した。
 カタッ……。
 椅子の脚が、鳴った。
 かすかな音だったけれど、僕は思わず動きを止めた。
 けれど、この場の誰も、気づいた様子も気にする様子も見せなかった。その、彼以外は……。

 彼は音を聞きつけ、ピクリと耳を立て、それからゆっくりと振り返った。思った通り、どこかぼやけたような目をしていた。けれど、身を乗り出した僕を見、目が合うとまばたきをし、目が覚めたように目をまん丸くした。
「新入り君、目が覚めたの?」
 彼は…、いいや、声を聞いて初めてわかったのだけど、彼は、女の子だった。男子のような短いうなじを見て、僕が勝手に決めつけていたのだ。
 僕は、口を開いて何かを言いかけたけれど、言葉にならなかった。声の出し方を忘れてしまったかのようだった。ただ、彼女の健康的な顔の色、なぜか少し色の抜けて茶色くなった髪の色は、その分だけ網膜に焼き付いた。そして彼女の目元、口元に、笑みがこぼれてくるのを、まばたきすることもできないまま記憶に焼き付けていた。
「よかったねぇ!」
 彼女はパッと椅子を立つと、僕の前で腰をかがめた。膝を付け合わせてそこに手をやって、顔を上げた僕と視線をしっかりと合わせ、ニコリニコリと言った。
「ずっと目を覚まさなかったから、いつ消えちゃうのかってヒヤヒヤだったよ! だから、本当に良かった!」
「消…え……?」
 その言葉が何意味するのか、僕は、体を斜めにしたまま硬直して、聞き返そうとした。けれど、言葉が声にまとまる前に、彼女は矢継ぎ早に言った。
「わたしはスカーレット!」
「す、スカー……?」
「スカーレット! ユーザーネームだよ! 本名は、もし聞こえても、聞こえなかったことにしてね!
 で、キミは?」
「え………?」
「ユーザーネームだよ」
 ゲームかなにかの話だろうか。僕はユーザーネームになんて心当たりはなかったし、それどころか……
「……思い…出せないんだけど」
 自分の名前が、思い出せない。
 青くなった。
 動悸がする。
 慌てて体を起こし、あたりを見た。 その子、スカーレット以外は、誰も僕のことを振り向いていなかった。いや、関心すら示していなかった。そして、彼らの向こうには白い床と、青と群青に塗り分けられた空間が見えるだけだった。
 僕は、茫然となった。
 すると少女が、スカーレットと名乗った少女が、静かに言った。
「キミはまだ、ここでは名無しだよ」
「え?」
「名前を思い出してって言うわけじゃなくて、ユーザーネームを決めるの。ゲームとかSNSとか、そんな感じでいいんだよ」
「……決めるって?」
「じゃないと呼びにくいでしょ、六番君」
「六……」
 僕は混乱した。
 自分の名前も思い出せないのに、ゲームでもないと思った。すると、察した様子で少女が腰を伸ばした。そして、僕のことを見下ろすと、キリッ!と言った。
「じゃ、つけてあげる!」
「え?」
「つけてあげる!」
 僕は目を丸くした。
 少女は、考え事をするように視線を泳がせ、それからゆっくりと僕に目を戻し、見下ろすと、言った。
「リアル」
「……え?」
「君の名前。キミは見込みがあるから、一日でも早く、リアルに戻れるように」
「リアルに……戻る?」
「だから、リアル。最高の名前をあげるよ!」
 そう言ってスカーレットは、すっと右手を僕に差し出した。
 彼女は僕に握手を求めている。
 僕は、女子と握手をしたことなんてなかったから、戸惑ったが、彼女が「ほら」と言わんばかりに手を振ってみせるから、おずおずと、その手を握った。
「かかったなぁッ!」
 突然!
 スカーレットが笑いながら大声を上げ、僕の手をグッ!と握ると引っ張った! 途端、椅子に張り付いてた僕のお尻がポンッ!と音を立てて抜け、そのまま体が空へ吹き飛んだ!
 重力がないかのように、あっという間に下界を見下ろす高見へと飛ばされた! 眼下には四角くて白い床と、そこに並んだ九脚の椅子……。それは、青と群青の世界の中では、あまりにも小さな浮島だった。そのうち僕の体は放物線のてっぺんに達し、速度が落ち、それどころか、いや、当然のように、ゆっくりと落下に転じた。それがだんだんと加速して、怖いくらいの速さになって、いったんは小さくなった白い床がグングンと近づいてきた。
 その時。
「ほら、こっち見て!」
 唐突に声がして、振り向くと、すぐ隣を同じ速度で落下しているスカーレットがいた。膝丈までの白い服をバタバタとはためかせ、慌てる様子もなく楽しそうに笑っている。
 僕は近づいてくる白い床とスカーレットを交互に見た。
「こっ、これって!」
「大丈夫!」
「お、落ちてるよね!」
「大丈夫だって!」
 スカーレットはニコリとすると、顔の横で指を鳴らした。すると、はためいていた白い服が、胸元のボタンからほどけて広がり、風に溶けていくように形を崩し、肌色が覗き見えてきて僕を慌てさせた。そして、スカーレットは、その正体を露わにした。
 彼女は、鍛えられて引き締まった細身の体を、濃紺を白で切り返した水着で包んでいた。水泳選手が着るような、スポーティーな水着だった。そして、まるで風に乗って泳ぐように、腕を広げてみせると、空中二回転ひねりを披露して体を伸ばし、そのまま僕の手を取った。
「……えっ」
 その途端に、僕の白い服も溶けてきて、僕は水泳パンツ一丁の姿になっていた。
「泳ごう!」
 スカーレットはうれしそうに言うと、まるで翼でも生えているかのように風を捉え、僕のことを引っ張りながら落下角度を抑えた。吹きすさんだ風が穏やかになり、僕は混乱しながらもホッとしていた。
 だが。
 ザパンッ!
 アッと思ったときには、風が水に変わっていた。体が強い抵抗を受けて減速し、最後には無重力状態になる。
 けれど。
 僕は慌てて息を詰め、心で叫んだ!
「(お、おぼれる!)」
 パッとスカーレットの手を振りほどき、口を押さえる。そこから空気が逃げ出してしまわないように……。
 足をばたつかせながら、助けを求めてスカーレットを見ると、彼女は、ぽかんと口を開いて唖然としていた。
「まさか、泳げない…とか?」
 僕は口を両手で押さえ、コクコクコク!と頷いた。
 スカーレットは数秒間の沈黙の後に、お腹を抱えて笑い出した。
「あはは! まさか泳げない人がいるなんて思わなかった!」
「(た、助けて!)」
 僕は泣きそうだった。
 すると、スカーレットは笑いをこらえた涙目で、僕の目の前で立ち泳ぎすると手を伸ばし、空気を逃がすまいと口を押さえている僕の手首をつかんだ。そして口から引き剥がそうとした。
 僕は何をされているのかわからなくて、慌てて首を横に振った。
「大丈夫だって。ほら!」
 スカーレットは言う。
 僕は頑なに口を押さえていた。
 すると、スカーレットは、短気になって口を尖らせると、力任せに僕の手を引き下ろした! 途端、 僕の口から悲鳴が飛び出した!
「おぼれるおぼれる!」
「おぼれないってば!」
「おぼれるよ! もうおぼれてる!」
「おぼれないって!」
 僕は錯乱して叫んでいた。その声にスカーレットの声が被さってきた。けれど僕は、彼女が何を言っているのか、どういう状況にあるのか、全く理解しようとできないまま大口を開けて「おぼれるおぼれる!」とわめき続けた。
「……もうっ!」
 スカーレットがイラッとして言った。その直後。
「おぼれ…うがっ…!」
 僕は言葉を封じられてしまった!
 突然、口になにかがねじ込まれて、舌をグッと抑え込まれた。
 びっくりして目を前に向けると、眉をつり上げたスカーレトと目が合った。そして、口に突っ込まれたものを知った。
「大丈夫だって言ってるのに!」
 口を尖らせたスカーレットは、その右手の指を三本、束にして、僕の口に突っ込んでいた。素手で、僕の舌に寝技を掛けている……。
 あり得ない。
 僕は目を白黒させ、でも、もうわめく気力はそがれていた。
 スカーレットは、ゆっくりと僕の口から指を引き抜いた。その指は、きっと、僕のツバで汚れていると思ったけれど、彼女はそんな様子を微塵も見せなかった。だけど、僕は言った。
「……ごめん」
「大丈夫。仮想だから」
「か、仮想?」
「仮想空間。じゃなかったら、こんな風に水の中で息したりしゃべったりできるわけないでしょ」
 ツンとして言われた。
 ………。
 なるほど。
 どうやら、つまり、ここは、現実ではないらしい。僕は正直に尋ねた。
「これは、夢……?」
「仮・想・空・間!」
 疑問を呈した僕に、スカーレットはツンケンと言い聞かせた。そして僕を黙らせると、突っ込んだ指をこっそりと振り払って、それからなにかを考え、言った。
「キミ、海の匂いがしたから、てっきり泳げるもんだと思ったけど、違ったのね。まさかカナヅチとは思わなかった」
「………」
「まあ、いいわ。どうやら、リアルに一番近いのはキミみたいだから、今のうちにここを楽しんでいってよ」
「あの……」僕は疑問を持った。「ここって、どういう、その、仮想…空間なのかな?」
 スカーレットは、ちょっとばかり困ったように視線を泳がせ、それから言った。
「細かいことは抜きにして…さ、楽しもうよ。キミも泳げるようにしてあげるから」
「え……どうやって?」
「こうやって……だよ!」
 そう言うと、スカーレットは僕と彼女の顔の間に右手を持ち上げ、これ見よがしに指をひとつ、鳴らした。

 それは、とても刺激的な体験だった。
 その群青の中で、目の前の少女がイルカになった。曲線的でもシャープなボディーライン、小さな帆のような背びれがあって、黒と白に塗り分けられたつややかな体は、しっかりと引き締まっていた。
 イルカになった彼女は、大きな尾ひれで水をかいて水中で一回転を披露すると、黒目の大きなつぶらな瞳で、僕に訴えかけた。
『泳ごうよ! 一緒に!』
 はしゃいで明るい声だった。そして、尖った口で僕の方を向くと、そのままツン!と胸を突いてきた。
 その途端。
 ポン!と音を立てて、僕の体がはじけ飛び、一瞬の後には……
『イルカ?』
 驚く僕に、イルカになったスカーレトは言った。
『これで泳げるね! 行こう!』
 戸惑う僕に彼女は言う。
 そして、胸びれを手のように使って、僕の胸びれにちょっと触れると、そのままグッと体を寄せ、ピッタリと横並びになると、
『行くよ!』
と笑うように行って水を蹴った。僕は、一瞬で置いて行かれたけれど、見よう見まねとか、そういうことを考えるよりも先に、直感的に、人が走って追いかけるみたいに、まるでイルカの体が自分の体であるかのように、群青色の世界の中を泳ぎだしていた。
 少し、手が届かない距離を、イルカになったスカーレットが泳いでいく。彼女はチラッと振り返って、僕が後をついてきていることを確かめると、不意に進む向きを上向きに変えて、斜め四十五度で群青色の中を駆け上がっていった。
 僕は必死になって後を追った。
 なんの手がかりもない、この群青色の世界で、一人きりになるような気がしたからだ。
 直後、ザッ!と水音がして、あたりの群青色が無色透明に変わった。
 そして、目撃した。
 先を行く一頭のイルカが、透明な水滴を軌跡にしてちりばめながら、その黒と白の体にひねりを加えて、空色のただ中へと舞い上がっていた。
 僕のイルカは、ただ放物線を駈けのぼりながら、一段と高いところまで跳ね上がった彼女の姿を見ていた。
 目を見ると、彼女は、僕のことを見てはいなかった。ただ前を見て、全身で表現するイルカの跳躍に恍惚としているようだった。その姿は僕の瞼に、強く、眩しく、焼き付いていた。

 僕と彼女は、ほとんど会話もなく、ただひとしきり、群青色の世界を泳ぎ、時には空色の世界を跳ね回った。僕は最初の頃こそ、ついて行くのに必死で、不安に追い立てられていた。やがて、僕のどこに、そんな泳ぎの力があるのかと疑問に思い、そんな目でイルカになった彼女、イルカになった自分を見ているうちに、気づいたら、いろいろとそ些細なことは忘れてしまった。気づけば僕は、夢中になってイルカになった自分を楽しんでいた。
 無邪気に身体を動かした記憶もない、海を、いや、学校のプールでさえ、こんな風に泳ぎ回ったことはない。この瞬間、僕にとっては、とても考えつかない、夢中になれる体験だった。そして、夢なら醒めなければいいとさえ思うようになった。同時に、明るく笑う、イルカの少女と、一緒に泳いでいたいと、無意識的に思った。
 けれど、この夢にも……、彼女の言葉を借りるなら、この仮想空間にも、時間というものはあるようなのだった。
 気づくと、僕たちは群青の海に顔を出して浮かび、あの九脚の椅子の乗った、白い四角い床のことを、遠くに見やっていた。
 イルカの彼女をそっとみると、彼女の瞳の笑みは、いくらか弱くなっていた。そして、四角い床のそばまで来たとき、彼女のイルカの魔法が、そして僕のイルカの魔法も、溶けて消えてしまった。ふたり、水着姿に戻って、そして彼女は僕を誘うように振り返ってから、プールサイドに上がる仕草で床の上に戻っていった。僕は追いかけて床に上がり、気づいた。
「……濡れてない」
「だから、仮想空間なのよ」
 水から上がった体も、水がしたたるはずの床も、濡れていなかった。
 僕が戸惑っている間に、スカーレットはどこからともなく沸いた白い衣装に身を包んだ。膝丈で、ボタンで前止めした、カーテンのようにひらめく衣服だった。気づくと、僕にも同じ衣装が与えられていて、僕はますます戸惑った。
「あの…さ、その仮想空間って……」
 心当たりがない。それを言おうとすると、スカーレットは浮き足だって僕の手を取った。
「もうすぐ六時だよ、早く自分の席に! チャンスを無駄にしないで!」
 そう言って有無を言わさず僕を椅子の方へと引っ張っていった。僕たち以外の人たちは、さっきと変わらず着席したまま、まるで時間が止まったかのようにぼんやりと前を向いていた。
 スカーレットは僕の肩を押して元の席に座らせると、自分も一列目の席に戻り、空席を挟んで僕を振り返った。そして、早口に行った。
「キミならきっとできるよ!」
「え?」
「苦しくて苦しくて仕方がないって思ったら、この空いてる椅子に縋るんだよ。うまく座ることができたら、その時は……」
 その話の途中で、突然、あたりにピッという電子音が響いた。この場所には、あまりにも似合わない音だ。
 その音に、僕以外の人は皆、スカーレットもピクリと震えた。そして、ほどなくして、そのうちのひとりがけいれんをはじめた。
 左の列、二番目の男性だった。
 それまで意識もないような顔をしていたのに、ガクガクと首を揺らし、口を大きく開いて苦悶の声を上げはじめた。地獄で磔にされているかのような絶叫……
「始まった」
「始まった?」
「強制覚醒タイム」
「……なにそれ?」
 人の口から出たとは思えない、おぞましい獣の声に震えながら尋ねる。だがその間にも、今度は、叫ぶ男性の後ろの席の女性、僕の左隣の女性が同じように痙攣しだした。そして絶叫し、椅子から飛び上がると、鬼気迫る勢いで僕とスカーレットの間の空席に飛びついた。けれど、腰掛けることが出来ない。腰が床から持ち上がらない。
 その彼女の目には、狂気があった。怯える僕にスカーレットは淡々と言った。
「毎朝六時、意識不明の肉体に、脳細胞の活性化を促す薬が注入される」
「な、なんの話?」
「私たちは患者であり、同時に実験のための素体」
「患者? 実験?」
 そう言う間にも、一番最初に震えだした男性が空に顔を向けて泡を吹いた。
「八番さんはいつも通り、呆気ないわ」
「八番って……」
「薬の注入は八番からひとりずつ。彼の後ろの女の人は七番」
「その、番号って?」
 僕は嫌な予感がしてスカーレットを見た。
 僕の声が震えていたからだろう、スカーレットは、安心させるよな目をすると、ひねった体で自分の背もたれの後ろ側を指さした。そこには、小さなシールが貼ってある。
「二…番?」
「わたしの番号よ」
 その言葉に、僕はハッとして自分の椅子の背もたれを振り返った。裏側をのぞき込むと……。
「六…番?」
 スカーレットの言った、「順番に」という言葉が意識に突き刺さった。
 話の真偽を確かめたくてスカーレットに向き直ると、彼女は空席に目を落としながら、僕に言った。
「苦しくて苦しくて、どうにもならなくなったら、この椅子に縋るの。そうすれば、もしかしたら、座ることができて、現実に戻ることができるかもしれない。それで、もし、戻れなかったときには、今夜また、わたしと、泳ぎましょ」
 そう言ってスカーレットは顔を上げ、僕にニコリとして見せた。
 僕は、何を言われているのか理解できずに、ただ、椅子に縋って喚く女性の声と、自分の席に張られた六番という番号に、震え上がっていた。
 そんな僕に、順番が回ってきた。
 それは突然だった。
 ガツン!と頭に衝撃が来た! バットで殴りつけられたような激しいものだった!
 直後、目の前が真っ黒くなり、轟音が響き渡ると同時に、向こうから記憶の場面が迫り来て、僕を一瞬で飲み込んだ。


 あの夜。
 僕は、揺れる車の後席でスマホの画面を見ていた。
『急に外食。帰ってる途中』
『おいしかったかよ?』
『ただ、食べただけ』
 誰かとメッセージをやりとりしている。
 相手からの返事を待っていると、車がゆるゆるとスピードを落とし、止まった。
 一分、二分、三分……。
 返事はなかなか来ない。
 そしてなぜか、車も動き出さない。
 ふと疑問に思って目を上げ、フロントグラス越しに前を見ると、そこには見慣れない、暗い景色が広がっていた。
「……? 港?」
 遠くに、コンテナヤードと大きな貨物船、手前両側には、人けのない暗い倉庫街がある。そして、コンテナヤードと倉庫街の間には、船の明かりや作業用の投光器の光をユラユラと照らし返す水面があった。
 こんなところ、家への帰り道にはない。
 僕が、疑問を持って、運転席を見ると、いつも無口な父親が、いつもにも増してきつく口を閉ざしてじっと前を見据えていた。
 異様な気配があった。
 そこはかとなく怯えながら、助手席の母親を見た。
 母親は、力なく顔を背けた。
 ……と。
 突然、車が急発進した!
 僕はリアシートの背もたれに体を叩きつけられた。あり得ないくらいの急加速だ。エンジンが唸りを上げ、車は桟橋を一直線に突っ走り、アッと思っている間に、バンッ!と激しい音と突き上げるような衝撃があって、直後、ライトが水面を照らしたかと思うと暗い海に突っ込でいた。
 フロントガラスを突き破って、冷たい水が押し寄せてきて、僕はふたたび、体をリアシートに押しつけられていた。誰も声を上げず、僕も声を上げる間もなく、一瞬で水に呑まれていた。その後、覚えているのは、経験したこともない息苦しさと、水が肺に入って胸をかきむしったことだけだった。


『苦しい!』
 僕はゴボゴボとおかしな悲鳴を上げながら、雲ひとつない青い空を見上げて胸をかきむしっていた。誰かのうめき声、絶叫が渦巻く中だった。その中で、目玉が飛び出そうなぐらい苦痛を感じていた。いいや、苦痛なんてものじゃない、生まれて初めて死の恐怖を感じて半狂乱だった!
 死んでしまう!
 死んでしまうよ!
 腰はとっくに椅子から跳ね上がって、僕は空を仰いで空気を求めていた。足が、空気を求めて、ズリズリと前に出た。すると、膝がガタンとなにかに当たり、僕は目だけをグッと向けて、それを見た。
 椅子。
 誰も座っていない椅子だった。
『苦しくて苦しくて、どうにもならなくなったら、この椅子に縋るの』
 誰かの言葉が耳に蘇った。
 僕は考えることもできず、胸から椅子の座面へと前のめりに倒れ込んだ。
 背もたれが鳩尾に食い込んで、僕は脱ぎ捨てられた白いシャツのように体をくの字に折った。そのまま重力に引っ張られ、座るどころか、額から座面に突っ込んだ。そしてそのまま座面に頬を擦り付け、悲鳴の代わりに、なぜか吐き戻された水でゴボゴボと口から泡が出た。
 そのうち、呼吸が重く、浅く、少なくなっていくのがわかった。徐々に苦しみが遠のき、ただ、全身からは力が抜けていった。すると、僕の体は実体を霞ませていき、半透明の状態になり、同時に、座面に支えられていた額が、その木の板をすり抜けはじめた。体が、頭から、その椅子の座面に沈みはじめたのだ。
 不思議な感じだった。
 息苦しさがどんどん遠のいていく一方、僕の意識は、精神は、心や気持ちまでも、すべてが体から引き離されていく感じがした。
 そして、椅子を突き抜けた体は、白い床を、頭を下にして、くの字の姿勢で、ゆっくりと沈むように突き抜けた。何に引っかかることもなく、床の浮いていた海に、その、深く沈んだ群青色の深みに引かれて、ゆっくりとゆっくと落下をはじめた。
 その時、体がゆっくりと回転して背中が下になり、僕の目は青い空の方を見上げる格好になった。僕は、顔さえ動かすこともできなくなっていて、目をそらすこともできなくなっていて、見てしまった。
 あの、四角い床は、裏側から見るとガラスのように透明だった。けれどそこには確かに床があって、九脚の椅子と、そこ座っったままの人たちの影、床に落ちて、もがく人たちの影があった。そして、その中には、あの子の姿もあった。
 スカーレットだった。
 僕は、ゆっくりとゆっくりと、沈むように落ちてゆきながら、彼女の苦しむ様子を見せつけられた。
 彼女は、細かく、時に激しく痙攣しながら、虚空を見るような瞳で、真ん中の椅子に向けていた。そして何度となく嘔吐して、口からあふれた物で顔の周りを汚していた。
 床につけたその横顔は、死んだ魚のように、苦痛を拒むことさえ諦めていた。
 そこには、笑顔のかけらもなくなっていた。
 あれが、幻だったかのように、かけらも残っていなかった。
 なのに、沈んでいく僕は、なんにも感じることができなかった。ただ、ぼんやりと思ったことは、あの、僕に見せた笑顔は、なんだったのだろう……と、そういうことだけだった。


 やがて……。
 群青の深みに沈んでゆきながら意識が遠のき、ただただゆっくりと沈んでいった果てに、ぼんやりと光が見えてきた。そして、聞こえてくる一定速の電子音、そして、声……。
「六番の患者さん、目が開いてます!」
「えっ?……この子は昨日入ったばかりじゃない」
「瞳、動いてます!」
「ええっ? あら、本当。……記録取って」
「はい!」
 興奮した声と、落ち着いた声と……。
 焦点が定まらない中、目元に指の触れる感じがあり、強い光の明滅があって、ぼやけた顔が僕のことを覗き込んできた。
 僕は、何をする気力もなくて、そのままぼんやりしていた。すると、にわかにあたりがざわめいてきて、腕を取られたり足を触られたり……。
 それが一段落して、聞こえてきたのは……。
「この子は目覚めた。薬の有効性が証明されるわ……」
 つぶやきだった。
 それはどういうことだろう。
 僕は、漠然と思いながら、されるがままになっていた。
 だんだんと、目の焦点がはっきりとしてきて、細かい穴の空いた白い板に無機質な照明がついているのがわかった。それはどこか、知らない場所の天井だった。
 やがて、僕の体はなにかにつり上げられて、なにか、台の上に移された。その拍子に、天井を見上げていた僕の顔が横に倒れた。
 そして目撃した。
 すぐ隣にもベッドがあって、白いカーテンのような服を着せられて、少女が横になっていた。口には酸素マスクがされて、胸元からは何本もの電気コードが出ていた。
 ………。
 スカーレットだ……。
 僕はぼんやりと思った。
 目は閉じられているし、頬には笑みもないし、生きている感じもなかったけれど、その顔には見覚えがあった。
 僕は、彼女の名前を思い出すと同時に、今、目に映ってる中に青色を見つけて息を呑んだ。
 彼女の腕に、針が刺さっていて、そこから、空色の液体を満たしたチューブが伸びていた。そしてそれは、頭のそばの機械に繋がれていて、その機械には、赤い表示のタイマーと、ガラス製のタンクがあった。
 僕の意識は、頭を殴られたように覚醒した。そのタンクの中に、群青色の液体が入っていたからだ。同時に、それが細いチューブの中に送られると、色が薄くなって空色に変わるのだと気づいた。
 僕は、ハッとしてスカーレットの顔を見た。
 突然、理解していた。
 今、群青の液体は、細く透明なチューブの中で綺麗な空色に変わり、スカーレットの肉体に注ぎ込まれている。
 そしてスカーレットは、群青色の海に浮かぶ、あの四角い床に倒れ、あの青い空の下で、体を震わせながら目を霞ませている。なにかを、すべて奪われたように、諦めきったまなざしで……。
 僕の記憶は渦を巻いた。彼女に手を取られたときの気持ち、彼女の声と、笑顔と、イルカになって、泳いだこと……。
 その子が、いま、たぶんこの瞬間も、あの世界で苦しみ、悶えている。
 僕は、気づくと、硬くなった唇で必死に訴えていた。
「と…めて…。薬…を、とめ…て」
 だけど、僕の声は小さすぎて……。
 誰ひとり、振り向いてはくれなかったんだ。


第一話 了


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み