第2話

文字数 11,691文字

 metaverse
 6am-Princess

 作:玖遠 (第六文芸)

 第二話

 ナースステーションに隣接して、その部屋はあった。外に面した窓はない代わりに、廊下とナースステーションの側は、全面がガラス張りだ。
 その部屋には八つのベッドがあり、廊下に近いベッドに、彼女の姿はあった。
「………」
 スカーレットだ。
 僕は、廊下側のガラス越しに、呼吸器を付けられた彼女のことを見ていた。
 笑顔どころか、意識のかけらもない横顔だ。でも僕の記憶の中には、初対面の僕の前でも笑顔をはじかせ、無邪気に水と戯れた彼女のことが、昨日のことのように鮮やかに残っていた。
 そう。
 あれはもう、一ヶ月も前のことだ。
 僕は今日、退院する。

   *

 退院することになった僕は、今、使いもしないボールペンを胸ポケットに挿し、右手に小さな【とあるもの】を隠し持って、スカーレットのいる病室の前へやってきた。その【とあるもの】は、つい三日前、見舞いに来たともだちが、僕の手に握らせていったものだった。
 彼は、この一ヶ月、僕のために何度も見舞いに来てくれて、僕の話に何度も耳を傾けてくれた。そして、あのことを信じてくれて、「スカーレットを救うために」と言って、小さなものを僕の手に握らせた。
 僕は今、それを拳の中に隠して、スカーレットの横顔をガラス越しに見ながら、実行の機会を窺っていた。
 そして、その時は来た。
「リアル君」
 看護師をふたり引き連れて、女医が現れた。背がスラリと高く、白衣のポケットに両手を突っ込んで、体つきもいい、そして少し横柄な態度の女医だ。
 あの日、目が覚めた僕は、一日と待たず、彼女に話していた。あの椅子の並んだ世界でのこと、スカーレットが苦しんでいること。それ以来、彼女は僕のことをリアル君と呼んだ。
「今朝も早いわね」
 そう言われて、ガラス越しに時計を見やると、時刻はもう五時五十五分だ。僕は、言ってやった。
「先生は、いつもギリギリですね」
「時間に正確って、言ってね」
 彼女の名は遠見澤……、下の名前は忘れた。
 遠見澤は、いつものように僕の前を通り過ぎようとした。
 僕は、ゴクリと息をのむと、右手に隠し持った小さなものを、グッと握りしめて言った。
「僕は、今日、退院なんで、最後、彼女に挨拶しておきたいんですけど」
 遠見澤は足を止めて、僕を振り向くと、呆れたような顔をした。
「いつかは言い出すと思ったけど、何でまた、最後の日……かしらね」
 そう、僕は毎朝、いや、ここ数日は昼間だって、フロア違いの病室からここへ来てはガラス越しにスカーレットのこと見ていた。周囲に、おかしな目で見られても、僕は彼女の笑顔を忘れられなかったし、イルカになって泳いだことも、忘れられなかった。
 黙って見上げていると、遠見澤が言った。
「一応ね、この部屋はICUにカテゴリーされてるから面会は出来ないんだけど、あなたは……まあ、このあいだまでここに入ってたわけだし、特別に、いいわよ」
 遠見澤は、どこか面白そうに言うと、指で僕のことを招いた。


 ステンレスの電動扉をくぐって、僕は真っ先にスカーレットのところへ行った。
 そっと閉じられた瞼は、ピクリともしない。意識らしいものはない。口に当てられた呼吸器のマスク、一定のリズムで上下をする胸元。意識は無く、僕が来たことにも気づかない。
 けれど、廊下のガラス一枚だけれど、それを隔てて見るのとは、まったく違った。違ったというのは、その体の奥に隠された生命の気配だ。明るく笑い、イルカになって泳ぎ、飛び回った生命の気配が、僕には感じ取れた。
 同時に、【現実】のことも手に触れる距離で分かった。
 前ボタンの白い服は、胸元が開いていた。その白く透ける胸の肌と、胸元に忍び込んでいる赤いケーブル、そして、腕に刺さった空色のチューブ……。
 チューブは、枕元の四角い機械に繋がれていて、その機械の中には、ガラスの容器に群青色の液体が満たされていた。それを見た途端、僕の手は無意識的に、その機械の電源コードに伸びかけた。それを察したかのように、遠見澤の声がかかった。
「キミの話を鵜呑みには出来ないけど、共通点の多さには震撼したわ。
 スカーレットの実名は【朱音】、そして水泳の選手。水には親しみがあるはずよ。イルカ……は、ちょっと、突拍子も無いと思うけど」
 僕が黙っていると、彼女はため息をした。
「一日でも早く目覚めさせて、また、競技に戻れるようにしてあげたいけど、なかなか……ね」
 遠見澤のため息は、軽いようで、重い。
 そして、背後、近いところで、ピッ!と電子音がした。
 ハッと振り返ると、音を立てたのは、八つのベッドに囲まれた、その中心に置かれた、縦型で白い、少し大きめの機械だった。見た目はタワー型のパソコンだが、ディスプレイとキーボードは無い。それ単体が、トンと床に置かれている。
 そしてその機械から灰色のコードが八方に伸びて、眠る人たちそれぞれの、枕元の機械に繋がっていた。
 僕は、頭の側のフレームに【8】というシールが貼ってあるベッドを見た。スカーレットに、呆気ないと言われていた、八番の彼だ。彼は、初老の男性だった。痩せこけているからそう見えたのかもしれない。
 僕は、耳を澄ましたけれど、獣じみた、おぞましい悲鳴は聞こえなかった。そして、ずっと見ていても、ピクリともしなかった。
 七番の女性も、六番の、僕の代わりに入ってきた子供も、何の変化も示さなかった。
 けれど僕は、震えていた。彼ら彼女らの絶叫を知っていたし、僕自身も、あの、打ちのめされるような苦痛を経験していた。頭を殴りつけられ、そして、死に匹敵する悪夢に悶えていた。
 逆に今この部屋の沈黙は深まるような気がした。深海に沈んで、機械のファンの音と、一定の呼吸音が木霊のように聞こえる。そんな中、ふたりの看護師が八番から順番に様子を確かめていく。
 そして、スカーレットの番が来た。
 ククッ…と、枕元の機械の中で何かが駆動して、僕は空色のチューブに注目した。中の液体が動いている様子は分からない。けれど、僕には見えていた。
 椅子から透明な床に転げ落ち、痙攣し、吐き戻したもので頬を汚している、スカーレットの姿が、見えていた。
 そのとき、群青色の海に沈んでいった僕には、声も、悲鳴も、聞こえなかった。けれど、僕には眩しく見えた笑顔も、はじけるような笑い声も、すべてが、痙攣する彼女の姿で打ち壊された。
 夢だと言われても、納得できなかった。
 仮想だなんて、もってのほかだと思った。
 そんな残酷な、たとえ治療という名を借りていたとしても、そんな暴力を、僕は見逃すことが出来なかった。

 空色の液体は、無言でスカーレットの体に注がれている。
 僕は、聞こえない悲鳴に取り巻かれながら、遠見澤を振り返った。
 遠見澤は、片眉をピクリとさせて言った。
「そんな目で睨んだって、わたしは研究をやめないし、朱音さんの治療もやめないわよ。ま、キミの見た夢は、ちょっと面白かったから、キミのことはリアルって呼ぶことにしたわけだけどね」
 そう。
 意識を取り戻した僕は、回診に来た遠見澤に、仮想空間での出来事を語り、そして、治療を中止するように言った。あんな苦しみを与えて、それでも治療と言えるのか、と。ボクは、まだ自由にならない体を震わせて訴えた。
 けれど、返事は冷たかった。
「わたしにはわたしの信念があって、それは正義に反していないと信じてる。あなたの言うことは、一患者の意見として聞くけれど、それだけよ。まぁ、わたしの薬の効果を立証する材料の一つになってくれたことには、感謝してもしきれないけどね」
 そう言ってにこやかに笑う遠見澤のことを、僕は一生忘れないだろう。正義に反していないとは言いながら、僕のことを観察する目で見て、顔では笑みを浮かべていながら、人の苦痛を苦痛とも思わない言動は、ある意味、命を救ってくれた恩人だとしても、許しがたかった。

 僕の気持ちを余所に、看護師が遠見澤を呼んだ。
「先生」
 遠見澤が立ち上がるのを見て、僕は、チャンスを狙った。
 遠見澤は、僕に背を見せて六番の子供のところへ歩き出す。僕は、今だ!と思って立ち上がった。同時に、胸ポケットに入れてきたボールペンを床に転がした。
 カツン!と硬い音が響いて、遠見澤が振り返る。
 僕は、「落としてしまった」という顔をしながら、それを拾いに足を踏み出し、さらにうっかりを装って、そのボールペンをつま先で蹴った。
 ボールペンは床を回転しながら、部屋の中央に滑っていき、トンと置かれていた白い箱の膝元まで行った。
 僕はゆっくりとボールペンを追いかける。
 その時にはもう、遠見澤の興味は六番の子供に向いていた。
 僕はペンのところへ行くと、白い機械の、ケーブルが刺さった背面に目を走らせた。同時に右手の拳を開き、握りしめていた【とあるもの】を見た。それは、小指の先ほどの部品だ。
 四角い金属のプラグに、黒くて小さな頭がついたそれは、一見すると、パソコンのワイヤレスマウスやWi-Fiのためのパーツに見えた。
 それを僕は、白い機械の背面のUSBソケットに素早く差し込み、転がっていたペンを拾うと、誰にも見られていないことをこっそりと気にしながら、スカーレットの枕元に戻った。
 スカーレットはなにも気づいた様子が無い。病室を出歩けるようになってから、何日も見てきた顔と何ら変わりが無い。ただただ、静かに、胸元が上下しているだけだ。
 僕は、チラリと中央の機械に目を向けて、それから六番の子に腰をかがめた遠見澤を見て、ゆっくりとスカーレットに目を戻した。
 眠っている顔では無い。
 意識を失っている。
 けれど僕は知っていた。
 彼女は今、床に倒れ伏し、痙攣しながら、吐き戻したもので頬を汚している。

 退院した僕を、迎えに来る人はいなかった。警察官が病院に預けていった財布と壊れたスマホ、それと、海水で腐食した鍵をポケットに入れると、僕はバスに乗り、駅へ行き、家の方向とは逆の列車に乗った。
 家へ帰るのは、後回しだ。
 とても気がはやっていた。
 通っていた高校のある駅で降りると、このあたりでは珍しいタワーマンションに急いだ。本当は走りたかったけれど、入院生活が長くて、走ると転びそうだった。
 僕は息を上げてエントランスに飛び込んだ。そこはホテルのロビーのようなシックな空間になっていて、きちんとした身なりのコンシェルジュが僕を出迎えた。にこやかな笑みの彼女に急いで訪問宅を伝え、部屋に連絡を入れてもらうと、自動ドアを開けてもらってエレベーターに乗り込んだ。
 六十階建ての三十四階、中間階だけれど、それでも部屋に招き入れられたときの眺望は目を瞠った。手前の港と岬、その先に広がる太平洋が、陽射しに輝くようだった。……が、僕はそれをそこそこに、彼と向き合った。早速、口を開こうとすると……
「まあ、まずは座って。今、お茶を用意するから」
 三十歳台だろう、すっかり大人の彼は、高校生の僕をソファーに招くと、自分はオープンキッチンに立った。
 あまり、生活感のない部屋だ。
 僕は、いかにも高級な、無駄に体が沈む革張りのソファーに居心地の悪さを感じながらも、待つしか無いと膝に手を置いた。

 彼の名は榊、僕が入院する前に楽しんでいたネットゲームの友人だった。相性がいいというのか、素性も知らない相手だったけれど、いろいろなゲームをふたりで渡り歩いた。そしてあの夜、車が、海に突っ込む前に、スマホで雑談をしていた相手でも、あった。
 下の名前は、知らない。この建物に入る呪文のようなものだからと、【榊】という苗字しか教えてもらっていない。家へ招かれたのも初めてだった。
 けれど、あの晩、突然、音信不通になった僕のことを、一番気にしてくれた人物だった。そして、連絡が途絶えた時刻と、ネットの投稿で僕の消息をつかみ、その長身をシックなスーツに包ませ、優しさのある笑顔で、病室を訪ねてきてくれた。ほかの友だちが、事の経緯を気にして、足を遠のかせた中、彼だけが見舞いに来てくれたのだ。
 その時、彼とは初対面だったけれど、彼は僕をネットゲームのユーザー名で呼び、僕は彼の話口調から、彼が僕の友人だと理解した。同時に、唯一の友人だったのだ、とも理解した。
 彼に、泣いて縋るようなことは無かったけれど、その時僕は、誰よりも彼のことを信頼した。一緒に、いろいろなゲームをこなしてきたという事実も、あったかも知れない。
 コーヒーが出され、彼が斜向かいに腰を下ろし、僕はいても立っても居られずに言った。
「言うとおりにしてきた。これで、スカーレットは救われるんだよね?」
 そう。僕は、病室を訪ねてきた彼に、あの椅子の並んだ場所のこと、スカーレットのことを話した。彼は驚きながらも僕の話を信じてくれた。そして、三日前、見舞いに現れたときには、USBポートに挿す小さな機械を僕に握らせて、言ったのだ。「スカーレットを救うために、まずは、鍵を開けてもらわないと、ね」と。
 僕はその一言にすがりついて、今日、それを実行した。
 彼は、コーヒーを一口味わうと、僕に言った。
「あれは装着されたPCに通信ポートを開かせる機械なんだ。挿入されて電源が入ると、自動で空きポートを探して、既存の通信ポートのほかに、パスワードロックされたポートを追加する」
「つまり? どういうこと?」
「パスワードを知っている外部のPCと、接続することが出来る」
「無線で?」
「いいや。病院のサーバを経由して、インターネット経由になる。ただし、外部からハッキングするのではなく、向こう側からこちらを探す形になる。セキュリティーの甘いところを突く形だ。今はもう、わたしのところのPCと、スカーレットのいるICUのPCは、共通したネットワークの上に存在している形になっているよ」
 分かりにくい話だ。僕は、そんなことより、と訪ねた。
「それで、スカーレットはどうなるの? いつ解放される?」
 僕は身を乗り出す。
 すると、彼は僕の前のコーヒーを改めて勧めた。
「実は、このコーヒーは、話を理解してもらうためのプロセス、その一環なんだ」
 そう言って、にこやかに黙った。
 僕は、それどころではない気持ちでコーヒーに口を付ける。仕方なく、ちょっとすすって、眉をしかめた。
「おいしいかい?」
「……苦いよ」
 彼に尋ねられて、正直に答える。
「じゃ、目を閉じて、もう一口してごらん」
「え?」
「いいから」
 何なのかと思いながら、目を閉じてすする。真っ暗な中で、唇と鼻のあたりに熱を感じながら……。
 その時、彼が横から言った。
「コーヒー豆は、小さな果実の中にあるタネなんだ。その果実は、熟すと、真っ赤な色をしているそうだよ。想像してごらん」
 そんなことを今教えてもらっても……と思ったが、なぜか、目を閉じていたからか、思わず赤い実を思い浮かべた。サクランボのような、そんな感じだろうか。
「どう?」
「どうって……?」
「甘みを感じないかい?」
「……え?」
 言われてみれば、気のせいか、口の中にほのかな甘みを感じるような気がした。目をつむったまま、首を傾げると、彼は言った。
「事実、このコーヒーには甘みがあるんだ。目を閉じれば、そして、言葉で誘導されれば、それに気づくことが出来る程度の、ね。不思議だろう? その感覚、覚えておいてね」
「……?」
 それは、確かに不思議なことだった。けれど、今それを説明される意味が分からない。目を閉じたまま、顔を向けると、彼が立ち上がる気配がした。
「目を開けて、こっちへおいで」
 言われて瞼を上げる。
 大きな窓の外の景色が眩しい。
 それを横切って、彼は僕を、奥の部屋へと導いた。

 その部屋は、彼の自宅の中にあって、尚、セキュリティーの向こうにあった。戸は金属製、取っ手は無く、その代わり正方形のタッチエリアがある。
 彼はそこに左手を当てて言った。
「静脈認証と体温、脈拍を合わせたセキュリティーだよ。わたしを殺して、手だけ持ってきても、開かないしくみなんだ」
 不穏なことを聞かされながら三秒後、グググッと音がして、金属の引き戸が壁の中に収まっていった。そこに、金庫でも隠してあるのかと疑いたくなるような装備だ。中は薄暗い。
「さあ」
 目を白黒させる僕を、彼は招き入れた。
 一歩、二歩……。
 薄暗い中に立つと、そこは三面の壁いっぱいにディスプレイを配置した空間だった。そこに、今は意味不明な文字の配列、グラフが映し出されている。
「デイトレーダーだったの?」
「いいや? なんで?」
 僕は何かで見た光景を想像しながら聞いたが否定された。僕は、彼のことをあまりにも知らないことを再認識した。ゲームをしていたときは同年代だと思っていたけれど、病室に来たときには品のよさげな社会人の姿だったし、この家、そしてこの部屋を見せられては、もはや普通の社会人ではないと思えた。いや、住居自体、駅前のタワーマンションだ。
「ドクターだよ」
「ドクター? 医者?」
「いや。大学の博士。海外の大学からこっちの大学に派遣されているんだ」
「………」
 僕はマジマジと榊のことを見た。
「若すぎない?」
「そうかい?」
「博士って高齢者のイメージだよ」
「君が思ってるのは教授だろう? 僕は博士号を持っているだけの博士、もちろん、あっちでは教壇に立つこともあるけどね。
 それより、既成概念なんてものは捨てた方がいい。これからのことを考えたら、ね」
「既成概念?」
「さっきのコーヒーと同じことさ」
 榊は思わせぶりなことを言って、僕を肘掛けのついたPCチェアに座らせた。
 そして榊はそこに片膝をつくと、僕を見上げるような、少し言い方はおかしいけれど、崇拝するような格好で言った。
「キミが病の床で見たこと、それは夢だ」
「………」
「もしも、今のわたしの言葉を聞いて、君の心の中に、ほんのかけらでも首を横に振る気持ちがあったのなら……、『あり得ないことは夢だ』なんていう既成概念は、今すぐ捨てるべきだ」
 わかりにくいことを言う……と思ったが、僕は、ゆっくりと頷いた。事実、あれは夢なんかじゃない。
 すると榊は、チェアの背もたれの方に隠してあった何かを取り出して、僕の膝に置いた。
「……これって、VRの?」
「そう。これはまだ、単純なVRの機材。けれど、見に行くことはできる。その先のことは、キミの気持ち次第。コーヒーの甘みを感じられるか、夢という既成概念を捨てられるかの、勝負だよ」
 膝に置かれたものは、金属光沢のあるVRゴーグルだった。アルミを磨き上げたものらしい。市販のものに似ているけれど、外面に目のようなものはついていない。顔に当てる側をのぞき込むと、わずかに紫色を反射するレンズ面が見えた。
「かぶるの?」
「そうだよ。VRははじめて?」
 僕は首を横に振る。
「店で見ただけ。でも買わなかった」
「そう。経験がない方がいいかもしれない」
 榊は僕の手からVRゴーグルを取ると、それを僕の頭に被せて視界を奪った。さらに、耳に何かを被せて、たぶんヘッドホンだと思うけれど、音を遮ると、遠くなった声で言った。
「音はすごく絞ってあるから、集中して。あと、目をつむらないように意識して。瞬きは普通にして大丈夫。だけど、僕がいいよと言うまでは、目をつむってはいけないよ」
「何も、見えないけど」
「あと、酸素マスクをつけさせてもらうから」
 榊は僕の疑問には答えず、口元に何かを被せてきた。ゴムのような、人肌のような、しっとりと柔らかな感触が口を大きめに囲む。息を吐くと、軽い抵抗感があって熱気がこもる感じがした。逆に、息を吸うと、どこからか涼しくて、そう、どこか、高原の朝のような空気が流れてきて、僕は思わず大きく息を吸い込んでいた。

 目の前に、ぼんやりと明るさを感じて、僕は気づいた。
 気づいた……というのは、今、この瞬間まで、まどろんでいるような、不思議な感覚に揺られていたからだ。
 瞬きをして、辺りを見ると、榊の姿はなくなっていた。しかし、声がした。
「キミが見たことを思い出してごらん。詳細に思い出す必要はないよ。ただ、見えてきたものが記憶の中の『それ』だと理解するんだ」
「見た……こと?」
「見たんだろう?」
「………」
 僕は声の方向を頼りに榊の姿を探した。そして声が、頭の上の、どこか高いところから聞こえているのだと気づいた。そして見上げると、そこにはどこまでも透明な空気があって、全体が真っ白だった。
 榊が言った。
「キミは言ったよね。青い空があって、群青色の海があって、四角い白い板が浮かび、そこで、誰かと出会った……と」
 その言葉の順を追うように、白い空がサアッと空色に染まり、足元は深い群青色になり、ハッと気づくと、足元には真っ平らな白い地面が現れ、僕はその角に立って群青色の海と、空色の空の景色を見渡していた。
「これって……」
「キミの記憶と、仮想空間がリンクしたんだよ」
「リンク?」
「リンク先は、ICUのPCさ。その中に、誰かの仕業で仮想空間が作られていた。そして今、キミは、そのICUのPCとリンクしている状態なんだ。脳波と手足の筋肉から、いくつもの信号を拾うことで、ね。それは、つまり……」
「つまり?」
「キミが一ヶ月前、そこにいたときと同じ状況に、今、キミはいるんだよ」
「なんだって?」
 榊がそこまで言ったとき、僕は改めて目の前の景色を見た。
 青い空と群青色の海と白い地面。
「まさか……」
 僕はハッとして背後を振り返った。
 そして言葉を失った。
 四角形の白い板のような地面と、その中心に、何か陽炎に揺れるようで輪郭ははっきりしないけれど、いくつかの物体が見えてきた。その形は、椅子に腰掛けている人影のような……。いや、僕は、それが椅子であり、人であることを知っている。
 僕は、目をこらした。
 すると、陽炎が薄まり、輪郭がはっきりとしてきて、僕は、九つの椅子、そして、うなだれて座る人々の影を目撃した。
「そんなことが……」
 僕は呆然と言った。すると榊が、微笑むように言った。
「既成概念を捨ててごらん。そして、甘みを感じるんだ。タイムリミットは、あと五分」
「五分?」
「時間が少なくてごめんね。今日は、初見のキミのデータを解析するのに、かなり…というか、一晩もかかってしまったんだ」
「データって?」
「説明は後でするよ。私の話が理解できた気になってがんばってほしい。とにかく、あと五分で、朝の六時になる」
 朝の六時……!
 その言葉に、僕は頭を殴られたように覚醒した。同時に、僕の目は、椅子に座る人影の中に、忘れ得ぬ人の後ろ姿を見つけて駆け付けた。
 三行三列で九脚の椅子、真ん中の一つを除いて人が座っていた。そして、一番前の列の真ん中、二番の椅子に、彼女は黙って前を向いて座っていた。目は開いて正面を見ているけれど、背筋もピンと伸ばしているけれど、その表情には生きているような気配がなかった。
「……ねえ、キミ」
 僕は、なんと声をかけていいのか迷いながら、けれど榊の言った五分という言葉に怯え、焦りながら言った。
「スカーレット……さん?」
 その言葉に、ピクリと少女の前髪が揺れた。
 たったそれだけのことで、僕の胸の鼓動は跳ね上がった。
 彼女が瞬きし、僕のことを振り仰いだ。
 そして、唇を震わせた。
「キミ……どうして……」
 か細い声だった。
 僕は、焦って言った。
「戻ってきた。キミを」
「どうして戻ってきたの!」
 突然、スカーレットが目を吊り上げた!
 そして立ち上がると、僕に鼻先を突きつけて喚いた!
「キミ、目が覚めたはずでしょ! この実験場で一番最初に目を覚ました人になったんでしょ! 退院してったはずだし! なのに、なんで戻ってきたのよ!」
 僕は面食らった。
 そんな風に怒鳴られるとは思っていなかった。
 それで、呆然と言った。
「キミが、苦しんでるの……見てらんなくて」
「………!」
 スカーレットは眉を吊り上げたまま目を丸くした。そして僕を見る目を愕然とさせて、膝から力が抜けたように、ストン……と椅子に腰を戻した。
「ひどい……。抜け出しても連れ戻されてしまうなら、わたし……わたしたち、毎日苦しむ意味、どこにあるの?」
 そう言って、まなじりを潤ませた。
 僕は慌てて言った。
「誤解だよ、戻されたんじゃない。僕が、望んでここに来たんだ」
「なにそれ?」
「なにそれって……」
「もし、そうなら、あなたはバカよ」
「そうじゃない。僕はもう、あの部屋にはいない。別の場所、僕の友達の家から、ここに来たんだ」
「………」
 スカーレットは理解できない目をした。
 僕は、時間が気になって言った。
「とにかく、時間が無いんだ。あと数分で……」と言いかけたところで、ピッ!という電子音が上がった。
 スカーレットも、僕も、他の人たちも、ピクリと反応する。そして、一呼吸あって、突然、スカーレットの斜め後ろで絶叫が上がった。
「もう始まった……」
 僕は呆然となりかけた。
 それを我に返してくれたのは、スカーレットの視線だった。彼女が、縋るような目をしたのだ。そして、言った。
「お願い。キミはどうやってここから抜け出したの? そのとき、どうやった? どんな感覚だった? 教えて……!」
 七番の女性が悲鳴を上げて、一ヶ月前と同じように椅子に飛びついた。目玉がこぼれそうな顔をしていて、僕はゴクリと息をのんで、それからスカーレットの疑問に答えた。
「感覚は、変だった。ガツンとやられて、苦しめられて、痛めつけられて、気絶した感じだった。気絶してからは、痛みを感じなくなったけれど、体と引き離されるような感覚。そして、椅子に沈んでいった。床も突き抜けて、深い青色の水底にゆっくりと落ちて行くみたいな」
 六番の男の子が悲しい声を上げた。僕は急いだ。
「とにかく! 早く真ん中の椅子に座って!」
 僕は急かした。
 ところがスカーレットは、震えながら首を横に振った。
「その椅子には、まだ座れない」
「え? なんで?」
「まだ、座れない。順番が来ないと……」
「なんで!」
「手を伸ばして、触ってみればわかるよ……」
 思わず声を高ぶらせた僕に、スカーレットはさみしい目をして言った。
 僕は、慌てて真ん中の椅子に手を伸ばし、背もたれを掴んだ……はずだった。
「……なんで?」
 けれど、握った手は空を掻いた。
 スカーレットは、振り向かずに言った。
「順番が、来ないと、触れることはできないの」
「………なんだって?」
 五番、四番、三番と絶叫が上がる中、僕は立ち尽くしてしまった。そして、知った。僕は心の中で、あんな苦しみを、あと一度だって、スカーレットには経験させたくないと、思うようになっていたのだ。
 立ち尽くした僕の耳に、ポツリと、スカーレットの言葉が聞こえた。
「だから、簡単には抜けなせない……んだと思う」
 疲れ切った声だった。
 それを聞いた途端、僕は、いきり立った!
「こんなの……誰の仕業だよ!」
 叫んだ僕の陰で、スカーレットがうめき声を上げた。そして胸を抱え込み、体を前屈みに折り、嗚咽をはじめると、透明な液体を口から床へ吐き戻した。
 その瞬間、僕の目の前が一瞬だけ暗くなり、一ヶ月前、群青色の水に沈んでいきながら見た光景が蘇った。

 そこでは、スカーレットが、透明な、ガラスのような床に倒れ込み、痙攣をしながら、頬を吐き戻したもので汚していた。

 僕は頭を激しく振って見たくないものを振り切った!
 そして戻ってきた光景は、椅子から前屈みに床へ崩れ落ちようとしているスカーレットの姿だった!
「!」
 僕は、咄嗟に彼女の体に飛びついていた。そして、そのまま無茶苦茶にしがみついて抱えると、すぐ後ろの空席に押しつけて座らせた。
 椅子はビクともしなかった。
 スカーレットは、座らせてもなお痙攣していて、僕は必死になって押さえつけた。顔を違わせているせいで表情はわからない。けれど、繰り返される嘔吐に、彼女の苦痛を想像した。そして、肩から背中に、吐き戻された生ぬるいものを感じて目をギュッと閉じた。
 やがて……。

 スカーレットの痙攣が落ち着いた。
 僕は、体中の筋肉が緊張していたことを知りながら、それをほどいて体を引いた。
 スカーレットは、真ん中の空席に座ることができていた。
 僕の肩に顎を乗せていたのだろう、そのままの、いくらかうつむいた顔で、ゆっくりと息をしていた。
 僕は、待った。
 スカーレットの体が、椅子に沈んでいくのを待った。
 けれど、その時はやってこなかった。
 スカーレットは、僕のことを見上げることもないまま、ゆっくりと体を前に折って、白い床にドサリと落ちた。
 僕は愕然と、その様子を見ていることしかできなかった。床に頬を押しつけて、気絶した彼女の、死んでしまったかのようなその姿を、見下ろしていることしかできなかったのだ。


第二話 了 
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