第8話 

文字数 6,631文字

 柊は父が仕事をしている姿を実際に見たことはない。
 家族が自分の撮影現場に来ることを、陸雄は固く禁じていた。
 そればかりか、三人の子供たちが映画やテレビ関係の仕事に就くことも、禁じていた。
 しかし、その意に反して長男の介は雑誌モデルを経て俳優になってしまい、柊もずっと若い頃のほんの一時期だが、映像美術の仕事に携わったことがある。
 介が雑誌モデルを始めた時も、陸雄はあからさまに気に入らぬ素振りを見せていたが、介が両親にも告げず、いつの間にか俳優として舞台に立っているのを知った時は、珍しく陸雄と介はケンカになった。
 そもそも介は、大学在学中に(本人の言によれば)誘われてメンズファッション誌のモデルをするようになったのだが、それも初めは両親に黙っていた。
 妹の澪と、祖父母の威一郎と倭文子には話していたようである。
 ところが、このことはやがて、陸雄の耳に入ることになった。
 だがこの時は、祖父母のとりなしや、介本人が、これはあくまでアルバイトであり、大学を卒業したらモデルは辞めると明言したので、ケンカや対立といった事態にまでは至らずに済んだ。
 しかし大学卒業後、介はこれも本人の言によれば誘われて、小劇団に入って俳優になってしまった。
 この時も介は、陸雄はもちろん千砂子にも、そして澪にさえも黙っていた。
 と云うより、介は大学在学時からサーフィンの時以外は家に居らず、卒業後も同じような状態であり、俳優になったというのも、澪がたまたまその劇団のチラシを見たことによって発覚したのであった。
 陸雄はこの時珍しく激怒した。
 もっとも、そんな訳で介が家に居ないので、その陸雄の怒りは空回り気味であった。
 そしてそう云う陸雄自身も、家に居ることが甚だ少ない人であった。
 だが、ことが発覚してしばらくして、陸雄と介が家で鉢合わせしたのであった。
 この頃、柊は高校生になっていた、
 その高校からの帰り道、鎌倉駅に近い友人の家でダベっていた柊が日が暮れて家に帰ると、陸雄と介が云い争いをしていた。
 千砂子は間に入って諌めようとしていたが、陸雄も介も聞く耳を持つ様子はなかった。
 柊はこういう場面にほとんど初めて出くわしたので、びっくりして呆然とこの様子を見守った。
 そもそも、浜坂家において怒号が飛び交っている状態を見るのが柊は初めてであり、それだけで度肝を抜かれてしまい、身体が硬直してしまったのである。
 もっとも、その時の陸雄と介の怒鳴り合いの細かいやりとりは忘れてしまった。
 覚えているのは、どういうやりとりの末にそうなったのか忘れたが、介が、
「俺の名前はポスターにだって出てるんだ。だから俺は役者やってることは、世間には公言してるんだ。それに気付かないのは、あんたの不注意だろう!」
 と云い放ったことと、それに対して、一瞬グッと詰まった陸雄が、
「世間に公言しているからって、家族にそれを云わなくて良いということじゃない。そういうのは屁理屈と云うんだ。姑息で卑屈なやり方だ」
 と云い返したことである。
 さらに陸雄は、
「お前が信念を持って役者をやるなら、堂々とそれを宣言すれば良いのだ。それをせずに、家族に黙ってしかもそんな屁理屈をこねていることを姑息で卑屈だと云うのだ。役者に限らず、表現と云うものは、そんな姑息で卑屈な態度でするものではない!」
 と云ったのだった。
 今度は、介がグッと言葉に詰まった。
 陸雄と介の云い争いはそこで終わった。
 介がそのまま家から出ていってしまったからである。
 云い争いは終わったが、しかし浜坂家ではさらにもうひと悶着があった。
 怒りの収まらない陸雄は介の何枚もあるサーフボードの一つを庭に引っ張り出し、カナヅチとノコギリでもって、それを破壊しようとした。
 それを千砂子がおろおろと諌めたが、陸雄はなかなかそれを聞き入れようとしなかった。
 柊はその父の行動より、その時の父の表情の方に気を呑まれてしまって、これまたただ呆然と、この様子を見やっていた。
 その時の陸雄は、怒りというより、何か狂気めいた、憑かれたような目をしていた。
 結局、陸雄はカナヅチを引っ込め、サーフボードは割られることなく無事だったが、しかしこの時の陸雄の目は据わっていて、千砂子が止めなければ、本当にサーフボードは破壊されていただろうし、それも一枚ではなく、そこにあった全てが同じ運命を辿っただろうと、柊は思っている。
 さらには、この事件は柊の腹にもてきめんに影響を与えて、以後三日三晩、柊は腹痛に苦しむこととなった。
 どうあれその時の陸雄は、怒りと云うより、何か狂気のようなものに憑かれたような目をしていた。 
 もっとも、後にも先にも、柊がそのような父の姿を見たのは、その時だけであった。
 その後、柊がほんの短い期間であったが、映像美術の仕事をしたときに、撮影での監督としての陸雄が、普段はごく穏やかで物静かなのに、突然狂ったように怒り出すことがあった、という話を先輩のベテランスタッフから聞いた。
 そのスタッフは柊が浜坂陸雄の息子とは知らず、柊もそうだとは云っていなかったので、そのスタッフの口調は辛辣な、そしてやや侮蔑のニュアンスを含んだものであった。
 そのスタッフの口調が、映像業界において父がどんな風に見られているのか、図らずも示していた。
 もちろん柊は、良い気分がするはずもなかったが、しかしそのスタッフに対して何か云い返した訳でもなく、微苦笑とともに聞き流した。
 結局、柊がその業界から早々に足を洗ってしまったのは、何より自分に向いてないと思ったことや、自分のやりたいこととも大幅に違うと感じたのが一番の理由であったが、先のスタッフの話も、一因ではあった。
 柊は映像美術の仕事を始めたことを、自ら陸雄に告げた。
 介の件があったから、ちゃんと自分の口で告げた方が良いと、柊は思ったのである。
 ただ、当時まだ現役の映画監督であった(繰り返しになるが、現在も引退宣言した訳ではないので、肩書は一応現役の映画監督であるが)陸雄は、先述のように家には不在のことが多く、柊もこの頃は家には不在がちであり、陸雄にそれを告げる機会がなかなかなくて、実際にその仕事を辞める二ヶ月ほど前に、ようやくそれを父に告げることが出来たのだった。
 その仕事は、当然ながら陸雄のつてで始めたものではなく、同じ映像関係ではあっても、陸雄の監督する作品に関わることもなかった。
 そのためなのかわからないが、陸雄は、介の時に見せたような激しい怒りは表さなかった。
 しかし、
「柊は絵をやりたいんじゃないのか?」
 と陸雄は明らかに不機嫌そうに云いはした。
「自分の子供が映像関係の仕事をするのが、何でそんなにイヤなの?」
 この時柊は、ついふと、陸雄に訊いた。
 映像関係、と云ったか、それとも芸能関係と云ったか、あるいは別の云い回しだったか、柊の記憶は定かではない。
 すると、
「実に下らん仕事だからだよ」
 と陸雄はぶっきらぼうに云った。
 何でお父さんはそんな下らないと思っている仕事をしているの。
 喉まで出掛かったその問いを、柊は呑み込んで腹に納めた。
 陸雄もそれ以上は云わず、例のジュースのロゴの入ったコップの酒を、黙然と呷り始めた。
 その話はそれっきりであり、やがて柊は短期間でその仕事を辞めて絵の世界に戻った。
 辞めた時も、陸雄に報告した。
 陸雄は、
「そうか」
 とだけ云った。
 柊はしかし、その時の父の表情に、少々残念そうないろがあるのを認めた。
 だが柊はこの時も、父の答えを深追いはしなかった。

 その陸雄が、もともと痩身の人であったのがますます痩せて、すっかり小さく縮んだような感じになって、部屋のガラス戸のむこうにみえる、千砂子と由理安の方を見やっている。
 陸雄は無表情であった。
 まなざしからも、どういう感情なのか読み取れない。
 すると、陸雄は柊の方を見て、
「何だ?」
 と云った。
「いいや、別に」
 柊は慌てて目を逸らした。
 映像美術の仕事を辞めたと告げた時、何故あんな残念そうな表情をしたのか訊いてみようかと、柊はほんの一瞬思ったが、止めた。
 父はそんなことを覚えてはいまい。
 陸雄は再び、窓外の千砂子と由理安に目をやった。
 千砂子がローズマリーの方を指さし何か云っていて、由理安は千砂子とローズマリーを交互に見やっていた。
「もう少し調子が良ければな…」
 陸雄が呟いた。
 柊はまた陸雄を見やった。
「身体の調子がもう少し良ければ、あの子を上の祠に連れて行ってやれるんだが。あそこがホラ、潮騒がちゃんと聞こえる所だろう?」
 陸雄は窓外を見やったまま云う。
「柊。私の代わりにあの子をあそこに連れてってやってくれないか」
 陸雄は窓外を見やったままそう続けた。
「え、ワタクシが?」
 柊が少々戸惑っていると、
「お母さんでもいいが、お母さんはあそこまで行くのはしんどかろう」
 と陸雄は云うのだった。
 上の祠というのは、浜坂家の前の道をさらに登って行った先の終点にある、この山の鎮守様の祠であった。
 浜坂家が建っているのは、その眼下に建つ光潮寺(こうちょうじ)の裏山であり、天明山(てんめいざん)というのだが、それはそのまま同寺の山号でもある。
 祠は天明大権現社というのが、正式名称なのであった。
「あの子、行くかな」
 柊もまた窓外を見やりながら云った。
 すると、由理安がふと振り返ってこちらを見て、微笑んだ。
「行くさ。おまえはあの子に気に入られている。私はお眼鏡に適わなかったようだがね」
 陸雄は口辺に薄っすら笑みを浮かべる。
「でも、散歩に行くって、ドイツ語で何て云えばいいんだろう」
 柊が心許なげに呟くと、
「澪に云わせればいい」
 と陸雄は云い、目を閉じた。
 柊は立ち上がり、部屋を出た。
 玄関の前を横切り、リヴィングに向かう。
 リヴィングの扉が少し開いていた。
「お葬式って、どうせ下でやるんでしょ?やっぱり黒の着物の方がいいのかな」
 澪の声であった。
「いや、洋服でいいだろ。俺はじいさんばあさん時と同じく黒のスーツって決めてるぜ」
 介の声が答える。
「そりゃ、男の人はそれでいいだろうけど。…お母さんは着物でしょ、どうせ」
「じいさんばあさんの時はどうだったかな」
「あの時は私、まだ若かったからワンピースで良かったけど、流石にこのトシだと…」
 扉の前で佇んでいた柊は、そこで扉を開いた。
 会話がパタッと途切れた。
 柊は聞こえなかったフリをしながら、リヴィングの中に足を踏み入れる。
 澪も介も素知らぬ風に自らの杯を傾けている。
 気まずい沈黙がリヴィングを支配している。
 クラウスはすっかり紅い顔をして、こちらは自分のグラスをジッと見つめて黙っている。
 果たして彼が今の澪と介の会話をわかっているのかいないのか、その姿からは柊にはわからなかった。
 窓の外には千砂子と由理安の姿があった。
 二人ともこちらに背を向けている。
 澪がそちらを見た。
 柊はその澪に、
「お父さんがワタクシに、上の祠に由理安ちゃんを連れてってやれって云うんだけど、いいかな?」
 と云ってみた。
「え、あのオンボロの祠?」
 澪が柊の方を向いて云うと、
「この山の神様だぜ。オンボロだなんて云うとバチが当たる」
 と介が冗談とも本気ともつかぬ表情と口調で云った。
「本当はお父さんが連れて行きたかったみたいだけど、行けないからワタクシに代わりに行ってくれって。あそこなら潮騒の音が聞こえるからって」
 柊は云いながら、何故か下っ腹の低音のドラムロールが止んでいるのに気付いた。
 さっきの澪と介の会話を聞いたなら、いつもの柊であればすぐにでもドラムロールが急激にクレッシェンドして、今すぐトイレに駆け込んでも不思議ではないのだが。
 また現実が想像を凌駕したのか?
 いや違う。
 薄々自分も、さっきの姉と兄の会話と同じようなことを心の隅で、頭の隅で、思い考えているからだ。
 多分葬儀は祖父母と同じく、下の光潮寺の本堂脇の開山堂という戦後建てられた、大規模な法事や催し物をする時に使われるお堂で執り行われるのだろうとか、映画やテレビの関係者が色々参列することになるのだろうかとか、薄っすら思い巡らせていたのだ。
 澪はまた窓外を見て、云った。
「ふうん。いいよ、どうぞ連れてってやって」
 すっかり存在を忘れられたかのようなクラウスが、怪訝な表情で柊と澪のやり取りを見やっているが、澪はクラウスには何も云わない。
「でも、由理安ちゃんが行きたいって云うかどうか…」
 柊が云うと、
「ドコ行きますか?」
 とクラウスが口をはさんで来た。
 柊はクラウスに向かって口を開きかけたが、それを制するように、澪がやや面倒臭げで苛立たしげな早口のドイツ語で何か云った。
 クラウスも少々苛立たしげな調子のドイツ語で云い返し、さらに澪がまたドイツ語で云い返す。
「おいおい、またケンカかよ。カンベンしてくれよ」
 介がウンザリ顔で手を振った。
 澪とクラウスは黙り込んだ。
 澪が立ち上がった。
 クラウスは何か云いたげにその方を見たが、何も云わなかった。
「ちょっと飲み過ぎたみたい。ついでに外の風に当たって来る」
 そう云うと澪は柊の傍らに来た。
 二人はそろってリヴィングを出て、玄関に向かう。
 先に玄関で靴を履きながら、
「心配しなくても、お母さんの前でさっきみたいなことは云わないわよ」
 と澪は云い、柊の方を見てニッと笑い、
「でもあんたに聞かせちゃったのは悪かったわね。お腹大丈夫?」
 と云うのだった。
「大丈夫」
 柊は口元に形だけの笑みを浮かべて答えた。
 澪はそれ以上云わず、先に立ってさっさと玄関を出て行ってしまった。
 千砂子と由理安は母屋の門側の軒下に生えているレモングラスの傍らに居た。
「これはねえ、柊さんのお腹の薬としてしか使わないんだけどね。こんな風にいい加減に生えているようだけど、これでもここに毎年ちゃんと植えてるのよ。南の方の草だから、日本の冬場は枯れちゃうのね」
 云いながら千砂子はその葉に鼻を近付け、匂いを嗅ぐ仕草をして、由理安を見て促す。
 由理安は千砂子の話はぽかんとして聞いているのだったが、促されて、同じ仕草をする。
 とたんに、その顔はパッと驚きのいろに溢れ、千砂子の方に振り返る。
 レモンに似た良い香りがその葉から漂うのだ。
「あら、柊さん!?
 急に千砂子の声が険しくなったので、由理安がビクリとする。
 柊も険しい千砂子の反応にビクリとして立ち止まった。
「お父さんはどうしたの!?一人にして来たの!?
 千砂子の顔も声も険しい調子に戸惑った柊は、操り人形の如く首をカクカクと縦に振るより他ない。
「もう、しょうがないわね。由理安ちゃん、後でね」
 そう云うと千砂子はパタパタと玄関へと駆け戻って行った。
「ハア、麗しき夫婦愛だわね。私にはムリだわ」
 その姿を見送りつつ澪は呆れ気味の笑みを浮かべて云った。
 柊も遅まきながら、千砂子の険しい態度の理由をようやく理解していた。
 同時に、澪の皮肉っぽい口調の意味も理解出来たし、最後の一言が引っ掛かりもした。
 が、柊はそれを口には出さなかった。
 澪がすぐにドイツ語で喋り始めたからでもあった。
 由理安は千砂子の豹変ぶりにびっくりして戸惑っていた。
 玄関に駆け戻る千砂子の姿を見やっていた由理安は、その理由の説明を求めるように、柊と澪を交互に見やっていた。
 その由理安に澪がドイツ語で話し始めたのだった。
 澪が何を云っているのか、柊には相変わらず、さっぱりわからない。
 しかし、澪が話すうちに、由理安の戸惑いのいろは次第に消えていった。
 だが。
 時折由理安がチラッと柊の方を見るのであった。
 それが柊は気になった。
 一体澪は由理安に何を云っているのか。
 やがて。
「ヤー」
 由理安は云って、柊を見た。
「行くって。じゃ、お願いね」
 澪に云われて、
「え、何が?」
 と柊は間抜けに云ってしまった。
 とたんに澪は心底侮蔑するような呆れ顔を作って深く大きく溜息をつき、
「何がじゃないわよ。あんたが連れてくって云ったんでしよ」
 と云うのであった。
「あ、ああ、そうだね」
 柊はしどろもどろになってしまったが、ふと見ると、由理安がその小さな右手を差し出しているのであった。
 小さくそして紅い掌を柊はそっと握った。
 その柔かい掌は、相変わらず薄っすらと湿り気を帯びているのだった。
 





 
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