第7話
文字数 5,033文字
その部屋の引き戸の前までは、数歩に過ぎない。
「入りますよ」
柊が声を掛けると、
「どうぞ」
と千砂子の声が答えた。
扉を引いて入ると、
「あら、まあ」
と千砂子の弾んだ声が和室の中に響いた。
柊の目は、そこにしつらえられた簡易ベッドの上の陸雄に向けられている。
横たわった陸雄は、小さく縮んで見えた。
由理安は、足元の畳に興味深げに目を凝らしている。
そして、靴下越しの畳の感触を確かめるように、足を縦横に擦らせ始めた。
柊と由理安は、まだ手をつないでいた。
由理安は柊から手を離すとしゃがみ込み、今度は右手で、畳の感触を確かめ始めた。
その間も由理安は左手で胸に押し当てるように、スケッチを抱きしめている。
由理安はしかし、祖父母の方には目を向けようとはしない。
「由理安ちゃん、こっちへどうぞ」
千砂子が微笑みつつ由理安を手招きする。
千砂子はベッドの傍らに正座していた。
由理安がそちらを見た。
窺うようなまなざしで、ニコリともせず、じっと見ている。
千砂子は微笑みを絶やさず、手招きに次いで今度は自分の前の辺りの畳をポンポンと叩いて指さし、そしてまた、手招きをする。
由理安は立ってそこに行くと、膝を付いた。
しかし千砂子のする正座が出来ず、戸惑っている様子なので柊もその傍らに行き、尻を付いて膝を手で抱える、体育座りをしてみせた。
すると、由理安もそれを真似て、同じように座った。
「あら、すっかり仲良しなのね」
千砂子が笑った。
何故か柊は顔が火照るのを感じた。
由理安はきょとんとしている。
陸雄もこの様子を霞のような力のない笑みと共に見やっている。
「それは何?」
千砂子が、由理安が後生大事に抱えているスケッチを指さして、訊いた。
由理安は一瞬、見せるのをためらうような素振りを見せ、柊の方を見た。
柊は微笑み、うなずいて、由理安を促した。
自分で見せるよう促しておきながら、柊はまたもかすかな緊張を覚えるのだった。
千砂子に絵を見せることは、澪に見せるのに次いで、緊張するのである。
千砂子は画廊経営者なのだった。
横浜中華街にほど近い辺りに、「浜坂画廊」というのを経営している。
創業者(創廊者、あるいは開廊者と云うべきか?)の威一郎より受け継いだものであり、美術業界ではかなり知られた、老舗の画廊である。
千砂子は、威一郎と倭文子夫妻の一人娘である。
スケッチを見る千砂子の表情には微笑みが浮かび続けているが、まなざしは厳しいように、柊には見える。
まあそれは毎度のことなので、柊は緊張を覚えはするが、いちいち腹が下ったりはしない。
それより、傍らの由理安の表情の方が気になった。
柊はチラッと由理安を見やった。
すると由理安も息を潜めて、千砂子の様子を窺っている。
ああ、と柊は理解した。
この子も、千砂子のまなざしの厳しさに気付いているのだ。
ただそれが、柊にとっては毎度のことであっても、由理安にはいろいろな意味で、不安を与えているに違いない。
千砂子はしばらく絵を見つめると、それを横目で見やっていた陸雄に渡した。
そして、
「本格的に仕上げるのなら、パステルの方がいいわね」
と云うのだった。
ああ、パステルか。
スケッチを描いている時に柊が感じていた違和感の理由を、千砂子は一言で解明した。
「うん、そうだね」
柊は深い納得と共に云った。
由理安は不安そうにキョトンとしている。
千砂子は由理安に向かって微笑み、
「エスイストグート」
と云った。
由理安の表情がパッと明るくなった。
柊が驚いて、
「ドイツ語喋れるの?」
と云うと、
「そのくらいの言葉は知ってるわよ」
と千砂子は笑った。
すると、
「エス、イスト、グート」
と今度は陸雄が云い、両手でスケッチを由理安の方へ差し出しつつ、ゆっくり半身を起こそうとする。
千砂子がその身体を支える。
よろよろと半身を起こした陸雄から、由理安もまた両手で、スケッチを受け取った。
まるで賞状の授与のようだったが、柊にはもっと別な何かがこの時陸雄から由理安に受け渡されたようにも見えた。
もっとも、ほんの一瞬そんなことを感じただけで、すぐにそれを柊は忘れてしまったのだったが。
陸雄は微笑んでいたが、その陸雄を見る由理安の表情は、また硬く強張っていた。
ああ、とまた柊は納得した。
病のせいで痩せ細り、目ばかりがギラギラしているように見える父の顔は、子供には確かに怖いものであるのかも知れない。
由理安は受け取ったスケッチをまた大事そうに胸に抱いた。
自分の描いた絵を、まるで宝物のように扱ってくれることに、柊は感銘を覚えていた。
「柊」
陸雄が呼んだ。
「何?」
「私の絵を、描いてくれないか」
陸雄が云うと、柊だけでなく、千砂子もハッとした。
「今のスケッチを見たら、私も何だか柊に描いてもらいたくなったよ」
陸雄はさり気ない、軽口のような調子で云ったが、柊は瞬時にそれが嘘だと感じた。
父はもう前からそう決めていたに違いない。
柊は胸が詰まるような気がして、何と答えて良いのかわからず、千砂子を見た。
千砂子は陸雄から目を逸らし、正座のまま畳に目を落としている。
「それはスケッチ…のことじゃないよね?」
柊はボソボソと云う。
踏んではいけない所、踏み込みたくない所へ、踏み入らざるを得なかった。
「うん、油絵の、ちゃんとしたのにしてくれ」
陸雄は淡々と云う。
由理安がこの様子をじっと見ている。
おじいさんが何か云い始めたとたん、にわかに部屋の中に 緊張のいろが漂い始めたのが、由理安にもわかった。
シュウとおじいさんがケンカを始めたのかと思った。
ミュンヘンの家でこういう緊張のいろが漂い始める時は、パパとママがケンカを始める時だからだ。
しかし、そうではないらしい。
そうではないけれど、でもとても大事な話をしているらしいことを、由理安は感じ取っていた。
すると、シュウが微笑んで、おじいさんに何か云った。
「ワタシの絵はいつもちゃんとしてるつもりですが」
柊は云ったのだった。
すると、
「そりゃ悪かった」
と陸雄も微笑んだ。
「絵のモデル…大変だから、スケッチだけ描いて、あとは写真を基に仕上げるけど、いい?」
柊が云うと、
「おまえのやりやすい方法でやってくれ」
と陸雄は答えた。
由理安は驚いた。
由理安だけでなく、柊も陸雄も驚いていた。
千砂子が涙ぐんでしまっていた。
千砂子は慌てて涙を拭い、鼻をすすると、
「由理安ちゃん、あっち行ってましょう。おじいさまと柊さん、大事なお話があるから」
と云って由理安に手を差しのべつつ、腰を浮かせた。
由理安はうなずき、千砂子の手を握り、立ち上がった。
由理安はもちろん、千砂子の言葉もわからなかった。
しかしおばあさんが、あっちへ行こう、と促したのはわかった。
そしてそれに素直に従った方が良いと、由理安は思った。
正直云えば、由理安はもう少しこの畳の部屋に居て、その感触を味わっていたかった。
おじいさんはもはやあまり怖い感じはしなかった。
胸元まで毛布を掛けてベッドに横たわるその姿は、由理安からも弱々しく頼りない、何か儚げなものに見え、そしてそれが、少し可愛らしいものにも、思えていた。
そのおじいさんとシュウを、二人きりにする事情があるらしい。
握ったおばあさんの手は、かさかさに乾いていて、冷たかった。
おばあさんは由理安と共に部屋を出ると、リヴィングに戻るのではなく、玄関の三和土 に足を下ろし、サンダルを突っ掛けるのだった。
「由理安ちゃん、お庭を見ましょう」
千砂子は玄関の扉を開いて、表を指しながら云った。
由理安はおばあさんの云わんとすることは何となくわかったが、スケッチを抱えたままだったので、ちょっと戸惑った。
「それ、持っててあげる」
おばあさんが両手を差しのべて来たので、由理安はスケッチを渡した。
するとおばあさんは、由理安がそうしていたのとまったく同じように、そのスケッチを大事そうに、胸に抱えるのだった。
せっかく開けた玄関の扉は、おばあさんが手を離したのでまた閉まってしまったが、おばあさんは構う様子はないばかりか、その上、由理安がそうしていたように、スケッチがしわにならないように、その両端をピンと引っ張るようにして、持ってくれているのだった。
由理安は嬉しくなって、框に腰掛け靴を履く手を休めて、おばあさんに笑顔を向けた。
さっきおばあさんは、とても冷たい、怖い目でこのスケッチを見ていたが、これが由理安にとってとても大事なものであることは、わかってくれているのだ。
いや、おばあさんにとっても、この絵はとても大事なものなのだ。
由理安の心は華やいでいた。
由理安はニコニコしながら靴を履き終え、立ち上がった。
「玄関を開けて頂戴。おばあちゃん、手が塞がってるから」
千砂子は由理安に云った。
浜坂家の玄関の扉は丸い磨りガラスの窓がはめ込まれている。
千砂子は手で指し示せないので、その開き戸のドアノブの方へ唇をとがらせて見せていた。
由理安は、そのおばあさんの仕草の意味をすぐに理解した。
小さな手で、ひんやりした鉄のドアノブを回し、扉を外に押し開いた。
表に出ると、緑の匂いがむうっと迫って来た。
庭は、澪の云うようにきったないかどうかはともかく、放ったらかしで草ぼうぼうであるかのように見えるのは間違いなかった。
庭の奥の北西の一隅には、プレハブの小屋が建っていて、物置となっている。
そこには千砂子の庭いじりの道具も入っているが、大半は、かつてサーフィンに熱中していた頃の介の使っていたサーフボードによって占められている。
近頃の介は俳優としての仕事がそれなりに忙しいらしく、滅多にサーフィンをすることがない。
ただ本人はサーフィンを辞めたつもりはないらしく、東京に住んでいる今も時折戻って来て、ボードの手入れだけはするのである。
小屋の前のスペースだけ何も生えていないのは、その手入れをするための場所だからであった。
庭のそれ以外の場所には植木もあるが、一見ぽうぼうに生えているだけに見える草は、ほぼ何かしらのハーブである。
白い菊のような花がプレハブの物置の横に固まって咲き乱れているのは、カモミールであった。
その向かって左隣に垂直に群生しているのが、ローズマリーである。
それらを区切るようにプランターが置かれ、そこに丈の低い草が密生している。
それが三つあって、それぞれスペアミント、ペパーミント、アップルミントが植えられているのである。
ここからは見えないが、母屋の側にはバジル、レモングラス、セージ、シソが植えられていて、ローズマリーの隣にはフェンネルが、さらに玄関から門に向かう両サイドにはオレガノとタイムが植えられてある。
そしてさらにプランターや植木鉢にコリアンダーやパセリやレモンバームなどが植えられているのである。
雑然としているようでいて、実はそれぞれのハーブに適した、互いの相性も考慮された植え方がされている。
しかしどうあれ、浜坂家の庭が世間の一般家庭における庭と云うより、ハーブ菜園と云う方が良いものになってしまっているのは、否めない事実であった。
千砂子がハーブ栽培に凝り始めたのは、柊が小学校高学年の頃だったので、かれこれ二十年ほど前のことになる。
それまでの浜坂家の庭がどうだったかと云うと、柊の記憶にあるのは、介のサーフボードが立て掛けられて並んでいた光景であり、それ以前は芝生の生えた、何の変哲もない庭だった。
その、今は千砂子のハーブ菜園と化した庭を、千砂子と由理安が逍遥しているのを、柊は陸雄の横たわるベッドの傍らから、見ている。
千砂子がカモミールの花々を指さし、由理安に向かって何か云っている。
ガラス戸越しであるし、大きな声で喋っているようでもないので、何を云っているのかまでは聞こえない。
柊がふと傍らを見やると、陸雄もまた、二人の様子を見ているのだった。
柊はここに陸雄と二人きりにされてからの数分の間、何も喋っていない。
今に限ったことではないが、柊はこの父と二人っきりにされると、何を話したら良いのかわからない。
陸雄は寡黙であったし、柊も決してお喋りではない。
陸雄は映画監督であったが、その仕事をしている父の姿が、柊にはどうにも想像出来なかった。
「入りますよ」
柊が声を掛けると、
「どうぞ」
と千砂子の声が答えた。
扉を引いて入ると、
「あら、まあ」
と千砂子の弾んだ声が和室の中に響いた。
柊の目は、そこにしつらえられた簡易ベッドの上の陸雄に向けられている。
横たわった陸雄は、小さく縮んで見えた。
由理安は、足元の畳に興味深げに目を凝らしている。
そして、靴下越しの畳の感触を確かめるように、足を縦横に擦らせ始めた。
柊と由理安は、まだ手をつないでいた。
由理安は柊から手を離すとしゃがみ込み、今度は右手で、畳の感触を確かめ始めた。
その間も由理安は左手で胸に押し当てるように、スケッチを抱きしめている。
由理安はしかし、祖父母の方には目を向けようとはしない。
「由理安ちゃん、こっちへどうぞ」
千砂子が微笑みつつ由理安を手招きする。
千砂子はベッドの傍らに正座していた。
由理安がそちらを見た。
窺うようなまなざしで、ニコリともせず、じっと見ている。
千砂子は微笑みを絶やさず、手招きに次いで今度は自分の前の辺りの畳をポンポンと叩いて指さし、そしてまた、手招きをする。
由理安は立ってそこに行くと、膝を付いた。
しかし千砂子のする正座が出来ず、戸惑っている様子なので柊もその傍らに行き、尻を付いて膝を手で抱える、体育座りをしてみせた。
すると、由理安もそれを真似て、同じように座った。
「あら、すっかり仲良しなのね」
千砂子が笑った。
何故か柊は顔が火照るのを感じた。
由理安はきょとんとしている。
陸雄もこの様子を霞のような力のない笑みと共に見やっている。
「それは何?」
千砂子が、由理安が後生大事に抱えているスケッチを指さして、訊いた。
由理安は一瞬、見せるのをためらうような素振りを見せ、柊の方を見た。
柊は微笑み、うなずいて、由理安を促した。
自分で見せるよう促しておきながら、柊はまたもかすかな緊張を覚えるのだった。
千砂子に絵を見せることは、澪に見せるのに次いで、緊張するのである。
千砂子は画廊経営者なのだった。
横浜中華街にほど近い辺りに、「浜坂画廊」というのを経営している。
創業者(創廊者、あるいは開廊者と云うべきか?)の威一郎より受け継いだものであり、美術業界ではかなり知られた、老舗の画廊である。
千砂子は、威一郎と倭文子夫妻の一人娘である。
スケッチを見る千砂子の表情には微笑みが浮かび続けているが、まなざしは厳しいように、柊には見える。
まあそれは毎度のことなので、柊は緊張を覚えはするが、いちいち腹が下ったりはしない。
それより、傍らの由理安の表情の方が気になった。
柊はチラッと由理安を見やった。
すると由理安も息を潜めて、千砂子の様子を窺っている。
ああ、と柊は理解した。
この子も、千砂子のまなざしの厳しさに気付いているのだ。
ただそれが、柊にとっては毎度のことであっても、由理安にはいろいろな意味で、不安を与えているに違いない。
千砂子はしばらく絵を見つめると、それを横目で見やっていた陸雄に渡した。
そして、
「本格的に仕上げるのなら、パステルの方がいいわね」
と云うのだった。
ああ、パステルか。
スケッチを描いている時に柊が感じていた違和感の理由を、千砂子は一言で解明した。
「うん、そうだね」
柊は深い納得と共に云った。
由理安は不安そうにキョトンとしている。
千砂子は由理安に向かって微笑み、
「エスイストグート」
と云った。
由理安の表情がパッと明るくなった。
柊が驚いて、
「ドイツ語喋れるの?」
と云うと、
「そのくらいの言葉は知ってるわよ」
と千砂子は笑った。
すると、
「エス、イスト、グート」
と今度は陸雄が云い、両手でスケッチを由理安の方へ差し出しつつ、ゆっくり半身を起こそうとする。
千砂子がその身体を支える。
よろよろと半身を起こした陸雄から、由理安もまた両手で、スケッチを受け取った。
まるで賞状の授与のようだったが、柊にはもっと別な何かがこの時陸雄から由理安に受け渡されたようにも見えた。
もっとも、ほんの一瞬そんなことを感じただけで、すぐにそれを柊は忘れてしまったのだったが。
陸雄は微笑んでいたが、その陸雄を見る由理安の表情は、また硬く強張っていた。
ああ、とまた柊は納得した。
病のせいで痩せ細り、目ばかりがギラギラしているように見える父の顔は、子供には確かに怖いものであるのかも知れない。
由理安は受け取ったスケッチをまた大事そうに胸に抱いた。
自分の描いた絵を、まるで宝物のように扱ってくれることに、柊は感銘を覚えていた。
「柊」
陸雄が呼んだ。
「何?」
「私の絵を、描いてくれないか」
陸雄が云うと、柊だけでなく、千砂子もハッとした。
「今のスケッチを見たら、私も何だか柊に描いてもらいたくなったよ」
陸雄はさり気ない、軽口のような調子で云ったが、柊は瞬時にそれが嘘だと感じた。
父はもう前からそう決めていたに違いない。
柊は胸が詰まるような気がして、何と答えて良いのかわからず、千砂子を見た。
千砂子は陸雄から目を逸らし、正座のまま畳に目を落としている。
「それはスケッチ…のことじゃないよね?」
柊はボソボソと云う。
踏んではいけない所、踏み込みたくない所へ、踏み入らざるを得なかった。
「うん、油絵の、ちゃんとしたのにしてくれ」
陸雄は淡々と云う。
由理安がこの様子をじっと見ている。
おじいさんが何か云い始めたとたん、にわかに部屋の中に 緊張のいろが漂い始めたのが、由理安にもわかった。
シュウとおじいさんがケンカを始めたのかと思った。
ミュンヘンの家でこういう緊張のいろが漂い始める時は、パパとママがケンカを始める時だからだ。
しかし、そうではないらしい。
そうではないけれど、でもとても大事な話をしているらしいことを、由理安は感じ取っていた。
すると、シュウが微笑んで、おじいさんに何か云った。
「ワタシの絵はいつもちゃんとしてるつもりですが」
柊は云ったのだった。
すると、
「そりゃ悪かった」
と陸雄も微笑んだ。
「絵のモデル…大変だから、スケッチだけ描いて、あとは写真を基に仕上げるけど、いい?」
柊が云うと、
「おまえのやりやすい方法でやってくれ」
と陸雄は答えた。
由理安は驚いた。
由理安だけでなく、柊も陸雄も驚いていた。
千砂子が涙ぐんでしまっていた。
千砂子は慌てて涙を拭い、鼻をすすると、
「由理安ちゃん、あっち行ってましょう。おじいさまと柊さん、大事なお話があるから」
と云って由理安に手を差しのべつつ、腰を浮かせた。
由理安はうなずき、千砂子の手を握り、立ち上がった。
由理安はもちろん、千砂子の言葉もわからなかった。
しかしおばあさんが、あっちへ行こう、と促したのはわかった。
そしてそれに素直に従った方が良いと、由理安は思った。
正直云えば、由理安はもう少しこの畳の部屋に居て、その感触を味わっていたかった。
おじいさんはもはやあまり怖い感じはしなかった。
胸元まで毛布を掛けてベッドに横たわるその姿は、由理安からも弱々しく頼りない、何か儚げなものに見え、そしてそれが、少し可愛らしいものにも、思えていた。
そのおじいさんとシュウを、二人きりにする事情があるらしい。
握ったおばあさんの手は、かさかさに乾いていて、冷たかった。
おばあさんは由理安と共に部屋を出ると、リヴィングに戻るのではなく、玄関の
「由理安ちゃん、お庭を見ましょう」
千砂子は玄関の扉を開いて、表を指しながら云った。
由理安はおばあさんの云わんとすることは何となくわかったが、スケッチを抱えたままだったので、ちょっと戸惑った。
「それ、持っててあげる」
おばあさんが両手を差しのべて来たので、由理安はスケッチを渡した。
するとおばあさんは、由理安がそうしていたのとまったく同じように、そのスケッチを大事そうに、胸に抱えるのだった。
せっかく開けた玄関の扉は、おばあさんが手を離したのでまた閉まってしまったが、おばあさんは構う様子はないばかりか、その上、由理安がそうしていたように、スケッチがしわにならないように、その両端をピンと引っ張るようにして、持ってくれているのだった。
由理安は嬉しくなって、框に腰掛け靴を履く手を休めて、おばあさんに笑顔を向けた。
さっきおばあさんは、とても冷たい、怖い目でこのスケッチを見ていたが、これが由理安にとってとても大事なものであることは、わかってくれているのだ。
いや、おばあさんにとっても、この絵はとても大事なものなのだ。
由理安の心は華やいでいた。
由理安はニコニコしながら靴を履き終え、立ち上がった。
「玄関を開けて頂戴。おばあちゃん、手が塞がってるから」
千砂子は由理安に云った。
浜坂家の玄関の扉は丸い磨りガラスの窓がはめ込まれている。
千砂子は手で指し示せないので、その開き戸のドアノブの方へ唇をとがらせて見せていた。
由理安は、そのおばあさんの仕草の意味をすぐに理解した。
小さな手で、ひんやりした鉄のドアノブを回し、扉を外に押し開いた。
表に出ると、緑の匂いがむうっと迫って来た。
庭は、澪の云うようにきったないかどうかはともかく、放ったらかしで草ぼうぼうであるかのように見えるのは間違いなかった。
庭の奥の北西の一隅には、プレハブの小屋が建っていて、物置となっている。
そこには千砂子の庭いじりの道具も入っているが、大半は、かつてサーフィンに熱中していた頃の介の使っていたサーフボードによって占められている。
近頃の介は俳優としての仕事がそれなりに忙しいらしく、滅多にサーフィンをすることがない。
ただ本人はサーフィンを辞めたつもりはないらしく、東京に住んでいる今も時折戻って来て、ボードの手入れだけはするのである。
小屋の前のスペースだけ何も生えていないのは、その手入れをするための場所だからであった。
庭のそれ以外の場所には植木もあるが、一見ぽうぼうに生えているだけに見える草は、ほぼ何かしらのハーブである。
白い菊のような花がプレハブの物置の横に固まって咲き乱れているのは、カモミールであった。
その向かって左隣に垂直に群生しているのが、ローズマリーである。
それらを区切るようにプランターが置かれ、そこに丈の低い草が密生している。
それが三つあって、それぞれスペアミント、ペパーミント、アップルミントが植えられているのである。
ここからは見えないが、母屋の側にはバジル、レモングラス、セージ、シソが植えられていて、ローズマリーの隣にはフェンネルが、さらに玄関から門に向かう両サイドにはオレガノとタイムが植えられてある。
そしてさらにプランターや植木鉢にコリアンダーやパセリやレモンバームなどが植えられているのである。
雑然としているようでいて、実はそれぞれのハーブに適した、互いの相性も考慮された植え方がされている。
しかしどうあれ、浜坂家の庭が世間の一般家庭における庭と云うより、ハーブ菜園と云う方が良いものになってしまっているのは、否めない事実であった。
千砂子がハーブ栽培に凝り始めたのは、柊が小学校高学年の頃だったので、かれこれ二十年ほど前のことになる。
それまでの浜坂家の庭がどうだったかと云うと、柊の記憶にあるのは、介のサーフボードが立て掛けられて並んでいた光景であり、それ以前は芝生の生えた、何の変哲もない庭だった。
その、今は千砂子のハーブ菜園と化した庭を、千砂子と由理安が逍遥しているのを、柊は陸雄の横たわるベッドの傍らから、見ている。
千砂子がカモミールの花々を指さし、由理安に向かって何か云っている。
ガラス戸越しであるし、大きな声で喋っているようでもないので、何を云っているのかまでは聞こえない。
柊がふと傍らを見やると、陸雄もまた、二人の様子を見ているのだった。
柊はここに陸雄と二人きりにされてからの数分の間、何も喋っていない。
今に限ったことではないが、柊はこの父と二人っきりにされると、何を話したら良いのかわからない。
陸雄は寡黙であったし、柊も決してお喋りではない。
陸雄は映画監督であったが、その仕事をしている父の姿が、柊にはどうにも想像出来なかった。