呪文
文字数 1,958文字
季節は秋が終わりかけ、そろそろ寒さが忍び寄るころ、一人の少年が真夜中、一人で自宅を抜け出した。
彼の手の中にはカバンがあり、その中身は懐中電灯とメモ用紙。それから白いチョーク。
細い山道が真っ暗な森の中を、ぐねぐね曲がりながら登ってゆく。
十分ほどで、少年は山頂に着くことができた。
高い山ではないが、頂上は少し広く、まるで床のように岩が平らになっている。
少年はチョークを使って、岩の上に大きなペケ印を一つ書いた。
でもそれは、重要なものではなかった。「やって来て、ここに立て」と指示するための目印にすぎない。
少年は呪文を唱え始めた。
この呪文を探すために、いささか苦労しなくてはならなかったが、この日を迎えたということは、ついにそれも報われたということだろう。
呪文を唱え終わっても、長時間待たされたりするのではないかと覚悟していたが、そんなことはなく、すべてがあっけないぐらいに簡単だった。
呪文を唱え終えた時には、すでにチョークの上には誰かが立っていたのだ。
だけど、それが黒い影なのか、ただ黒い服を着ているだけなのか、最初少年にはわからなかった。
でも何秒かして、黒い服を着た女なのだとわかった。
それは、たしかに女だった。仕立ての良い長い服を着て、あたりが暗すぎて顔は見えないが、少年を見つめているように感じられる。
「おまえの名は?」女が言った。
少年は小さな声で答えたが、その名はあまり重要ではない。ここでは省略しよう。
「年は?」
「9歳。あんたは誰?」
「私の名はダッキという。見るところお前は、何かの儀式をしていたようだな」
ダッキはかがんで、そばの地面に落ちていた白い紙切れを拾い上げた。少年が呪文をメモしておいた紙だ。
「これは死者を黄泉の国から呼び戻す呪文のようだが、お前はいったい、誰を呼び出そうとしていたのだね?」
「僕は、死んだお母さんを呼び戻そうとしていたんだ」
ダッキは少し表情を変え、
「だがお前の母親は死んでなどいない。今でもちゃんと生きている。お前の父親の死後、別の男と再婚して、今では子供も二人いるではないか」
「僕は、お母さんを黄泉の国から呼び戻すんだ。邪魔をするな」
「邪魔はせぬ。だがお前の母は、死んでお前のもとを去ったのではなく、お前を捨てていっただけなのだよ」
「うるさい、バカ」
ダッキは、くすくす笑い始めた。
「バカか。私に面と向かってそう言える者は、ごく少ない」
少年が黙ったのでダッキは真顔になり、
「寒くはないか? もう夜遅い」
「ううん、大丈夫…。お母さんがまだ生きていることは知ってたよ。でも僕がほしかったのは、あれではなくて、もっと別の人だ。別のお母さんだ」
「だからそれを、黄泉の国から呼び出そうとしたのか? もともと存在もせぬ架空の母親を」
少年は答えない。
「どうした? 他にもまだ何かあるのか?」
「もうすぐ授業参観日がくる」
「参観日?」
「参観日にも、僕だけ誰も学校に来ない。他のみんなは誰かが来るのに、去年も一昨年もそうだった」
「お前の保護者、つまり叔父と叔母は来ないのか? そうか、娘の学校へ行くのだな」
叔父と叔母には自分たちの子供がいて、女の子だったけれど、少年とは別の学校に通っていた。
ダッキが、ポツリと口を開いた。
「なるほど…、おもしろいな」
「何が?」
「お前が架空の母を黄泉の国から呼び出そうと試み、その結果、なぜ私がここに呼び出されることになったのかさ」
「…」
「それは、私がお前の本当の母親だからだろう。血筋や生まれはともかく、呪文はそう告げているのだ」
「なんだって?」
「この現象は、他に解釈のしようがないではないか」
「だけど…」
「呪文は嘘などつかぬぞ。私は呪文の力を信じる。だから参観日には、私がお前の学校へ行ってやろう」
「来てくれるの? 僕はうれしいけれど、何のお礼をすればいい?」
「礼だと? そんなものは要らぬ。お前のような子供から、何が期待できる?」
「魂を捧げるとか?」少し小さな声で少年は言った。
ダッキは目を細めた。
「礼は要らぬ。気にすることはない。では、参観日には私が行くということでよいか?」
「うん」
ダッキは、にんまり笑った。
「さあ、これがその約束の印だ。私がお前の母になるという誓いだ」
そう言ってダッキは、少年の肩を軽くつかんで引き寄せた。
ダッキの唇はやわらかかったけれど、とても冷たかった。
筆者の知る限り、ダッキは約束を守ったようである。
参観日、ある教室に思いがけず現れた長身の美貌の女は、学校内外で長く噂になったほどだからだ。
ただ問題が一つある。
その翌日から、少年が学校へ姿を見せなくなったのだ。もちろん家にもおらず、叔父と伯母は警察へ捜索願を出さなくてはならなかった。
その後、少年の姿を見た者は一人もいない。
彼の手の中にはカバンがあり、その中身は懐中電灯とメモ用紙。それから白いチョーク。
細い山道が真っ暗な森の中を、ぐねぐね曲がりながら登ってゆく。
十分ほどで、少年は山頂に着くことができた。
高い山ではないが、頂上は少し広く、まるで床のように岩が平らになっている。
少年はチョークを使って、岩の上に大きなペケ印を一つ書いた。
でもそれは、重要なものではなかった。「やって来て、ここに立て」と指示するための目印にすぎない。
少年は呪文を唱え始めた。
この呪文を探すために、いささか苦労しなくてはならなかったが、この日を迎えたということは、ついにそれも報われたということだろう。
呪文を唱え終わっても、長時間待たされたりするのではないかと覚悟していたが、そんなことはなく、すべてがあっけないぐらいに簡単だった。
呪文を唱え終えた時には、すでにチョークの上には誰かが立っていたのだ。
だけど、それが黒い影なのか、ただ黒い服を着ているだけなのか、最初少年にはわからなかった。
でも何秒かして、黒い服を着た女なのだとわかった。
それは、たしかに女だった。仕立ての良い長い服を着て、あたりが暗すぎて顔は見えないが、少年を見つめているように感じられる。
「おまえの名は?」女が言った。
少年は小さな声で答えたが、その名はあまり重要ではない。ここでは省略しよう。
「年は?」
「9歳。あんたは誰?」
「私の名はダッキという。見るところお前は、何かの儀式をしていたようだな」
ダッキはかがんで、そばの地面に落ちていた白い紙切れを拾い上げた。少年が呪文をメモしておいた紙だ。
「これは死者を黄泉の国から呼び戻す呪文のようだが、お前はいったい、誰を呼び出そうとしていたのだね?」
「僕は、死んだお母さんを呼び戻そうとしていたんだ」
ダッキは少し表情を変え、
「だがお前の母親は死んでなどいない。今でもちゃんと生きている。お前の父親の死後、別の男と再婚して、今では子供も二人いるではないか」
「僕は、お母さんを黄泉の国から呼び戻すんだ。邪魔をするな」
「邪魔はせぬ。だがお前の母は、死んでお前のもとを去ったのではなく、お前を捨てていっただけなのだよ」
「うるさい、バカ」
ダッキは、くすくす笑い始めた。
「バカか。私に面と向かってそう言える者は、ごく少ない」
少年が黙ったのでダッキは真顔になり、
「寒くはないか? もう夜遅い」
「ううん、大丈夫…。お母さんがまだ生きていることは知ってたよ。でも僕がほしかったのは、あれではなくて、もっと別の人だ。別のお母さんだ」
「だからそれを、黄泉の国から呼び出そうとしたのか? もともと存在もせぬ架空の母親を」
少年は答えない。
「どうした? 他にもまだ何かあるのか?」
「もうすぐ授業参観日がくる」
「参観日?」
「参観日にも、僕だけ誰も学校に来ない。他のみんなは誰かが来るのに、去年も一昨年もそうだった」
「お前の保護者、つまり叔父と叔母は来ないのか? そうか、娘の学校へ行くのだな」
叔父と叔母には自分たちの子供がいて、女の子だったけれど、少年とは別の学校に通っていた。
ダッキが、ポツリと口を開いた。
「なるほど…、おもしろいな」
「何が?」
「お前が架空の母を黄泉の国から呼び出そうと試み、その結果、なぜ私がここに呼び出されることになったのかさ」
「…」
「それは、私がお前の本当の母親だからだろう。血筋や生まれはともかく、呪文はそう告げているのだ」
「なんだって?」
「この現象は、他に解釈のしようがないではないか」
「だけど…」
「呪文は嘘などつかぬぞ。私は呪文の力を信じる。だから参観日には、私がお前の学校へ行ってやろう」
「来てくれるの? 僕はうれしいけれど、何のお礼をすればいい?」
「礼だと? そんなものは要らぬ。お前のような子供から、何が期待できる?」
「魂を捧げるとか?」少し小さな声で少年は言った。
ダッキは目を細めた。
「礼は要らぬ。気にすることはない。では、参観日には私が行くということでよいか?」
「うん」
ダッキは、にんまり笑った。
「さあ、これがその約束の印だ。私がお前の母になるという誓いだ」
そう言ってダッキは、少年の肩を軽くつかんで引き寄せた。
ダッキの唇はやわらかかったけれど、とても冷たかった。
筆者の知る限り、ダッキは約束を守ったようである。
参観日、ある教室に思いがけず現れた長身の美貌の女は、学校内外で長く噂になったほどだからだ。
ただ問題が一つある。
その翌日から、少年が学校へ姿を見せなくなったのだ。もちろん家にもおらず、叔父と伯母は警察へ捜索願を出さなくてはならなかった。
その後、少年の姿を見た者は一人もいない。