第7話

文字数 4,023文字

「雪丸ではないか? どうした?」
 (うずくま)っている背中にアヤツコが声をかけた。

 鳥辺野で雪丸の姿を見かけるのはさして珍しいことではない。
 ここは葬送の地である。
 内野を引き払ってあれ以降ここに住み着いたアヤツコは幾度となく、〝仕事〟でやって来た雪丸と遭遇した。そのまま話し込んだり、共食することも度々である。
 だが、今日の雪丸は様子が違った。
 犬たちが煩く周囲を駆け回っても微動だにせず、地に深く頭を垂れたままだ。
「おい、雪丸? また仕事か? ほほう! 今日の御人は中々上等の(うちぎ)じゃ」
 言ってから、アヤツコも驚いて目を(みは)った。
 雪丸が運んできた死人──鳥辺野の硬い地面に降ろしたままのそれは、秋の一日、伴をして市へ行ったあの姫君ではないか……!
「こ、これは……まさか……花挿(かざ)し姫?」
 アヤツコは叫んだ。
「死んでるのか?」
「死んでいる……死んでしまった……俺が行った時はとうに……死んでいた」
「一体――」
 駆け寄ったアヤツコの前で地面に突っ伏して雪丸は泣き始めた。
「俺は馬鹿だ……大馬鹿野郎だ……!」


 アヤツコがことの顛末を聞き知るにはそれからかなりの時を要した。
 泣きじゃくりながら話す雪丸の言葉を聞き取るのは容易ではなかったのだ。

 市に行った日から数えて八日後、俺は再び姫の邸を訪ねた、と雪丸は語り始めた。
「そして、それが最後となった。
 何故って?
 その日、訪れた俺に姫が告げたからだ。『花神が来るようになった』と」
「花神だと?」
「勿論、俺は確かめたさ。そして、確かにこの目でその花神とやらを確認した。だからこそ、二度と再びあそこへは行くまいと決めたのじゃ。邸から──姫から遠ざかった」
 所詮、自分と姫では住む世界が違う。
 それくらい雪丸だって知っている。
 〈愛人(かよいびと)〉が出来た以上、もう自分など必要ではない、とも悟った。
 だが、同時に安堵もしたのだ。
 もうこれで、姫の行く末は安泰だ。暮らし向きも良くなるだろう。
「それなのに、あの野郎!」
 雪丸は地面に唾を吐いた。
「花挿し姫は餓えと寒さで死んだのだ! 可哀想に、最後には、あんなに打ち込んでいた庭いじりさえ思うに任せないほど弱り果てていたらしい」
 庭の花たちが全部枯れ尽くしていたことを雪丸はアヤツコに教えた。
「し、しかし──乳母殿はどうした? あの気丈なバアさんがついていて、見す見す姫を死なせるなど」
 雪丸は首を振る。
「乳母殿はとっくに──姫より早くくたばったさ」
「え?」
 左女(さめ)の死体は邸の西の対屋(たいのや)で見つけた。
 枕元には雪丸が市で稼いだ鳥目が大切に据え置かれていたから、ひょっとして、姫を連れ出したと二人を叱ったその晩に息絶えたのかも知れない。
「そ、それにしたって──」
 アヤツコは納得しなかった。
「花神は確かに存在(いた)んだろ? そいつ(・・・)は何をしていた? そいつは面倒見てくれなかったのか?」
「姫は捨てられたのさ」
 乾いた声で雪丸は言った。
 その頃にはもう涙は枯れ果てていた。
「貴族の若君何て所詮そんなものだ……」
 連中は何でも、手に入ると思っている。
 気に入った娘を見かけたら、御忍びで訪ねて行って、思い通りにして、満足した後は顧みない。飽きてしまえば、それまで──
 この一年を河原で暮らし、市井(しせい)のあれこれを耳にした雪丸にとってその手の話は驚くに値しない日常茶飯事の出来事だった。
 貴人の若者がそれ相応の礼を尽くすのは同格の貴人の娘たちだけである。
 奔放な恋の幸せな結末は、実は書物の中だけの、まさに夢物語なのだ。
 この時代、貴族の正式な結婚相手はほぼ同族内、縁故者に限られていた。
 寺で書物を読み漁った雪丸は物語にも詳しかったが、あのあまりにも有名な、光源氏が廃屋で見つけた夕顔と恋に落ちる話……
 だが、実は夕顔の父、三位(さんみ)中将はれっきとした光源氏の縁故者、親戚筋である。紫式部とて、身分の掟、その境界線をけっして踏み外しはしなかったのである。
 まして、花挿し姫は何の後ろ盾もない身の上。貴人の若者にとっては気を使う必要のない恰好の遊び相手だった……

「姫はあいつを、夢見た〈花神〉と信じて疑わなかったのに……!」
 花神のことを語った花挿し姫の瞳が忘れられない。
 あんなに嬉しそうに、キラキラと光を燦めかせて話していたっけ。
 (ねや)でも、あの瞳を真っすぐに向けて? 身も心も、全て捧げ尽くしたのだろうな? 
 男の求めるままに?
 雪丸は怒りで体が震えるのを抑えられなかった。
「畜生! 俺に言わせれば、姫自身が〈花神〉だったのに! あまりに清らかで、あまりに美しく、咲き香る以外何も知らなかった……!」
 自分の背に飛び乗って来た姫の肉の柔らかい重みと肌の暖かさを雪丸は必死に思い出すまいとした。
 これ以上、望むべきものは何もない、だと?
 大嘘つきめ!
 あの時、この姫をかっ攫って──
 駆けに駆けて、そして、竹薮の中にでも転がり込んで、自分のものにすれば良かった!
 そうしていれば、姫は今も俺の傍で、生きて、笑っていたろうか?
 清目として、河原の俺の(ねぐら)に一緒に住んで?
 そうしたら、俺は自分の女房殿のために何百、何千の屍骸だって、厭うことなく嬉々として運び続けただろうに。
 それなのに、見ろ!
 ほんのちょっと勇気がなかったばかりに、
 たった一人、
 最も運びたくなか(・・・・・・・・)った人を自ら運ぶ(・・・・・・・・)破目になった(・・・・)のだ……!

 世俗のことを何も知らない姫のことだ。汚れた河原でも花を育てたかも知れないな?
 河原が花畑になることを想像して、つい雪丸は微笑んでしまった。
「濁った波のこちら側、河原で揺れる花の波か、ふふ……」
 勿論、全て有り得ない、夢の如き話である。
 今日、この地まで背負って来た姫は硬く冷たかった。
 とはいえ、姫が事切れたのがそれほど前ではないことを死人を見慣れている雪丸は知っていた。
 知っていればこそ、余計、狂おしい。
 あと一日、せめて半日でも早く、邸を訪れていれば助けられたかもしれない。
「それなのに俺は、くだらない意地を張っていた! 他の男のモノになった姫など知ったことかと! だから、俺が──俺が、見殺しにしたも同然じゃ!」
「雪丸、おまえ、その男――〝花神〟とやらの素性を知っているのか?」
 妙に冴えた声でアヤツコが訊いた。
「勿論じゃ。一目で充分だったさ。なにせ、今、京師(みやこ)でときめく有名な公卿の若君だもの」
 立烏帽子に紫苑の狩衣。二藍の指貫、金襴の沓……
 男はきっと市で花挿し姫に目をつけたのだろう。あの日、雪丸もその公達を雑踏の中に見ている。 ※公達=貴人の若君
「だとしたら……あれもこれも、やはり、全ては俺のせいだ! ああ、本当に、乳母殿の言う通りじゃ! 花挿し姫は邸の外へなど連れ出すべきではなかった……!」
「おい、いい加減にしろ」
 再び泣き崩れた雪丸にアヤツコの意外な声が降って来た。
「いつまでそうやってグズグズしている気だ?」
「何だと?」
「怠けていないで、さっさとと自分の仕事をしろ」
 雪丸はポカンとアヤツコを見た。
 犬字を彫った白い額。この咒文のせいで一瞬、眼前の孤児が真言を伝える神の使者のように見えた。
 いつの間にか鹿子が足下に来て、同じように雪丸を見つめていた。
 ニコリともせずアヤツコは言った。
「姫の居場所はここではないだろ? 
 姫が最も行きたかった場所へ、せめて、今こそ、ちゃんと運んでやれ」
「……俺がか?」
 吃驚して問い返す雪丸にアヤツコはきっぱりと言ってのけた。
「当たり前だ。望んだ処まで死人を運ぶのがおまえの仕事だろうが?」

 ── その通りだった……!

 姫が望んでいたのは鳥辺野(ここ)ではない。
 どうしてそんな大事なことを忘れていたのだろう?


 再び雪丸は花挿し姫を背負った。
 今となっては遥かに遠い気がするあの秋の日のように。
 同じく、アヤツコが頭からふうわりと袿を掛けてやる。
 雪丸は歩き始めた。
 既に陽は落ち、風には灰のような雪が混じっている。
 きっと都に着く頃には夜も深まっているだろう。
 偶々(たまたま)、闇の中で俺たちの姿を目にする人がいたら、その人は何と思うだろう、と雪丸は(いぶか)しんだ。
 賊とも、鬼とも見間違うかも知れない。
 それとも、幸福な恋人たちと?
 その何れもハズレだ。
 賊でも鬼でも、ましてや俺は人でもない。
 背の姫もまた、姫君でも花神でもなく、人ですらない。
 かつてはそうだったが。
 一時(いっとき)はその全てであったが。
 今となってはただの(むくろ)だ。
 結局のところ、自分と姫の関係は、運び、運ばれること。
 この道行だけが、二人の絆……(カタチ)だったのだ。

 ── のう、のう、雪丸、もう一回……

「そうじゃな、姫? もう一回。これが最後じゃ」 

 不思議なことに、歩き出すと雪丸の心は踊った。
 いつまでも、何処までも、こうして歩き続けたいと思った。


          
          *

 今に残る中世古文書には、邸内で人の屍骸が見つかり五体不具穢=触穢と見做され、その邸の貴人が物忌(ものい)みを余儀なくされた記録が余りに多く見いだされる。
 雪丸がこの夜、運んで行って、庭に据えた死骸の件が果たして、その中のどれに当たるのか探し当てるのは困難である。


        《 雪丸ー中世葬送秘話ー  了 》


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