第4話

文字数 2,960文字

 雪丸は知っていた。
 (いち)こそ、当世、身分の貴賎にとらわれず万人が自由に振る舞える場所だった。
 女人なら市女笠(いちめがさ)を被ればそれでいい。もうそれで他から詮索されることはない。
 それが〈市の掟〉なのだ。
 ついでに雪丸には一計があった。
 せっかく今が盛りの美しい花々の幾本かを市で売ってはどうだろう?
 乳母(めのと)殿がああも嘆いていた〝苦しい内情〟の、これは改善になるのではないか?
 流石に自分一人では心許(こころもと)ないのでアヤツコを誘った。
 犬を連れて行ってもいいか、と言う返事。
 姫が怖がるといけないので一匹なら、と言うと、当日、アヤツコは例の(まだら)だけ伴ってやって来た。
 勿論、その日は二人とも小奇麗な格好を意識した。
 手に入る限りで一番上等な装束を身に着けると、雪丸もアヤツコも立派に貴人邸の小舎人(ことねり)か稚児に見えた。アヤツコは萩重(はぎがさね)、雪丸は移菊(うつろいぎく)。示し合わせたように紫が重なった。
 一方、花挿(かざ)し姫は犬を見て大喜びだった。
「可愛いこと! 何と言う名?」
「〝鹿子(かのこ)〟です」
「ええっ!」
 これには雪丸が驚いた。
「犬に名なんてあったのかよ?」
「おまえが聞かなかっただけじゃ」
 アヤツコが澄ました顔で言う。
「だって、おまえ、自分の名(・・・・)すらなかったじゃないか! それを、まさか、犬に名があるとは思わないだろ?」
「馬鹿だなあ、雪丸は! 俺は犬を呼ばなくちゃならないだろうが? 犬の方は俺を呼ばないから俺の名は必要なかったまでさ」
「……そんなもんかよ」


 頃は重陽の節句である。
 京師(みやこ)の東の市で姫の育てた美しい菊の花はアッという間に売り切れた。
 尤も、〝商う〟などという発想のない姫が喜んだのは、儲かることではなくて、初めて目にする市井(しせい)の光景だった。
 雪丸は姫を、アヤツコと鹿子を盾に、花よりずっと奥に潜ませていたのだが、姫は雪丸がハラハラするほど、始終身を乗り出しては道を行く人々を夢中で眺めていた。
 その見開かれた瞳、薄く開けた唇、零れる小さな歯。
 それから──これは多分に庭弄りで陽光を浴びるせいだろうが──やや赤みを帯びた髪。
 母君のものだという莟菊(つぼみきく)の色目の(うちぎ)が何とよく似合ってることか……!
 雪丸自身、笠を下げさせるのも忘れて、そんな姫にうっとりと見蕩れていた。

 

 帰り道。
 行きは花と姫を積んで来た車に、雪丸は花挿し姫を乗せるのを躊躇(ためら)った。
 何故か?
 花がもう全部なくなって、剥き出しの木肌を晒すその荷車に姫だけを乗せるのは痛々しくて心疼いたせいだ。
 世が世なら美々しい牛車に出衣(いだしぎぬ)して乗ったろう御人なのだ。
「良かったら、どうぞ、俺の背に」
 雪丸は(ひざまず)いた。
 姫は微塵も躊躇せずおぶさった。
 アヤツコがふうわりと被衣(かづき)をかけてやる。

 このまま地の果てまで歩きたかった。

 姫は、今まで雪丸が背負った誰よりも軽く、暖かくて、柔らかい。
 香ではなくて、その身に染みついた花の香りが雪丸の(うなじ)(くすぐ)った。
 河原で生まれ、寺で育ち、幸福がどんなものか知らない雪丸だった。
 だから、唯、願ったのは、このまま時が止まればいいということ。それだけ。
 それ以上──
 本当に、誓って、それ以上、望むものは何もない。


 川の(ほとり)で一休みした。
 その川は、平生、雪丸が住んでいるようなあの大きくて澱んだそれではなくて、橋さえ架かっていない細いせせらぎだった。
 喉が渇いたというので、手を結んで水を飲ませてやる。
 姫の唇が雪丸の(てのひら)に当たった。
 清水坂に春、咲き誇る桜の花びらの、あの、有るか無きかの感触に似ていた。
「あ」
 鹿子が水の中へ駆け入った。
 途端、何と、姫も犬を追って流れに跳び込んだ。
 たくし上げた紅袴から覗く白い(すね)(くるぶし)に燦めく雫。

 ── 姫様は世俗のことは何もご存知ない。下々の生業や、まして、汚れた欲望や思惑など……

 雪丸は乳母、左女の言葉を思い出す。
 ああ、本当にな?
 
 雪丸は小石を拾って川面に投げた。
 一つ、二つ、三つ、四つ……
 石は滑って水を切る。
 五つ、六つ、七つ、八つ……
 今日ばかりは、自分の心そのままに、騒ぎ、揺れ、撥ねる飛沫(しぶき)たちだった。
「凄い、雪丸!」
 水の中で袴の裾を抓んだまま姫は雪丸が繰り出す飛沫を見て声を上げて笑った。
 その声が、川が笑っているように雪丸には聞こえた。
 今まで、何百回となく流れに飛礫(つぶて)を投げ込んだけど、川の笑い声を聞いたのは初めてだな?
 さざめいて、揺蕩(たゆた)って……
「凄い、見事じゃなあ! もう一回! のう、のう、雪丸! もう一回……!」


 邸までの最後の道を雪丸はまた姫をおぶって帰った。
 遊び疲れてか、雪丸の肩に頬をつけて姫は寝てしまった。
 横で荷車を引くアヤツコと鹿子の周りに夕焼けの空からトンボの群れが降りて来た。
 アヤツコはトンボが嫌いではなかった。
 泣きじゃくって迷い歩いたあの日も、こいつら(・・・・)は自分に優しかった気がする。
 三人が三人とも満ち足りて幸せだった。

 ところが、邸の門を潜るや、幸福の構図は一変した。
 鳴り響く雷鳴──
 どうやってそこまで這い出して来たものやら。乳母の左女が階隠(はしがく)しに仁王立ちになって少年たちを罵倒した。
「この外道めらっ! 姫様を外へ連れ出すなど(もつ)ての(ほか)じゃ! 許さぬぞ!」
 その恐ろしい剣幕に、姫と、花を売って得た鳥目(ぜに)簀子(すのこ)にそうっと置くと、雪丸はアヤツコを引き摺って後ろも見ずに逃げ出した。




 四、五日して、ほとぼりが冷めた頃、恐る恐る門を潜った雪丸だった。
 幸いにも、乳母の姿は見えず、花挿し姫だけが花畑に立っていた。
 秋もいよいよ深まって、冴え渡る瑠璃色の空の下、光の輪のような花の中に佇む姫は、先日の川縁の姫以上に輝いて見えた。
「雪丸?」
 振り返った姫の頬がほんのりと朱に染まった。
「?」
 今日の姫はどこか違う気がした。
 今までも、美しかったけれど、それ以上の何か──新しく加わった輝きが身内より溢れ出している。
 それが、秋晴れの天空から降る陽射しのせいではないことを雪丸は敏感に感じ取った。
「雪丸? 何故、このところ姿を見せなかった? ずっと待っておったのに」
 花挿し姫は可愛らしい唇を尖らせて雪丸を(なじ)った。
「私はおまえに、どうしても話したいことがあるのじゃ。左女ではだめじゃ。おまえだけ。
 おまえにしか、この思いは明かせぬ」
「姫様──」
 雪丸は天にも昇る心地がした。
 もっと近くへ来い、と姫が手招く。
 雪丸がその通り、顔を寄せると、その耳元へ姫は唇を寄せた。
 桜の花びらのようだったあの唇だ──
「花神に会ったぞ」
「え?」
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