第1話

文字数 1,999文字

 カラランとドアの開く音が店内に響いた。思わずその方を振り向く。
「あの、クリームソーダの看板見て……。あ、やっぱり、失礼します」若い女は急に踵を返して出ていった。
 何が起こったかは、皺の寄った女の眉間を見た時に、大体察した。
「マスター、悪かったね」私は今更とは思いつつも、手に持った煙草を灰皿に押し付けた。
「あなたのではなく、もう、ずっと昔から店に馴染んだ匂いです。せめてここでくらい、落ち着いてご一服ください」まだ若いマスターは穏やかな声でそう言った。
 せめてここくらい、か。見透かされているのだろうか。
 商店街にあるこの喫茶店に通うようになってから、随分長い。同じ商店街のスーパーに勤めていた私は、ここを訪れることも多かった。定年を迎え、週三勤務となった今も、休日の散歩の度に寄っては、ここで日が暮れるまで時間を潰している。
 夫婦仲が悪いというわけではない。だが、急に休みが増えると、落ち着き所がない。家は妻の城だ。妻には妻の築き上げてきたリズムがある。口には出さずとも、お互い変に気を遣いあっていることは、明らかだった。
 だから散歩を装って、こうしてここに来てしまう。いつも奥のテーブル席に腰掛け、煙草をふかす。店内に流れる小粋なジャズに耳を傾けていると、漸く心が安らぐ気がした。今日はテーブル席が満席だったので、久しぶりのカウンター席だ。目の前では、マスターが豆を挽いている。
 だが、ここだって随分と変わった。先代から店を引き継いだまだ若いマスターを見て、そう思った。
 見知った客も多いはずの店だった。ところが、ここ数年で見なくなった人が増えている。理由ははっきりしている。ただ、みんな歳を取った、それだけのことだ。仕事のない日までここにしがみついついるのは、自分くらいかもしれない。
 年季の入った家具たちも、裏までヤニでびっしりの観葉植物も、時代が確かに進んでいることを示していた。俺も変わらなきゃ。それは痛いほどわかっている。
「珈琲のおかわりお持ちしましょうか?」マスターがカウンターの中から声をかけてきた。
「ああ、よろしく頼むよ。なぁ、マスター、ここは改装とかしないのかい。リノベーションして、禁煙にでもしたら、もっと流行るんじゃないか」本当に願ってはいないことを、つい口にしてしまう。だが、それが事実だともわかっていた。先代の孫がマスターになってから、甘味のメニューが増えた。どれもこれも味、見目共に良く、若い人にもウケがよさそうだった。店先に置いた手作りの看板も上々で、人目を引いている。
 この店でもそろそろ自分が老害となりつつあることを感じていた。だが、そんな私にマスターは言った。
「その予定はありません。馴染みの多い店です。あなたが大切に思うものを大事になさい、というのが、先代の教えですから」
 思わず鼻で笑ってしまう。
「俺のようなおっさん大事にしても、何にもなんねえよ」
 そう言うと、マスターは、はたと手を止め、私を見据えた。
「私はあなたがこの街に尽くしたことを忘れてはいません。私は、昔、今まさにあなたが座っている席で、いつも宿題をしていました。その時に聞こえてきた、あなたの語るこの商店街への思いは、間違いなく、私が生涯大切にしたいものの一つです」
 嫌なことを言う。そんな思いなんてもう流行らないと言うのに。昔、この店に来ては、同僚たちとこの街の未来について語り合ったものだった。徹夜で商店街の祭りの準備をして、明朝モーニングを食べに来たこともあった。残業、非番出勤は当たり前だったが、どうしても商店街を潰したくなかった。
 だが、そんな時代は終わった。先日の祭りは週休日だった。だから、いつもの気持ちで勝手に職場を覗きに行った。給料が欲しかったわけではない。だが、その時の周りの冷ややかな視線が忘れられない。労働は契約。それ以上のものではない。
 がむしゃらに働くことも、煙草片手に他者と語らい、一人思索することも、これまで己が誇ってきたものが、悪きものへと変わってゆく。



「すみません。さっきは、少し見栄を張ってしまいました」暫くして、マスターが淹れたての珈琲を私の前に差し出し、静かに言った。
「ここを変えないのは、あなたの為じゃない。私の為です。ここにだけ、私の居場所があるんです。だから、こんな未来のない喫茶店を継いだんです。あなたのような人が、この店から消えて困るのは、この私です。だから、どうぞここでご一服ください」
 その穏やかなマスターの目にどこか切実なところがあったことに、私は驚いた。そして、ああ、きっとマスターにはマスターの人生があるのだ、と思った。
「隙間……。」思わず呟く。
「え?」
「いや、この街の隙間に、俺の居場所はちゃんとあるんだなって」そう言うとマスターは、ふっと口元を緩ませた。
 目の前の珈琲に手を伸ばし、一口啜る。苦い珈琲がうまいと思った。

 
 
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