第2話 まぼろしの薬草

文字数 2,470文字

 さて、このところダラダラと続いた長雨がピタッと止み、久しぶりにお天道さんが顔を出した、ある朝のことでございます。
 ボン太は身支度を整えてから、でっかいカゴをかついで来て言いました。
「ちょっと、向こうの山にまで行ってくら」
 それを聞いて、ウメの眉はたちまち八の字になります。
 というのも、向こうの山というのは傾斜が急な上に足場も悪く、めったに人の寄りつかない、危険きわまりないところなんです。
「そんなとこまで、何しに行くんだい」
 ウメの心配などどこ吹く風で、ボン太は遊びに行く前の子どもみたいな顔をしています。
「ここを通りかかった薬売りに聞いたんだけどな、あの山にはどんな病もコロッと治しちまう薬草が生えてんだってさ。だからちょっくら取ってくんだよ」
 薬売りから聞いたというのは本当ですが、それも刃物を突きつけ、むりやり聞き出したっていうんですから穏やかではありません。
「おや、薬草ならここいらの草でも十分じゃないかい」
「それがからっきし効かねえから行くんだろ」
「でも今日はよしたらどうだい。雨上がりだと土がぬかるんで危ないよ」
「何、パッと取ってすぐ帰ってくるんだから、心配するこたないよ」
 それでもウメは何とかして引き止めようとしましたが、ボン太はまったく聞く耳を持ちません。
 よっぽど薬草を早く手にしたくて、うずうずしてたんでしょうね。
 ウメは何だか胸さわぎがして、だんだんと小さくなるボン太の後ろ姿に、ひたすら手をこすり合わせることしかできなかったということです。

 ……そうしてやっぱり、ウメの悪い予感は当たってしまいました。
 いいことはめったに起こりませんが、悪いことなら、ボン太が悪さばかりしているせいで、向こうの方からホイホイ寄ってくるのかもしれません。
 薬売りの言ったとおり、山にはめずらしい薬草がわんさと生えていて、どっさりと摘み取ったまでは良かったんです。
 けれども、ちょっぴり欲張りすぎたのがいけなかったんでしょうね。
 体の倍ほどもある薬草を背負ったボン太は、ドロドロのぬかるみに足を取られ、少しばかりふらつきます。
 でもそこが切り立った崖の上だったのが運の尽き。
 アッと思ったが最後、薬草もろとも、谷底までまっさかさま!

 地面に打ちつけられるまではほんの一瞬でしたが、ボン太にはそれがやけに長く、ゆっくりと感じられました。
 だからその間、自分の生き様すべてを、ありありあと思い返すことができました。
 楽あれば苦ありのことわざどおり、楽しいこともあれば、苦しいことも確かにあったボン太の人生。
 でも割合にしたら、苦しいことの方がはるかに多く感じられる、みじめな一生でございました。
 まあ、こんなもんだろうというあきらめと、どうしてこうなったのかという悔しさとが、ぼんやりと頭に浮かんでは消え、消えてはまた浮かんできます。
 心残りはただ一つ、ウメのことだけです。
 これからウメを待ち受ける悲しみ、苦しみを思うと、それだけで胸がはりさけそうになります。
「おっかさん、すまねえなあ……」
 かすれ声でそうつぶやいたあと、ボン太は静かに目を閉じて、まっ暗闇の中へと漂っていきました。

 そうして二日たち、三日たち。
 いよいよ心配でならなくなったウメは、病になってからはじめて、となりに住む吾作のところへ出向いていきました。
 ダメになった足を引きずり、はうようにして進むもんですから、ようやく戸口についた頃には、もうボロボロです。
「……あの吾作どん、随分ごぶさたしておりましたのう。とつぜんで悪いが、うちのボン太を知らないかい。こないだ向こうの山へ入ったっきり、戻って来ないんだよ」
 吾作はしばらく見ないうちに、すっかりやつれてしまったウメを見て、心から気の毒に思いましたが、すぐに意地の悪い顔を作って、吐き捨てるように言いました。
「フン、ボン太のやつ、ついにバチが当たったんだ。いくらみんなに頼んだって、探しに行くもんなどあるもんか。婆さんには悪いがな、とっととあきらめるしかねえよ」
 ウメは誰よりも優しく親切だった吾作が、こんなにも変わり果ててしまったのを見て、相手を悪く思うどころか、すぐさま手をつき、平謝りにあやまりました。
 ボン太がこれまでに、どれほどひどいことをしてきたのか、おぼろげながらも一瞬にして感じ取ったんでしょう。
「吾作どん、すまなかったねえ。私がこんな体になったばっかりに、ボン太がえらい迷惑をかけていたとは知らなんだ。どうか、この婆に免じて、許しておくれ」
 小さい体をさらに小さくするウメに、奥の方で聞いておりました吾作の嫁さんが、たまらず駆け寄ってまいりいます。
「ウメ婆さん、頭を上げてよ。そりゃ今までさんざんな目にあわされたけど、ボン太が死んだとなったら、もううらみっこなしさ。これからは私らでちゃんとお世話するから、どうか安心しておくれよ」

 吾作の嫁さんは、長いことウメの様子を見に行かなかった自分を責めました。
 何せ、ちょっとでも小屋に近づこうもんなら、ボン太が鬼みたいな顔をしてにらみつけてくるんですから、とてもじゃありませんが立ち寄ることなどできなかったんです。
 でもこうして、ウメのあわれな姿を見たあとでは、なぜああまでして、ボン太が人を遠ざけようとしたのかが、わかるような気がしました。
 とはいえ、わかったところで、何がどうなるもんでもありません。
 吾作の嫁さんは、ただ骨と皮だけになったウメの背中を、優しくなでさすることしかできませんでした。

 そのあと、吾作に背負われ小屋に帰りついたウメは、心の中がからっぽになったような気がして、いつまでもぼんやりとくずれかけた土壁をながめておりました。
 涙はとめどなく流れ落ちましたが、ついにはそれも枯れ果て、刺すような悲しみだけが、せんべい布団に染み込んでいきます。
 すぐにでもボン太の元へ駆け寄ってやりたいのに、それすらできない自分の体がうらめしく、なさけなく……、病になってからはじめて、病に負けてしまいそうになるわが身のはかなさを知るのでした。
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