第2話

文字数 9,828文字

 好美さんは毎晩私の部屋のベッドの隣に布団を敷いて寝た。布団はお客さん用のものをお母さんがあらかじめ用意してくれていた。始めの夜はなんだか緊張してうまく眠れなかった。好美さんは布団の真ん中に座って、ぶつぶつと何かをつぶやいていた。「電気消していい?」と私が訊くと、じろりとこちらを睨んで、「好きにしたらええ」とどすの()いた声で言った。「なにしろあんたの部屋だからな」

 私は怯えて電気を消した。

 でも一度真っ暗になってしまうと、なぜか不思議といつもよりもリラックスできたようだった。最初の夜こそ慣れないせいで、変な汗をかいて夜中に目覚めたりはしたが――好美さんはほとんど死んだようにごく小さな呼吸音を立てて、ぐっすりと眠っていた――翌日以降は、むしろ今までよりもしっかりと深い眠りに就くことができた。私はたとえば学校で嫌なことがあったりすると(友達と喧嘩したり、先生に怒られたり、(ひざ)()りむいたり、エトセトラ、エトセトラ・・・)、くよくよと思い悩んで、あまり眠れないことが多かったのだが、好美さんがやって来てからはそんなことはぱたりとなくなった。この人には不思議な力があるのかもしれない、とだんだん私は思うようになった。ただの気味の悪いおばさん(おばあさん)というだけではないのだ。

 好美さんが、私が学校に行っている間何をしているのかはずっと謎だったのだけれど、ある日そのヒントのようなものを目にした。私はその日無性にお絵描きがしたくなって、以前お母さんに買ってもらっていた大きなスケッチブックを探していた。でもどこにもない。あったはずの場所からは忽然(こつぜん)と姿を消している。お母さんに訊いてみると、「あら、さっき好美さんが持っていたわよ」とのことだった。そこで彼女に訊いてみると、なんと! いつも寝ている布団の下に隠してあった。にやにやと笑いながら彼女はそれを取り出し、何ページか見せてくれた。

「これは・・・」と私は言って、そこに描いてあったものに目を奪われてしまった。

 それは奇妙な模様だった。ものすごく細かい、鉛筆で描かれた模様。まるで絨毯(じゅうたん)の模様みたい、と私は思ったのだけれど、それは全部この好美さんが手書きで描いたものだった。それは正直美しい、というわけではなかった。どちらかというと気味の悪いものだ。私は背筋がぞっとしたのを覚えている。でも怖いだけではなかった。そこにはなぜか私の心を魅了するものがあったのだ。一つ一つの模様は、花を思わせるものがあったり、謎のトゲトゲみたいなものがあったり、人の顔に似ているやつもあったけれど、それほど意味はないと思う。でもそれらが執拗に重ね合わされると、異常なほどの迫力が生まれることになる。あるいはそれが機械で作られたような、まったく同じ形の反復ではなかったことも大きかったのかもしれない。好美さんの手の微妙な

が、私の心をそのまま動かしていた。ずっと見ていると、なんだか高いところにいるみたいにめまいがした。「これって、何を意味しているの?」としばらくして私は彼女に訊いた。

「何って」と相変わらずにやにやしながら彼女は言った。「なんでもないさ。ただ描きたくなったから描いただけなんだよ」

 まあ要するにそれが彼女が家でやっていたことの一部である。


 ほかにはごくまれに部屋の掃除をしてくれることがあった。窓がピカピカに磨かれていたり、床に雑巾がかけられた跡があったりした。でもそのあとは決まって私の持ち物の位置が変わっているのだった。ペン立てが普段と違うところにあったり、算数の教科書だけがなぜか台所に置かれていたりもした。靴下が片方なくなり、卓上ライトの位置が左右逆になり、小さい頃に使っていたおもちゃが――ずっと()くしていたのだけれど――突然床の上に直立していた。かと思うとお母さんのブラジャーがなぜか私の学習机の中にしまってあった。そういうとき決まって私は好美さんに文句を言うのだけれど、彼女はまったく取り合おうとはしなかった。「フォッフォ。いいじゃないか。いいじゃないか。物なんてどこにあったって」

 そう言われるとなぜか私にもそう思えてくるのだから不思議なものだ。


 そのようにして彼女は我が物顔で私の家族の一員になった。不思議なことに――あるいは全然不思議ではないのかもしれないけれど――お父さんとお母さんは、ほとんど好美さんと話というものをしなかった。その存在を認めてはいるのだけれど――ほら、好美さんにもお菓子をあげなさい、好美さんの肩を揉んでやったらいいんじゃないか?――ごく普通の大人同士のように会話を交わしたりはしない。彼女の(うち)における役割は、どうやら私の友だち兼罪のないペットといったあたりらしかった。そして実のところ、私自身もだんだんそう思い始めていた。

 ある日彼女に訊ねたことがある。「ねえ、どうして好美さんの右目は本当の目じゃないの?」

「フォッフォ」と言って彼女は笑った。その日彼女は私の服を着ていた。サイズはかなり小さいのだけれど、自分の着ていた服を洗濯しているから仕方がないのだった。彼女がフリルの付いた洋服を着ている様を見ると、私はちょっと噴き出しそうになった。でもそれは礼儀としてあんまり正しくないような気がしたから、なんとか我慢しておいた。私のズボンのお尻の部分はパンパンに膨れ上がっていた。いつも甘いものばかり食べているせいだ。でも彼女は全然そのことを反省したりはしない。実際好美さんはいつも自信満々なのだ。

「本当の目はね」と彼女は意味(しん)な表情を浮かべて言った。「悪魔にあげたんだよ。それで代わりにこれをもらった」

「悪魔に?」と私は言った。好美さんが変なことを言うのには慣れていたのだけれど、本当に悪魔がいるのだとは思えない。これも例の不思議なお話の一部なのだろうか?

「悪魔って本当にいるの?」

「いるさ」と彼女は確信に満ちた口調で言った。「あたしはこの目でそれを見たがね。なかなか良い男だったよ。まあ女の姿をしていることもあるがな」

「どっちなの? 本当は?」と私は訊いた。

「どっちでもあるんだ」と彼女は言った。「だから悪魔なのさ。そのときの気分次第で男にも女にもなれる」

「角は生えていた?」

「もちろん」と彼女は言って両手の人差し指をちょうど頭の上のところに突き立てた。「こんな風にね。あたしは立派な角ですね、って言ったんだよ」

「そしたら?」

「そしたらね、欲しけりゃくれてやるよ、って言うんだ」

「もらったの?」

「いいんや」と言って首を振った。その二重(あご)が細かく震えるのが分かった。「そんなもの欲しくはないさ。あんたは欲しいかね?」

 私は首を振った。たぶんそんなもの欲しくはないと思う。

「フォッフォ。そうだろう、そうだろう。誰も悪魔の角なんか欲しくはないさ。そんなものあったってみんなに嫌われるだけだからな。でもまあそれはそれとしてだな、あたしは悪魔にあるお願いがあったんだ。それを聞いてもらいたくて悪魔のところに行ったのさ」

「お願いって?」と私は訊いた。

「フォッフォ。それはね、父親を殺してほしい、ということさ」

 私はビクッと身を震わせた。父親を殺してほしい? 「それは・・・どうして?」

「フォッフォ。あたしの父親はあんたのお父さんみたいに優しい人じゃなかったのさ。いつも酒を飲んで、お母さんを殴っていた。あたしもよく殴られた。仕事もしないでのらくらしていた。そういうどうしようもない奴だったんだ。あたしは早くこいつが死んじまえばいいのにな、といつも思っていた。それで自分で調べてね、悪魔に頼むことに決めたのさ」

「それで?」と私は少々怯えながらも、同時に興味を惹かれながら言った。「どうなったの?」

「悪魔は願いを聞いてくれたさ。なんだ。そんなことなら朝飯前だとね。でもその代わりにあたしの目が欲しいってさ。そう言うんだよ」

「それであげたの?」

「まあね」と彼女は言って、空中の一点を睨んだ。もちろん残っている方の左目で、だ。右側の目はあさっての方向を向いている。それは不思議な魔力を持っているように、私には見える。「もちろんあたしだって目は惜しかったさ。でもね。このままだと自分が死んじまうかもしれないと思った。もし生き残ったとしても、大事なものが奪われてしまうとね。だからできるだけ早いうちに父親に死んでほしかったんだ。それでまあ、右目をあげたってわけさ」

「痛くなかった?」

「そりゃあもちろん痛かったさ。目ん玉をえぐり取られるんだから。ちょっと想像してみなよ」

 私はそんなこと想像なんてしたくもなかったのだけれど、そう言われると想像しないわけにはいかなかった。悪魔に右目をえぐり取られる。きっと麻酔なんてものもなかったはずだ。ああ。痛いに決まっている・・・。

「でもね、心の痛みに比べればそんなのは(たい)したことじゃなかったのさ。あたしはそれに耐えたし、悪魔は約束を果たしてくれた」

「お父さんは死んじゃったの?」

「正確には事故で死んだのさ。悪魔に会った一月(ひとつき)後くらいかな・・・。酔っぱらって駅のホームから落っこちて、電車に()かれて死んだ。最後まで他人に迷惑をかけて死んだわけだ。まあいずれにせよ、母親とあたしはそれでようやくほっと一息つくことができた。お母さんはそのあと別の男と再婚したが、あたしはそのすぐあとに家を出た。そしてずっと一人で生きてきたのさ。まあたまにこうして人の家にやっかいになることはあったがな」

 私はその話を聞きながら、ずっと彼女の右目を見ていた。生命を持たない、ガラスの球。それを見ていると、なんだか義眼も悪くないかもしれないな、と思えてくるから不思議なものだ。「それは悪魔から代わりにもらったんだっけ?」と私は訊いた。

「まあそうだ」と彼女は言った。「これは不思議な目なんだと奴は言っていたな。もちろんなんにも見えないが、

を見ることができる、とな」

「見えないことを見る?」と私は言った。「それは・・・どういうこと?」

「あたしにも分からんね」と彼女は言ってフォッフォと笑った。「それは

、というのとは違っているからだ。見えない

を見る、ということなのかな・・・。まあなんにせよ、あたしはこの目が好きになったし、それはたぶんあんたも同じことだろう。だっていつもこの目を見ているからな」

 私は頷いた。「なんだか素敵な目だな、って思ったの。最初はびっくりしたけど」

「あんたなら分かると思っとったさ。普通の人間はただ気味悪がって、逃げ出すだけだからな」

「好美さんは結婚しなかったの?」

「しなかったさ」と彼女は言った。そしてフォッフォと笑った。「男なんてみんなろくでもなしさ。あんたも成長すれば分かる。みんな、例外なくろくでもなしなんだ」

「私のお父さんも?」

「ハッハ」と彼女は言って笑った。「痛いところを突くね。でもそうだ。あんたのお父さんもろくでもなしだ」


 好美さんは知らぬ間に私にとって欠かせない存在となっていった。たとえば学校で嫌なことがあって、でもその嫌な感じを全然お母さんに理解してもらえなくて、部屋で一人で泣きたいような気分のときに、よしよしと言って(なぐさ)めてくれたりした。彼女の身体は大きくて、温かかった。その(しわ)の寄った手に撫でられると、不思議といろんなことは本当は全然大したことじゃないんだ、と感じられるようになった。それでしばらくそうやって彼女の胸に顔をうずめていたあと、私は元通りに――あるいは元よりも強くなって――日常生活に復帰するのだ。私はそれを自分の中で「充電」と名付けていた。好美さんは私にとっての電源のような存在だったのだ。

 彼女が私の部屋にいた間、私の心は比較的安定していたと思う。それはいわば、思春期前の(なぎ)のような時期だった。子どもらしい世界観がもうすぐそこで終わりを告げようとしていることを私は感じ取っていた。もちろん当時にはそれが何を意味しているのかなんて理解できなかったわけだが。それでもその――いわば大変動の――手前にいて、私は子ども時代の最後の日々を楽しんでいた。友達と他愛のないおしゃべりをしたり、外を元気に走り回ったりした。男の子についての噂話も交換した。それでもいつも好美さんの気配は私の中にあった。物理的に離れているときでさえ、彼女はずっと私のことを見守ってくれているのだ、というたしかな予感のようなものがあった。ああ、今もし好美さんがいたら一体何と言うだろうな、と(こと)あるごとに私は思った。きっとフォッフォと笑って、そんなのは大したことじゃありゃせん、とか言うんだろうな・・・(そう。ある意味では私は、好美さんの目を通して世界を眺めることを学んでいたのだ)。そしてそういった想像をしていると、大抵のことは難なくやり過ごすことができた。私は自分が前よりも少しだけ強くなったような気がした。世界は瑞々(みずみず)しくて、生命力に満ちていた。私はそこに存在した透明な空気を肺一杯に吸い込み、ただ生きていた。それはたぶん子どもだけが享受できる生命の(よろこ)びだったのだと思う。

 もっとも好美さんがいたことで、私の中の両親の位置付けは、以前とはちょっと違ったものになりつつあった。それまでは彼らの言うことは絶対だった。たまに反抗することはあったとしても、そんなのはただの

に過ぎなかった。結局何を言ったところで――あるいは何をやったところで――最終的には彼らに従わなければならないのだ、と私は観念していた。そしてそのことを当たり前だと思っていた。この人たちは私の守護者なのだ、と。

 でも好美さん、という奇妙なファクターが現れたせいで、私の世界観は少し複雑さを増したようだった。両親の言うことは必ずしもいつも正しいというわけではないのかもしれない、と私は思い始めていた。たとえばお母さんの視線は、私を居心地悪くさせた。彼女はいつも落ち着かなかった。テレビを観ていても、家事をしていても、なんだかそわそわとして、なんでもないようなことに怒ることがあった。かと思うと、突然すごく私のことを甘やかす。一人でテレビを観ながらお父さんの帰りを待っているときの彼女の顔が私は嫌いだった。なんだかぼおっとして、生気がないのだ。私が何を言っても(なま)返事しか返ってこない。宿題をしなさい、とかそういうことは言われるけど、それ以外に面白い反応はない。好美さんと会ってから、私はお母さんのことを少しだけ客観的に眺めることができるようになったのだと思う。お母さんは心に穴のようなものを抱えているのではないだろうか、と私は思い始めていた。そしてその穴が、彼女の中のいろんな大事なものを、残らず吸い取ってしまうのではないか、と。

 部屋に戻って好美さんにそう言うと、彼女はフォッフォっと笑った。そして言うのだった。「あんたはさすがだね。きちんとものごとを見ている。でもだね、穴を抱えているのはなにもあんたのお母さんだけじゃないのさ。みんなそうなんだ。みんな心の真ん中に空虚な穴を抱えているのさ」

「好美さんも?」と私は訊いた。

さ」と彼女は言った。

「私も?」

さ」

 私は自分の胸を見る。でもそこに穴が開いているようには見えない。

「穴はね」とそれを見て彼女は言った。「いつも本人には見えないところに隠されているのさ。だから見ようとしても無駄だよ。たとえ鏡を見たとしても、だね」

「じゃあどうすればいいの?」と私は心配になって訊いた。

「どうする必要もないさ」と彼女は言った。「ただその存在を感じ取っていればいい。心のどこかでね。見る必要はないさ。全然ない。でもだね。逃げてはいけない。なぜかというとだね、永遠に逃げられっこないからさ。どうしたって無理なんだ。なぜならそれはあんたの一部だからだ」

「私の?」

「そうさ」と彼女は言って深く頷いた。「正確にいえば

穴の一部なんだけどな。まあいいや、そんなことは。とにかくだね、あんたが覚えておくべきことは、みんながそれを持っているってことさ。だからあんまり腹を立てちゃいけない。それよりもむしろ、自分の穴のことを考えた方がずっとましだってことだね」

「分かった」と私は言った。「もう腹を立てたりしないようにする。誰にも」

 フォッフォ、と好美さんはそれを聞いて笑った。「なにもそこまでは求めていないさ。怒りたいときは怒ればいいんだ。泣きたいときは泣けばいいのさ。人の目なんか気にせずにね。そうしているうちに、自然に自分というものができあがってくる」

「好美さんも泣いたりしたの?」

「フォッフォ。そりゃあ泣いたさ。毎晩泣いていた。若い頃はね。なんで自分はこんなに不幸なんだろう、といつも思っていた。でもそうこうしているうちにね、ちょっとずつ強くなったのさ。(かかと)が硬くなっていくみたいにね。ほら、触ってみな」

 好美さんはそこで私に向けて足をピンと伸ばした(それでも短かったのだけれど)。その踵はたしかにカチンカチンだった。まるで石みたいに。

「石みたいだね」と私はびっくりして言った。

「あんたも頑張ればこんな風になれるさ」と彼女は言った。「そのためにはいっぱいいろんな経験をしなくちゃならないけどな」

「私も頑張るよ」と私は言った。そしてためしに自分の踵を触ってみた。それはまだふにゃふにゃだった。傷一つない。

「いっぱい飯を食って、長生きするんだよ」と彼女は言った。「そのうち何かが見えてくるからさ」

「何かって何?」

「それは見えてからのお楽しみさ。フォッフォ」


 もっとも三十二歳になった今でも、彼女の言った本当の意味はまだ理解できずにいる。一人目の子どもが生まれたとき、なぜか一番最初に考えたのは、好美さんなら一体何と言うだろうな、ということだった。皮肉屋の彼女のことだから、そのまま真っ正直に「おめでとう」とは言わないだろう。「あらあら、生まれちゃったか。まったく仕方がないね。これから時間をかけて不幸になるんだよ。そして最後の最後に、何かを見るんだよ」とか。

 彼女がその義眼で何を見ていたのか、私にはいまだに分からない。「見えないことを見る」とそういえば彼女は言っていた。私は夫のことが好きだ。少々頼りないところもあるけれど、そういうところも含めて彼のことを愛していると思う。二人の子どもたちも目に入れても痛くないくらい可愛い。それは完璧な事実だと思う。それでもなぜか、私の心の中には好美さんだけの場所があって、そこを埋める存在はいまだに現れていない。私はときどき目をつぶり、意識を集中して、「見えないことを見よう」と努める。というか少なくともそれがどういったことなのか頑張って想像してみる。きっと他人が見ようともしないものごとに、

目を向ける、といった種類のことだと思うのだけれど・・・。

 でもそんなことをしていると、突然どこかから例の「フォッフォッフォ」という笑い声が聞こえてくる。私ははっとして目を開ける。それは真夜中の台所で、夫も子どももみんな寝入っている。誰かが声を出したりすることは――まあ寝言は別にして――あり得ない。でも私はたしかにあの笑い声を聞いたのだ。間違いなく好美さんの笑い声だ。彼女はまだこのあたりにいるのだ。

 私はきょろきょろとあたりを見回す。しんと静まり返った部屋の中は、(よど)んだ空気に満たされている。そのとき私は、自分が一種の(ふくろ)小路(こうじ)にいることを悟った。それまで自分の人生は、それなりに順調に流れているのだと思っていた。結婚をして、子どもを育てる。幸せな家庭・・・。でもそれは一種のフィクションだったのだ。いうなればおとぎ話だ。好美さんの声がそれを教えてくれていた。

、とどこかで彼女が言っている声が聞こえる。



 私は穴のことを考えようとする。私の心の中心に開いた、真っ黒な穴のことを。その奥に何があるのかは、私自身にさえ分からない。私はひどく孤独だ。家族がいてもなお孤独なのだ。きっと誰にもこの感じを理解することなどできないだろう。夫には百年かかっても無理だ。私はたった一人でここにいる。地球上の、この一点に存在している。

、と私は自分に対して言う。

、と。

 

、とどこかで好美さんが笑っている。

 と。

 私は自分の踵を触る。もちろんそれは子ども時代よりは硬くなっている。私は私なりに、いろんな経験をしてきたのだ。たくさん傷ついたし、たくさん泣いた。でもそのたびにちょっとずつ強くなってきた。

 好美さん、私はもう少し頑張らないといけないみたいだ、と私は思う。もっと強くならなければ、たぶん穴に打ち勝つことはできないと思う。私はいつも逃げている。考えてみればあの頃からずっと逃げていたのだと思う。ただ好美さんがそばにいたときだけ、勇気を持つことができた。私は今一人でいて、誰にも理解されずにいる。好美さん。あなたはきっとすごく孤独だったんだよね。今ではそれが分かる。あなたはたった一人で、世界の闇のようなものと向き合っていたんだ。勇敢な好美さん。私はあるいは、今その資格を引き継ごうとしているのかもしれない。でも私にそれができるだろうか?

 

、とどこかで誰かが笑う声が聞こえた。

、とその人物は言っていた。

使  




 好美さんの最期はあっけなかった。ある朝目を覚ますと、顔面蒼白になり、呼吸を止めていた。目が半開きになっていた。私は何度か彼女の顔を叩き、何の反応もないことをたしかめたあとで、お母さんに報告に行った。心臓がドキドキと高鳴っていた。「好美さんが死んじゃったかもしれない!」と私は朝食の準備をしていた母親に言った。

「好美さん?」と不思議そうに言って、彼女はこちらを見た。私はぐずぐずしているのが嫌だったので、彼女の手を引いて、自分の部屋へと上がっていった。実際にあの様子を見れば、お母さんだってそう冷静でもいられなくなるだろう。なにしろ好美さんはもう歳なのだ。いつ何が起こっても不思議ではない。

 でも部屋のドアを開けたとき、私は目を疑ってしまった。彼女がいたはずの布団にはなんにもなかったのだ。ただ人型のへこみだけが、シーツの上にぽつんと残されている。

「だあれ好美さんって」とお母さんは言った。「きっと夢を見ていたのね。お客さん用の布団なんか持ち込んで。よく一人で運んだわね」

 私は茫然としてその場に立ち尽くしていた。今までの彼女との記憶が走馬灯のように駆け巡った。だとすると、あれは全部夢だったのだろうか? こんなに心を通わせた――ように思えた――二人の関係が、こんなにもあっけなく消えてしまうものだろうか?

 でもそのあとで、私は紛れもない証拠を発見した。それは例の義眼だった。布団のずっと奥の方にそれは隠されていた。丸くて、透明な、「見えないことを見る」目。それはまさに好美さんそのもののように私には見えた。私はそれを大事にしまっておいた。宝箱の一番隅の方に。あれから二十年以上経った今でも、それは誰にも見せずにしまってある。私はときどきそれを取り出し、じっと奥を覗く。時折瞳がピクリと動いたように見えることもある。でもきっと気のせいだろう。動いたのは義眼ではなく、そこに映った私自身だったのだと思う。

生きている私。そして

死んでいる私。私は私ではない。でも同時に私でもある。あとのことは、またあとのことさ・・・。

 ちなみに彼女が消えてしまった翌日に初潮(しょちょう)がやって来た。そのあたりから胸も膨らんできた。あるいはそんなことには特に因果関係はないのかもしれないけれど、とりあえず。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み