第1話

文字数 7,689文字

「家族」というと、私はいつも好美(よしみ)さんのことを思い浮かべる。

 もっとも好美さんは正確には家族の一員ではなかった。清潔な郊外住宅地に暮らす核家族の中において、彼女の占める位置は、ちょうど大型犬と、親戚のおばさんの間くらいだったのではないか、と私は思う。彼女は当時六十代の後半で――それもたぶん、というくらいの曖昧(あいまい)なものでしかないのだが――私は十歳から十一歳になろうとする頃だった。彼女と一緒に暮らしていたのはせいぜい一年半くらいの期間に過ぎない。それでも彼女の記憶は、こうして三十二歳になって、二児の母になったあとでも、まだしっかりと残り続けている。まるで原型的な何かの象徴みたいに。

 彼女がやって来たのは突然だった。私には兄弟がいなかったから、当時いささか寂しい思いをしていたことを覚えている。同級生たちの中で一人っ子はむしろ少数派だった。十歳にもなれば一人で遊ぶことにもずいぶん慣れてはくるのだが、それでもよく頭の中で兄や弟や――あるいは姉や妹がいたら――こんな遊びをするのにな、と思い巡らしていたものだった。私が一番欲しかったのは兄だったのだが、今からそんなものを求めてももちろん手に入るわけではない。私にはそれがよく分かっていたから、とりあえずは弟か妹で我慢しておいた。そして(こと)あるごとに、どうしてお母さんにはもう一人赤ちゃんができないの、とそういったことばかり訊いていた気がする。部屋の中でおままごとをするときなんかは、勝手に想像上の弟――あるいは妹――に指図(さしず)して、一緒に遊んだものだった。彼らは夢のように可愛く、いつも私の言うとおり動いた。そして寂しくなると両腕を私の身体にまわし、顔を私の胸にうずめた。それは素晴らしい想像だった。

 しかしある日突然やって来たのは弟でも妹でもなく、(ひたい)(しわ)の寄った、脚の悪い、少々太り気味のおばさん――おばあさん――に過ぎなかった。好美(よしみ)さんが一体どういった経緯でやって来ることになったのか私にはさっぱり理解できない。ある日突然やって来た、としか言いようがないのだ。ある朝起きて朝食の席に着くと、まったく何食わぬ顔で彼女はテーブルの一画を占めていた。そして実によく食べた。私の分のリンゴまで勝手に食べてしまったくらいだ。そしてカフェオレに砂糖をどっさり入れた。私は目を丸くしてそれを眺めていた。

「今日から好美さんと一緒に暮らすことになったから」とお父さんが新聞を読みながらなんでもなさそうに言った。「君の部屋に布団を敷いて寝てもらうことになるからな」

 私は驚きのあまり何を言うこともできなかった。横目で見てみたが、好美さん本人は何一つ言わない。ただモグモグと食べ続けている。と、そのとき右の目が()(がん)であることに気付いた。それはまったく動かなかったのだ。私は怯えて固まってしまった。私は兄弟が欲しかったのに! こんな変なおばさん――おばあさん――なんて欲しくない!

 それを見てお母さんは言った。「ほらほら、早く食べちゃいなさい。そうしないと全部好美さんが食べちゃうわよ」

 でもそう言い終わるか終わらないかといううちに、彼女は勝手に私のトーストを取り上げてしまった。そしてあっという間に平らげた。まるで手品を見ているみたいだ、と私は思った。

「ほら、言ったじゃないか」とお父さんがさほど関心もなさそうに言った。「ああ、株価がだいぶ下落しているな・・・」

「明日は雨が降るってよ」とお母さんがテレビを観ながら言った。

 好美さんはその甘ったるいカフェオレで胃の中のものをさらに奥へと流し込み、そして一度げっぷをした。火山の奥底から湧き上がってくる悪魔の吐息(といき)みたいなげっぷだった。彼女は舌でカフェオレの泡を(ぬぐ)い取り、そして一度私の方をちらりと見た。私は固まったまま何一つ言うことができなかった。


 好美さんは脚が悪いのに、二階の私の部屋を本拠地にしていた。よっこらしょ、と言いながら食事のたびに下に()りてきた。トイレは二階にもあったから、そちらの方はとりあえずは大丈夫みたいだった。ごくまれに外に出るときは、古い押し車を使った。カタカタカタカタ、というその音を私はまだ覚えている。彼女が散歩をするときは私が付いていくのが通例だった。「ほら、車に()かれたりしたら危ないじゃない」とお母さんは言った。

 とっとと車に轢かれてしまえばいいのにな、と当初思っていたことは嘘ではない。きっと近所の人にじろじろ見られるだろうな、と思ったのだ。でも不思議なことに、好美さんのことを見ても、誰も何も言わなかった。彼女はまるで――こんな言い方が正しいのかは分からなかったけれど――一匹の大型犬みたいに、人々の目には映っているみたいだった。彼女は誰にも挨拶をしなかったし、世間話もしなかった。どこにも友達というものがいないみたいだった。

 学校から帰ってくると、彼女は私の部屋で何かをしていた。私は一人で遊ぶのに慣れていたから、始めのうちどうしたらいいのか分からなかった。それで居間に下りていってずっとテレビを観ていた。でもだんだんそれも居心地が悪くなって、無理矢理自分を部屋に連れ戻した。好美さんには友達がいないのだ、と私は思った。私が遊んであげなくちゃ。

「ねえ、何かして遊ぶ?」と私は恐る恐る彼女に訊く。すると彼女はこう言うのだった。「いや、あたしは遊びたくなんかないね。なにしろ人生は短いからな。フォッフォ」と。

 その代わり彼女はいろんな話を聞かせてくれた。そのどれもが奇妙で、大体が突然終わるものだった。学校で読むような話とは全然違っている。今思えば子どもに聞かせるべきでないような話も多くあった。残酷なものとか。セクシュアルなものとか。でもその語り口が巧妙で、迫力に満ちていたため、私は思わず引き込まれてしまった。彼女が話した『王子様の話』というのを私は今でもよく覚えている。

「昔々、あるところに王子様がいました。若くて、綺麗な肌をした王子様で、たくさんの女たちに好かれていました。王子様は父親の王様に、そのうちの誰と結婚しても構わないと言われていました。でも王子様はそのどの女のことも好きにはなれませんでした。王子様が好きだったのは魚だったのです」

「魚?」と私は訊いた。

「フォッフォ。そうだよ。魚だ。その王子様は魚が何よりも好きだったんだ。人間の女になんて興味がなかったんだ。

 王子様はある日海に飛び込んでみました。なにしろ魚に会いたかったからです。彼は深く深く潜り、いろんな魚たちに会いました。それはとても素敵な気分でした。息が続くギリギリのところまで潜ると、とても綺麗な魚がいました。手のひらくらいの大きさの、黄色と赤と緑の、鮮やかな魚です。王子様はその魚に見惚(みと)れてしまいました。息ができなくて苦しいのも忘れてしまうくらい。そのとき魚が言いました。『王子様私と結婚してくれる?』と。

 王子様は頷きました。ブクブク・・・。

 魚は言いました。『もし結婚したいなら、これから毎晩ここまで潜ってきてね。百日間毎日やって来たら、あなたは魚になれるわ』と。

 王子様は言い付けどおり毎晩真夜中に海に飛び込んでそこにやって来ました。誰にも見つからないように、変装をして、海までやって来るのです。毎日毎日、雨の日も、風の日も、凍えるように寒い日も、彼はやって来ました。そしてざぶんと飛び込んで、その魚のところにやって来るのです。夜は暗くてよく見えなかったのですが、そこにその魚がいることは分かりました(水の振動で分かったのです)。彼女はヒラヒラと泳ぎ、彼にちょっとしたことを教えてくれるのでした。たとえばどんな風に手を動かしたらスムーズに泳げるのか、とか。海の神様はひどく怒りっぽいのだ、とか。

 毎日やって来ているうちに、王子様は泳ぎが誰よりもうまくなっていました。その魚以外の海の生き物たちとも仲良くなりました。ワカメとか、ヒトデとか、珊瑚(さんご)(しょう)とか、そういうものともね。王子様は次第に地上よりも海にいる方が楽しくなってきました。

 そんなときに反乱が起きて、王様はその鎮圧に乗り出さなくてはならなくなりました。王子様も軍隊を与えられて、ある地方に派遣されることになりました。『お前は正直そこにいるだけでよろしい』と王様は威厳に満ちた声で言いました。『お前は余計なことをしなくていいんだ。実際のところは将軍に任せてある。ただそこにいるだけで兵士たちが元気づけられるんだ。いいか? できるだけ威厳に満ちた話し方をするのだぞ、と』

 王子様はその話をはいはい、と大人しく聞いていましたが、心の中では例の魚のことばかり考えていました。あと十日行けば、百日になるところだったのです。俺はこんな大事な時期に、反乱の鎮圧なんてしたくない。あと十日なのだ。あと十日行けば、俺はあの魚と結婚できるのだ。

 王子様は出発する振りをして、途中でこっそりと抜け出しました。側近中の側近に命じて、自分に似た百姓の青年を選び出し、影武者にするように言い付けました。その側近は実は王子様が毎晩どこかに抜け出しているのを知っていたので、ははあ、これはきっと女のことだな、と思いました。それでも意義を唱えたりはせず、ただ言われたとおりにします、と答えるに留めました。

 青年は漁師に(ふん)し、海辺の街に滞在しながら、毎晩海に通いました。その間反乱は激しさを増し、やがて王子様が(ひき)いることになっていた軍が負けてしまいました。王子様の影武者も殺された、ということでした。それでも王子様本人はどうでもいいや、と思っていました。あと三日だ、と彼は思っていました。あと三日で俺は魚になれる、と。

 でも最後の日の前の日に、とうとう王様が反乱軍に捕まってしまいました。王様はその翌日に処刑されることになっていました。民衆を弾圧して、豪勢な生活を送ったことの報いだ、と言われていました。王子様のお母さんの王妃も捕まっていました。王子様はその夜海に行って、例の魚に言いました。『明日お父さんが殺されることになっている。でも僕はやっぱりここに来るだろう。お父さんもお母さんも、普段のおこないが悪かったのさ。一般市民を弾圧して、税金ばかり取って、自分たちは豪勢に暮らしていたのだもの。その報いを受けるのは当然だよ』

 ちなみに彼は長くここに通ったおかげで、水の中でもしゃべれるようになっていたのでした。

『でもあなたはご両親がいたから今まで生きてこられたんでしょ?』と例の魚は言いました。『それなのに、そんな風に見殺しにしちゃっていいのかしら?』

『でもそれが運命だ』と彼は言いました。『今さらどうすることもできないさ』

 その翌日、彼は街の広場に行きました。ボロボロの服を着て、完全に漁師になり切っていましたから、誰も彼には気が付きません。王様と王妃様は、完全にうなだれて、処刑台の上に立っていました。彼はただそれを見ていました。興奮した群衆が口々に『殺せ!』と叫んでいました。王子様はさすがにそれを聞いて悲しくなりました。たしかに王様はいつも威張っていたにせよ、そして贅沢な暮らしをしていたにせよ、こんな風に罵倒されるような人間ではないと確信していたからです。この民衆たちはどうしてこんなに(みにく)いのだろう、と青年は思いました。俺はこいつらと一緒に生きるくらいなら、広い海で魚と一緒に暮らす方を選ぶな、と。

 やがて刑が執行される、という直前のところで、王様が彼を発見しました。それはとても不思議なことでした。というのも彼は群衆の中に混じっていたのだし、格好だって以前とはまったく違っていたからです。それでもなぜか王様は息子の姿を発見したのでした。王様はてっきり反乱軍にとっくに殺されていたと思っていた息子が生きていたのを知って、とても喜びました。希望の色のようなものが、彼の顔にさっと走りました。そして彼の方を指差し、何かを言いました。でも群衆の声に掻き消されて、王子様には何も聞こえません。やがて刑吏(けいり)――といってもただの市民なのですが、とにかく――に乱暴に引っ張られて、王様は断頭台のところに行きました。その目はやはりまだ生き生きと輝いています。やがて最後に何か言うことはないか、と訊かれました。その瞬間、群衆は一斉に叫ぶのをやめました。王様は身に残ったすべての威厳を込めて言いました。『お前たちは永久に呪われるだろう』と。『私を殺すことはできても、私の意志を殺すことはできない。お前たちは一人残らず不幸になり、やがては非業(ひごう)の死を遂げるだろう。今さら後悔しても遅い。なぜなら私の息子は生きているからだ』

 お前の息子は死んだだろう、という声がそこかしこから聞こえてきました。でも王様はそれを手で払い()けました。やがて群衆の声が()み、静寂があたりを包みました。

『私の息子は生きている。そして生き続けるだろう。私の意志と共に。お前たち全員の死を見届けるまで、彼は死なない。以上だ。とっとと刑を執行してくれ』

 その後刑は何の(とどこお)りもなく執行されました。王子様は父親と母親が殺される様をしっかりと目に焼き付けていました。王様の言葉はまるで彼の心に彫りつけられたみたいに残っていました。

。お父さんはなんでそんなことを言ったんだろう、と彼は思いました。

 その夜、彼は予定通り海に行きました。満月の夜でした。海面はいつもよりずっと静かに波打っていました。彼はいよいよ俺は魚になれるのだ、と思い、わくわくしていました。そしていつものようにざぶんと海に飛び込みました。

 でも様子がいつもと違っていました。なんだか静か

のです。ワカメやヒトデに話しかけてもなんにも返してきません。変だな、と彼は思いました。でもとりあえずいつもの場所にまで潜っていきました。なにしろ百日間も通い続けていたのだから、目をつぶっていても辿り着くことができます。そこに例の魚はいました。

『ねえ、ほら、今日もこうしてやって来たよ』と王子様は言いました。『これで僕は魚になれるんだね』

 でも様子が変でした。その魚はなんにも返事をしないのです。そこでよく見ると、いつもより赤みがかっていました。まるで全身に血がまわったような、そんな赤さでした。そのとき父親の声が聞こえました。

、と彼は言っていました。

 



 王子様はひどく落胆して、陸に上がってきました。正直なところ、もう今すぐ死んでしまいたいような気分でした。なにしろずっとこの日を楽しみにして生きてきたのですから。それでも父親の言葉には重みがありました。それは一種の呪いとなって彼の背中にのしかかっていました。あの人は意志の強い人だった、と彼は思いました。きっと言うとおりにしなければ、僕はその呪いから逃れることはできないだろう。

 彼は地元の漁師の家に弟子入りして、なんとか生計を立て始めました。泳ぎは得意だったから、重宝がられました。そうして生きながら、人々が死んでいく様を眺めていました。反乱軍はやがて分裂し、双方が覇権を争って闘い始めました。お互いがお互いを非難し、殺し合いました。子どもや女たちも、だいぶ被害を受けました。戦いに特に関心を持たない百姓や漁師たちも、とばっちりを受けました。兵士たちが略奪しに来るからです。そうやって何人もが死にました。街は壊滅状態になりました。高い税金がなくなって、どれだけ幸せな生活が送れるだろう、と想像していた街の人々は、落胆し、その落胆した原因を相手側になすりつけました。憎悪が街を覆っていました。誰も、誰のことも信用できなくなっていました。そんなときに飢饉(ききん)が起こり、伝染病が流行(はや)り、さらに多くの人が亡くなりました。青年はただその様子を眺めていました。

 やがてだいぶ街の人口が少なくなったところで、何人かの赤ん坊が生まれました。青年はそれを見て、ちょっと疑問に思っていました。果たして俺はこの赤ん坊が死ぬ様も見つめなければならないのだろうか、と。父親は俺を殺した群衆が一人残らず死ぬまで、と言いました。でもその子どもたちのことまでは、はっきりしたことは分かりません。もしそうだとしたら、俺はずっとずっと生き続けるということになってしまうのだろうか?

 案の定、青年はやがて自分が歳を取っていないことに気付きました。何年も経って、やがてようやく街が元のような安定を取り戻したときですら、美しい青年のままでした。当時の群衆の多くが死に、そのまた赤ん坊たちが老人になってもまだ、若いままでした。彼は世話になった漁師の家を離れ――いつまでも若いことが不審に思われたからです――街を彷徨(さまよ)いながら生きていました。次第に食べることもやめてしまいました。というのもそんな必要がないことに気付いたからです。彼はものを食べなくても生きていけるようでした。というか、

、と彼は感じていました。それはたぶん父親のかけた呪いでした。俺はこの世に人間という人間が一人残らずいなくなってしまうまで、きっと生き続けなければならないのだろうな、と彼は覚悟を決めました。それがおそらく親父のかけた呪いだったのだ。もっとも彼にはすべての人が不幸になったのだとは思えませんでした。たまに幸せそうに生きて、家族に看取(みと)られて死んでいく者もいるにはいたからです。愛とは何なんだろうな、と彼は思いました。でもそればかりは、どれだけ生きても、まったく理解することができませんでした」

「それで、その人はどうなっちゃったの?」と私は訊いた。好美さんは空中を睨んでいたあとで――話している間中ずっとそこを睨んではいたのだが――突然ニヤリと笑った。そして言った。

「どうなったと思う?」と。

「全然分からない」と私は正直に言った。

「フォッフォ」と彼女は笑った。その義眼が、蛍光灯の光を受けて、ギラリと光った。「まだ生きているのさ。その海辺の街にね。あたしは一度会ったことがある。まだとても美しい姿をしているよ。でも本人はどんな女のことも好きになれないんだそうだ。彼は魚になりたくて仕方がないのさ」

「でもそれってつまり・・・」と私はなんとか頭を働かせて言った。「今生きている全部の人間が死んで、その人一人だけになったら、ついに魚になれる、ってこと?」

「まあそうだな」と好美さんは言った。「それまで彼はずっとずっと生き続ける。嫌でも生き続けるのさ。それが親父さんの呪いだったからね」

「その人は不幸なの?」

「あたしには分からんね」と彼女は言った。「あんたはどう思う?」

「私にも分からない」と私は言った。そしてその不思議な話は終わった。
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