第1話

文字数 1,998文字

「おのれ、明智・・・・。何を血迷って謀反などと・・・・」

二条御所を取り囲む水色桔梗の旗を睨み付け、今にも血を吐くような形相で罵る甥、信忠の血気に満ちた若々しい顔を織田源吾長益は冷ややかな眼で見ていた。

「一体何が不満だったというのだ、父上にあれ程気に入られ、引き立てられておりながら・・・・」

不満だったから、憎かったからではあるまい、と源吾は思う。そう、不満などあるはずが無い。
あれ程兄、信長に気に入られて本来外様にあるにも関わらず、遂には重臣筆頭にまで取り立てられたのだ。
光秀は常日頃から信長の恩に報いることを口にしていたというが、それは決して偽りではあるまい。
だが、信長と信忠を容易く同時に殺せる機会が転がり込んでしまったから、つい魔がさしてしまったのだろう。
偶々光秀がその場にいたからに過ぎない。羽柴秀吉や滝川一益であっても、やはり同じことをしただろう。譜代の柴田勝家や丹羽長秀であってもそうではないのか。
兄は彼らを心から愛し大事にしていた。だがそれは卓越した機能を持つ有能な道具としてであった。
その道具をいかに有効に用いるかという作業に没頭するあまり、彼らが不合理や不条理を持つ人間という生き物であることを忘れてしまっていたのだ。

(そう、兄は人間を道具としてしか見れなくなっていた。天下一統の為に有効か否か。それが全てであった)

家臣にだけではない。血のつながった肉親も同様であった。十三歳年の離れた弟、源吾長益も道具として酷使された。
御茶湯御政道。信長は新興芸術である茶の湯を重要な政策として用いた。そして武人としては全く凡庸で役立たずと思われた源吾が茶道具の目利きに関しては稀有の才を持っていたからだ。
源吾は天下の名物を取り上げること、功労のあった家臣に褒美として下賜する道具を選ぶ仕事に従事することになった。
茶の湯に心酔していた源吾は兄に己が天下の為に有益な人材であると認められたことに歓喜した。そして与えられた仕事に粉骨砕身した。
だがその仕事が次第に苦痛になっていった。神聖な芸術である茶の湯を、至高の美の名物を政治の為の無機質な道具に変えることにどうしようもない怒りを抱くようになったからだ。
だが源吾はその感情を堪えて、兄の道具に徹しなければならなかった。
何故なら、兄信長自身が乱世を終結させ、天下に静謐をもたらす為の一個の道具、精密な機械と化していたからである。
兄の、主君の無私にして崇高な姿勢には心から服し、己もまた道具に徹せねばならなかった。
兄が弑されたと聞いて、源吾は怒りや悲しみではなく、これでようやく道具であることから解放されるという喜びを抱いた。

(光秀よ。お前も同じ思いではないのか)

「明智め、父に続いて私を討って織田家を簒奪するつもりだろうが、そうはさせんぞ。何としてもここから脱出し、仇を討ってくれる」

信忠の父に似た甲高い声を聞き、源吾は戦慄を覚えた。

(そうだ、まだこいつがいた)

既に信長は家督をこの信忠に譲っている。当然、ここから生きて出られたならば、各地に散っている諸将をまとめ、光秀を討ち天下一統の事業を引き継ぐだろう。

(そしてこいつは我らを父から譲られた道具として、当前の権利として酷使するだろう)

兄、信長に使われたことにはまだ我慢が出来た。己を有益な道具として見出し、丹念に磨き上げられた恩義故である。
だがこの甥は兄の血を引く、ただそれだけしかない。道具である我らの真価を理解していなければ、愛することもないだろう。
そして己自身を道具に変える気高い覚悟も理念も無い。信長の血を引く。ただそれだけの理由で天下に君臨する。
信忠自身には道具として何一つ価値が無い。源吾は我が甥に震えるような嫌悪と憎しみを覚えた。

(こんな奴に道具扱いされてたまるか)

「中将(信忠)様・・・・」

源吾は抑揚のない声で甥に語り掛けた。

「相手は明智なのですぞ。脱出出来るなどという甘い考えはお捨てなさい」

「・・・・」

「潔く腹を召されよ。この叔父も御供仕る」

信忠が蒼白となった。

「雑兵に首など取られては、一足早く冥府へ旅立たれた御父上に顔向け出来ますまい」

この一言は効いただろう。冥府で父の叱責を受ける。小心な甥には魂まで震え上がるような恐怖に違いない。
信忠は従容として腹を切った。
そして源吾は女の衣を纏って脱出した。光秀ならば絶対に女を殺すなと命じていると踏んだのである。
明智の配下もまさか武人が、織田の一族たる者が女を装って逃げるなど、想像もしなかっただろう。

(私は生きるぞ。そして二度と人の道具にはならぬ)

こうして源吾長益は生き延びた。そんな源吾を京の人は

「織田の源吾は人では無いよ お腹召せ召せ召させておいて われは安土へ逃げるは源吾 むつき二日に大水出て 織田の原なる名を流す」

と囃し立てた。
だが剃髪し、有楽と称した源吾に恥じる色は全く無い。人としての自由な生を得たからである。







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