後編

文字数 4,437文字

 「……遺言」

 先生の言葉を聞いた男性は、目を大きく見開いて、掠れた声で呟いた。
 そして、手にしたスマホをグッと握り込むと、先生の顔を真っ直ぐに見据えて懇願する。

「先生……教えて下さい! この『10u』とは、どういう意味なんでしょうか? 妻は、私に何を言い遺したんですか?」
「……正直、迷っています。あなたに、僕の至った結論をお話ししてしまって良いのかどうか――」
「え……?」

 男性は、先生の言葉に当惑の表情を浮かべた。

「それは……どういう意味でしょうか?」
「僕があなたに真相をお話しする事が、奥様の遺志を妨げる事になるかもしれない……そう危惧しているのです」

 先生は、組んだ両手を落ち着かなげに動かしながら言う。

「あなたが知りたがっている、メッセージの意味……それをあなたに伝える上で、奥様があなたに隠そうとしていた、彼女の死の真相を露わにしなければならない」
「……死の……真相?」

 先生の言葉を聞いた男性は、一瞬目を逸らし、たじろいた様子を見せたが、すぐに先生の事を真っ直ぐに見返し、断固とした口調で言った。

「――構いません、話して下さい。お願いします」
「しかし……」
「お願いします」
「……分かりました」

 先生は、男性の目の光を見て、その意志を覆す事が出来ないと悟ったのか、小さく息を吐きながら頷く。
 そして、身体の前で両手を組むと、静かに口を開いた。

「では……最初に、奥様の死因ですが――自殺です」
「えッ……?」
「――」

 先生の口から出た“自殺”という単語に、私は思わず驚きの声を上げる。

「せ、先生! 自殺なんですか? でも……警察は、充電中のスマホをお風呂の中に落とした事による事故死だって――」
「だから、正確に言うと、『事故に見せかけた自殺』だよ」

 思わず声を上げた私に、先生は淡々と答えた。
 一方の男性は、顔面を紙のような色にして、微かに震える声で尋ねる。

「なぜ……妻が、自殺を……しかも、事故に見せかけて?」
「――恐らく、自殺だと死亡保険金が全額下りない可能性がある事を憂慮なさったんでしょう。それと……旦那様――つまり、あなたに自殺だと知られたくなかった……いや、むしろ、そちらの方が理由としては大きかったんだと思います」

 そう言うと、先生は男性の顔をじっと見つめた。

「――とはいえ、あなたは薄々感付いていらっしゃったようですが」
「……なぜ、お分かりに?」
「僕が『事故に見せかけた自殺』と言った時にも、大きな動揺を見せなかったからです」
「……」

 先生の言葉を聞いた男性が、ズボンの太股を掴んだ手に力を入れたのが分かった。
 黙りこくる男性を前に、先生は言葉を続ける。

「当日――、奥様は、あなたが買い物に出るのを待ち、風呂に湯を入れました。そして、溜まった湯の中に浸かり、充電ケーブルを挿したスマホを風呂の中に持ち込み、17時26分に『10u』のメッセージを送信し、その後、17時27分にスマホを故意に湯の中に落とし……自ら命を絶ったのです」
「……」
「不治の病に侵された自分が、今後あなたの負担になる事が耐え切れなかった――それが、奥様の自殺の動機でしょう」
「――馬鹿!」

 突然、男性が怒声と共に、ローテーブルに拳を叩きつけた。

「そんな……そんな事だけで死を選ぶなんて……! 俺が、お前の事を負担だなんて思うはずがないじゃないか! なのに、勝手に俺を置いて――!」
「……それだけじゃなかったんだと思います」
「……!」

 ぼそりと呟いた先生の言葉に、男性は涙が溢れる目を大きく見開いた。
 先生は、僅かに目を伏せながら、静かに言葉を紡ぐ。

「奥様は、自分の若年性記憶障害が悪化して、どんどん記憶が無くなっていく中で、いつしかあなたの事も……自分があなたを愛しているという事実自体も忘れてしまう事に対して、強い恐怖の念を抱いたんです。……もしかすると、自殺の動機としては、こちらの方がより大きいのかもしれません」
「……」
「奥様は、最期まであなたの事を愛したまま逝きたかったんですよ」

 そう言うと、先生はテーブルの隅に置いてあったメモ帳を手に取り、ボールペンで『10u』と書いて男性に見せた。

「このメッセージが、それを表しています」
「こ……れが……」
「はい」

 先生は小さく頷く。
 そして、男性に問いかけた。

「――あなたと奥様は、テニスがお好きだったんですよね?」
「え? ええ……まあ」
「テニスは、色々と特殊ですよね。――得点のカウントとか、コールとか」
「……はい?」
「ちょ、ちょっと、先生? それって、今のお話と関係無いんじゃ――」

 唐突に話が脱線した事に、唖然とした様子の男性の顔を見た私は、慌てて先生を窘めようとした。
 だが、先生は一向に構わない様子で言葉を続ける。

「ポイントを取る毎に、15(フィフティーン)30(サーティ)40(フォーティ)と増えていくんですよね。不思議ですよね……」
「だ、だから、先生ってば……!」
「逆に、ポイントがない時は、もちろん(ゼロ)ポイントですよね?」
「……あ、いえ」

 先生の問いかけに、男性はかぶりを振って答える。

「……テニスは、0は“ゼロ”ではなくて、ら――」

 そこで、男性の声は不意に途切れた。
 彼は、目を飛び出さんばかりに見開くと、震える手でテーブルの上に置かれたメモ帳を取り上げると、先生がそこに書いた『10u』の文字を凝視する。
 そして、かすれ声で呟いた。

「――アイラブユー……」
「……その通りです」

 男性の声に、先生は小さく頷いた。

「それが、奥様があなたに宛てた、最期のメッセージです」
「あ……!」

 ようやく私も、男性の呟きと、メッセージの意味を理解する。
 テニスでは、0ポイントを“ゼロ”ではなく、“ラブ”と呼ぶのだ。
 それに従って、“1”を“I”、“0”を“LOVE”、そして“U”を“YOU”に言い換えれば――

「それで、10U(I Love You)か……!」
「何で……何で、こんな……?」

 男性は、メモ帳を持った手を小刻みに震わせながら、うわ言のように呟いた。

「……こんな、暗号のようなメッセージで――」
「それは、先ほども申し上げたように、この自殺を事故に見せかけたかったからです」

 男性の呟きに、先生は淡々と答える。

「死亡する直前に、あなたに向けて何か意味のある内容を残せば、この一件を事故だとする見解に疑念が生まれかねない。奥様は、それを憂慮した上で、それでもあなたに『愛しています』と言い遺したいとの強い思いから、この暗号を考えたんです」
「……」
「恐らく、奥様は、あなたがメッセージの意味に気付かなくてもいいと思っていたはずです。それでも、テニス好きなあなたなら、この(Love)に気付いてもらえるかもしれない。気付かれてほしくないけれど、気付いてほしい……この三文字からは、そんな、危惧と期待の入り混じった複雑な心情を感じます」

 そう言うと、先生は静かに目を瞑り、静かに言葉を紡いだ。

「これは……紛れもない、奥様の深い愛に満ちた“遺言”です」

 ――その後、しばらくの間、誰も口を開こうとはしなかった。
 やがて、男性は黙ったまま立ち上がると、相談料としては多額のお金を出し、固辞する私の手に無理矢理握らせてから、深々と先生と私に向かって一礼すると、部屋から立ち去ったのだった。



 ――それから少ししてから、
 私たちは、あの男性が亡くなった事を知った。


 その報を齎したのは、先生とは旧知の仲である刑事からだった。
 とある日の夜、アポも無しに事務所を訪れた刑事は、私が薦める前に応接のソファに無遠慮に腰を下ろすと、挨拶もそこそこに本題を切り出した。

「数日前に、とある男性が、自室の風呂場で死亡しているのが発見されました。剃刀で自分の喉を掻っ切っていて……状況から考えて、恐らく自殺だと思われる――というのが、鑑識の見解です」

 そう言いながら、刑事は懐から数枚の写真を取り出し、その中の一枚を表にしてテーブルに置いた。
 そこに写っていた男性は、先日この事務所を訪れた男性に間違いなかった。
 私と先生は、思わず顔を見合わせる。
 私たちの反応を見た刑事は、納得顔で頷いた。

「やはり、ご存知の方でしたか」
「……この方の所持品の中に、僕の名刺か何かでも入っていましたか?」
「ご明察。……とはいえ、ちょっと違いますね」

 刑事はニヤリと笑うと、写真をまた一枚、表に返す。
 そこには、安っぽいチラシが写っていた。

「この男性の遺品の中に、この事務所のチラシが入っていましてね。余白に日付と時間が書き込んであったんです。だから、存命中に相談に訪れたのではないかと推理した訳です」
「なるほど」
「……ちなみに、ここへは、何の相談に?」
「たとえ故人であっても、依頼人に対する守秘義務がありますので、お答えできかねますね」
「……これは失敬」

 先生のつれない返事に、一瞬ムッとした表情を浮かべた刑事だったが、すぐにちょこんと頭を下げた。
 そんな彼に、先生は尋ねる。

「……それで、僕の元依頼人だと知って、わざわざ教えに来てくれたんですか? 彼が自殺をした、と」
「それがですね……」

 刑事は、ぺろりと上唇を舐めると、言葉を継いだ。

「現場に、ひとつだけ奇妙なものが遺されておりまして、自分は事件性があるのではないかと疑っておるのですよ。なので、ここはひとつ先生の見解をお伺いしてみようかと思って、本日お邪魔した次第です」
「事件性? ……殺人事件だとでも?」
「そうですね」

 驚いて訊き返した私の言葉に、刑事は重々しく頷いた。
 と、そんな刑事に対し、眉間に皺を寄せた先生は尋ねる。

「……その“奇妙なもの”とは、一体何なんですか?」
「それは……血文字です」

 刑事の答えに、私と先生は再び顔を見合わせる。
 当惑する私たちを尻目に、刑事は手元の裏返しにしていた写真の一枚を手に取った。

「その血文字は、彼が死んでいた浴室の壁に書かれておりまして、どうやら、ガイシャが自分の喉から噴き出した血を使って、最期の力を使って指で書き殴ったもののようです。いわゆるひとつの“ダイイングメッセージ”ですな」

 と、彼は困ったように頭を掻いた。

「ただ……自分には、この血文字がどういう意味を持つものなのか、全く分からなくて……先生のお知恵をお借りしたいんです」

 そう言いながら、刑事は裏返しにしていた写真を表に返す。

「これが……現場に残されていた血文字の写真です」

 私と先生は、刑事の掌の上に乗せられた写真を覗き込んだ。
 その写真には、赤黒い血痕がへばりついた浴室の壁が写っていて、その中央に四つの文字が、ハッキリと書き記されているのが分かった。

「「……ッ!」」

 その文字を読み取った瞬間、私と先生は思わず息を呑む。
 私は――そして先生も、男性の死因が自殺に間違いない事、そして、彼が最期の力を振り絞って書き遺した、たった四文字のメッセージが、誰に宛てて書かれたものなのかを理解した。

 写真に写った浴槽の壁には、こう書かれていたのだった。

 『10u(I Love You)(,Too)』――と。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み