前編

文字数 4,566文字

 その男性が、私が勤める探偵事務所を訪れたのは、晩秋の昼下がりだった。

 彼が着ている皺の酔った濃紺のスーツと、緩んだネクタイの柄から考えて、まだ定年前のサラリーマンだろうと思われたが、その顔は老人と呼んでも差し支えなさそうな程に窶れて、疲れ切っていた。
 挨拶もそこそこに、私が勧めた来客用のソファに身を沈み込ませた男性に、探偵事務所の主である先生は穏やかな営業スマイルを向ける。
 そして、それまで腰を下ろしていたデスクのチェアから、彼の向かいのソファへと移動した先生は、軽く組んだ手をローテーブルに乗せるいつものスタイルになると、穏やかな声で男性に問いかける。

「いらっしゃいませ。……で、早速ですが、本日はどのようなご用件で当探偵事務所へ?」
「……はい」

 先生の問いかけに小さく頷いた男性は、スーツの胸ポケットに手を入れ、黒いスマホを取り出した。
 そして、スマホの電源ボタンを押しながら話を切り出す。

「実は……先生に、妻の遺した最後のメッセージの意味を解読してほしいのです」

 そう言いながら、どこか覚束ない手つきでスマホを操作する男性。
 その際に、先生の脇に立っている私の目に、男性のスマホのロック画面が映る。それは、ラケットを持ち、テニスウェアを着たふたりの男女の画像だった。
 その顔立ちから見て、男の方は、目の前に座っている男性の若い頃の姿だと見て間違いないだろう。
 ならば、女性の方は――

「――綺麗な方ですね。ひょっとして、その方があなたの……」

 私は、思わず男性に尋ねてしまう。
 男性は、ふと顔を上げると、そのやつれた顔に弱々しい笑みを浮かべ、「ええ」と小さく頷いた。

「私の妻です。この写真を撮ったのは十数年前ですね」
「……先ほど、『妻の遺した最後のメッセージ』とおっしゃっていましたが、もしかして――」
「……はい」

 先生の質問に、男性は表情を曇らせて首肯する。

「妻は――つい半月前に死にました」
「あ……」

 男性の言葉に、私は思わず息を呑み、慌てて「ごめんなさい……」と謝罪した。
 だが、弱々しい微笑みを浮かべた男性は「いえ、大丈夫です」とかぶりを振ると、淡々とした口ぶりで話し始める。

「実は……妻は、最近ある病を患っておりました……」
「ある病?」
「――若年性の記憶障害です」

 先生の問いかけに、少しだけ声を震わせて男性は答えた。

「症状が出始めたのは、十年ほど前からでした。最初は軽い物忘れ程度だったんですが、どんどん症状が悪化していき、最近では、勝手に家を出ていって徘徊したりするようになり、私の事も分からなくなるようになってきていました……」
「それは……お辛かったですね」
「ただ、調子の良い日もあって、そんな日には一緒に出掛けたり、映画を見たりして……楽しく過ごしていましたよ」

 そう言うと、男性はうっすらと微笑んだ。その表情は穏やかで、彼の言葉が嘘ではない事が窺い知れる。
 ――だが、男性の穏やかな表情はすぐに消え、一段と憔悴した表情に変わった。
 彼は何かを堪えるように口元を押さえると、しわがれた声で言葉を絞り出す。

「あの日――あの事故が起こった日も、妻が比較的調子の良かった日でした。私は休日で、朝から家で妻と過ごしていたんです」
「……」
「夕方になり、私は妻を家に置いて、買い物に出かけました。その間に、妻は風呂を沸かして入り……死にました」
「お風呂で……」

 男性の言葉を反芻しながら、先生は顎に手を当てる。考え込む時の、彼の癖だ。
 先生は、チラリと目を上げて男性の顔を見ると、静かな声で問う。

「それは……浴槽で溺れて――」
「いえ」

 男性は、先生の言葉に小さくかぶりを振ると、沈痛な声で言葉を続けた。

「……感電死でした」
「か、感電死?」

 あまりに意外な原因に、私は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。

「そ……それは、何でですか?」
「妻は、風呂に入りながら、スマホを使っていたようなんです。――充電ケーブルを挿した状態で」
「えっ?」

 私は思わず耳を疑った。お風呂で充電ケーブルを挿したスマホを使うなんて危険すぎる。

「なるほど……充電中のスマホを風呂の中に落としてしまい、それで――」
「……そのようです」

 男性は頷くと、戦慄く唇を抑えるように、前歯で噛んだ。

「それは……ご愁傷様です」

 私は、そう言うしかなかった。
 男性は、私のかけた言葉に「ありがとうございます」と答え、取り出したハンカチで目元を拭った。
 そして、気を取り直すように咳払いをすると、「それで――」と重い口を開く。

「その事故の直前に、妻が私に送ったメッセージがありまして……」
「それが、先ほどお話しされていた『最後のメッセージ』ですか」
「はい」

 先生の問いかけに頷くと、男性は手に持っていたスマホを操作し、メッセージアプリのアイコンを押した。
 液晶画面が緑色になり、少ししてアプリの画面が起ち上がる。
 そして、ずらっと並んだアカウントアイコンのひとつを押し、トーク画面を表示した。
 彼は、一瞬画面に沈鬱な目を落とすと、スマホの画面を私たちに向けて差し出す。

「……これが、妻からの最後のメッセージです」

 そう言って、彼が示したトーク画面の最後には――、

『10u』

 の三文字だけが表示されていた。


「……『10u』? これが……奥様からの最後のメッセージ……ですって?」

 スマホに表示された文字を読んだ私は、思わず訝しげな声を上げてしまった。
 そんな私の問いかけに、男性は静かに首を縦に振る。

「ええ……、そうです」
「あの……こんな事を言ったらアレですけど……」

 私は、慎重に言葉を選びつつ、男性に言った。

「これって、メッセージというよりは、たまたま指が液晶画面に触れてしまって入力されてしまったものが、偶然送信されただけなのではないでしょうか……?」
「……そうかもしれません」

 私の言葉に、男性はこくりと頷き、言葉を継いだ。

「――実際、警察の方にもそう言われました。感電した際に、痙攣した指が触れた事によるものなんじゃないか……とね」
「でしたら……」
「ですが……」

 男性はそう言って、小さく首を横に振る。

「私には、この三文字が偶然のものだとは、どうしても思えないんです。何か、意味のある……妻から私に宛てたメッセージのような気がしてしょうがなくて……」

 そう言うと、男性は先生に縋るような視線を向けた。

「ですから……一度先生に見て頂いて、この妻からの最後のメッセージの意味を解いて頂きたい――そう思って、本日お伺いした次第です」
「……承知いたしました」

 男性の言葉に、先生はあっさりと了承の意を伝えた事に、私は内心驚いた。同時に、(どうせ、ただの偶然だから、意味なんて無いだろうに……)と、失礼だと知りつつも思ってしまう。
 一方、先生は神妙な表情をしつつ、男性の手元にあるスマホを指さして言った。

「拝見させて頂きたいので、ロックを解除して頂いても宜しいですか?」
「あ……すみません」

 先生の言葉で、スマホの画面が暗転しているのに気付いた男性は、慌てた様子で電源ボタンを押した。
 画面が明るくなり、先ほどちらりと見た、男性と奥様の映った画像のロック画面が表示される。

「……どうぞ」

 男性はそう言いながら、一番最後に『10u』という奇妙な一文が入ったトーク画面を表示させたスマホを先生の方に向けて差し出した。

「拝見いたします」

 そう言ってスマホを受け取った先生は、少しの間だけ、指をスマホの画面の上で滑らせていた。
 そして、数分が経過した頃に、彼はつと顔を上げ、スマホの画面の一点――『10u』のメッセージの横に表示されている“17:26”の文字を指さし、男性に尋ねた。

「このメッセージが送信された時刻である17時26分に、あなたは買い物に出ていたとおっしゃっていましたね」
「ええ……」

 先生の問いかけに、男性は沈痛な表情を浮かべながら頷く。

「……正確には、買い物を終えて、車で帰宅している途中でした。――もっとも、運転していたので、メッセージが送られていた事に気付いたのは、帰宅した後、浴槽の中ででぐったりした妻を発見して、慌てて救急に電話しようとした時に……ですが」
「……先ほどあなたが口にした、警察の見解の根拠はご存知ですか? 『奥様からの最後のメッセージは、感電している最中に打たれたものだ』という――」
「ええ……。メッセージが送信された時刻と、妻が浴槽で感電した時刻がほぼ一致したからです」
「時刻が、ほぼ一致した……?」

 男性の答えに、思わず私は声を上げた。

「何で……何で分かったんですか? 送信の時刻は、そのスマホの表示で分かりますけど、奥様が感電なさった正確な時刻なんて――」
「停電だよ」

 私の疑問の声を遮ったのは、先生だった。
 一瞬、言葉の意味が分からず、「停電……?」と呟く私を尻目に、先生は男性に顔を向けて確認するように訊く。

「――ですよね?」
「はい」

 先生の確認に対し、小さく首肯した男性は、ぽつぽつと口を開く。

「……妻が感電した時、家のブレーカーが落ちました。その時、ちょうどテレビ番組を録画していたレコーダーも止まって……」
「レコーダーの録画が止まった時刻が、17時26分だった……と」
「正確には、27分でしたが、ほぼ同じ時間だと言えるかと……」
「そうですね……」

 先生は小さな声で答えると、唐突にスマホの電源ボタンを押し、すぐにもう一度押し直した。
 一瞬暗転した液晶画面が再び明るくなり、テニスウェアを着て微笑む夫婦のツーショット画像がもう一度表示される。
 先生は、その画像を一瞥しながら、男性に尋ねた。

「――奥様は、テニスがご趣味だったんですか?」
「え……ええ、まあ」

 唐突な質問に、男性は戸惑い顔で目をパチクリさせながら答える。

「元々、私と妻は大学のテニスサークルで知り合ったんです。結婚した後も、週末には近くのテニススクールに一緒に通っていました。……もっとも、妻が病気になってからは行けなくなりましたが」
「……そうでしたか」

 男性の言葉に、先生は小さく頷き、軽く目を閉じながら頷いた。
 そして、胸ポケットから取り出したハンカチで画面を軽く拭くと、男性に向けて差し出す。

「ありがとうございました。もう結構です」
「あ……はい」

 差し出されたスマホを受け取りながら、少し怪訝な表情を浮かべる男性。
 彼は、先生におずおずと問いかける。

「それで……何か、分かりましたか? このメッセージについて」
「はい」
「……ッ!」

 あっさりと肯定した先生に驚き、目を丸くする男性。彼は、僅かに興奮した様子で、更に問いを重ねる。

「わ……分かったって……メッセージの意味がですか?」
「はい。それだけではなく、今回の件についても、大まかなところは」
「え……?」
「せ……先生ッ?」

 先生の答えに愕然とする男性を差し置いて、私は思わず声を上げた。

「こ……この『10u』って、意味があるものなんですか? ただの偶然の産物じゃ――」
「偶然なんかじゃ、ないよ」

 先生は、私の言葉に、小さく首を横に振る。
 そして、その黒い瞳に僅かに憂いの色を浮かべながら、男性に向かって静かに言葉を継いだ。

「これは……紛れもなく、奥様があなたに向けて送った、最期の言葉――遺言ですよ」
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