第5話 長いお別れ

文字数 3,720文字

 「がんばってきてね」
 新宿本社への最終出社日。事務所を去る俺を営業課の人達が送り出してくれた。恵子もその中にいて、その台詞を言った。去っていく俺に対して。
 それで終わりだった。
 それが、俺が黒川恵子を見た最後だった。
 付き合うとか付き合わないとか、そういう話にはならなかった。ましてや、アメリカに一緒に行くとか行かないとか、そんな話など全くなかった。あの夜は何だったんだろう。あの甘く優しく繊細で甘美なスイートナイトは。夢だったのか。いや勿論夢なんかじゃない。現実だ。どういうつもりだったんだろう。黒川恵子。処女を卒業したかった。そういうことか。適当な相手と。三十過ぎてまで持ち越していた貴重な処女を捨てたかった。そういうことか。適当な相手。それが俺か。この俺だったのか。

 その二年後。
 俺は日本の同僚からのメールで、恵子の退社を知る。
 黒川さんって知ってるよね? と、同僚はその電子メールに書いていた。先週送別会だったんだ。結婚するらしいよ。
 ペンシルバニアのUSA現地法人のヘッドオフィスの机の上のノートパソコンで、俺はその同僚からの電子メールを読んだ。
 結婚。結婚するらしい。黒川恵子。結婚。
 そうか。結婚か。恵子ちゃん。結婚か。
 俺はすぐに恵子宛てにメールを打とうと思った。結婚するんだったら、祝福しなければならない。そう思った。そしてしばらくの間そのメールの文面を考え、結局とてもシンプルな文のメールを送った。
 「黒川さん、結婚するんですか。おめでとう。原田道也」
 送信と同時に返信が来た。それは恵子からの返信ではなかった。自動返信だ。メールの送り先アドレスが見当たらない。そう書いてある。恵子はもういないのだ。恵子はもう会社にいない。会社のメールアドレスが無くなった。もう連絡が取れない。

 恵子の話が出たのは、それから一回だけだ。
 アメリカでのシェア拡大に成功した俺は、日本へ帰り営業部長補佐となった。営業部で歓迎会をしてくれたのだが、その時に同僚の女性から恵子の話が出たのだ。恵子は公務員の男性と結婚し、二人の女の子を生んだ。二人の子供のママとして幸せに暮らしている。そんなふうに、その同僚の女性は言った。そうか。と俺は思った。幸せに暮らしてるのか。そうか。そうか。よかった。

 一方、俺は。
 日本に凱旋帰国し、部長補佐に栄転した俺は。
 いや。そんなことはどうだっていい。
 仕事のことなんてどうだっていい。
 ようやくそう思えるようになった。今になって、ようやく。
 俺だけじゃない。俺だけに限らず、男は仕事のことで頭がいっぱいだ。頭も身体もいっぱいだ。仕事でいっぱいいっぱいだ。全精力を傾けて仕事をする。仕事で何を成し遂げるか。仕事で何を成し遂げたのか。それが男としての価値じゃないか。生きる価値じゃないか。男は誰も皆そう思っている。俺もそう思っていた。六十まで。俺はカメラを変えたかったし、カメラの新しい価値を創り出したかったし、結局それは達成できなかったのだけれど、それでも仕事で会社や世の中に貢献する。何かを成し遂げる。それが男なんじゃないか。男という生き物なんじゃないか。そう思っていた。それが全てだった。全てだと思い込んでいた。六十までは。現役時代までは。
 しかしそれは違う。そうではない。そうではなかった。勿論、仕事の価値はある。あるのだが、そんなものは一部だ。ほんの一部だ。ほんの一部分でしかないのだ。そういうことがわからない。現役時代にはわからない。いつしか俺はミッションシートに支配されていた。ミッションシートに書いたり書かれたりするミッションという幻影に支配されていた。それしか無くなっていた。そのために生きる男と化してしまっていた。
 なんという浅はかな。
 なんという味気ない。
 その証拠に。
 俺は一人だ。
 六十を越えて、西葛西のマンションに、俺は一人だ。

 結局俺は。
 その黒川恵子との一件以来、きちんと女性と係わったことが無かった。
 いや勿論、全く無い訳ではない。飲み屋の女の子やデリヘルの女の子と係わったことはある。でもそれは商売であって、プライベートではない。商売。商売女。つまり金だ。金。金の関係でしかない。金の関係は金が全てであって、金の流れが途絶えればそこで終わりだ。金を与えれば続く。金を与えなければ終わる。それ以上でもそれ以下でもない。少なくともそんなところに幸せはない。男に安らぎや幸せの錯覚を抱かせて、その替わりにお代をいただく。お金をいただく。そういう商売だ。その商売女の本当の幸せは別にある。別の所に。俺ではない、全く別の所に。
 そんなことはわかっていた。わかっていたのだが、俺はその時恋愛や結婚に幸せを求めるという発想が無かった。いや、あったのかも知れない。しかしそれ以上に仕事が忙しかったのだ。仕事に熱中していたのだ。仕事が好きだったのだ。

 いや。
 俺は。
 黒川恵子が忘れられなかったのかも知れない。黒川恵子を忘れようとして仕事にのめり込んだ。黒川恵子を忘れるにあたって、丁度そこに熱中できるものがあった。だから仕事に飛びついた。目の前の仕事に夢中になった。自分からその道を選んだのだ。俺は自分から。仕事の道。仕事一筋の道。仕事の鬼。
 その恵子が。
 黒川恵子から山内恵子だか内山恵子だか、確かそんな苗字になった筈の恵子が。
 黒川恵子に戻っている。
 それを俺は見出したのだ。
 六十を過ぎて、たった一人で暮らすこの西葛西のマンションの一室で、テーブルの上の新しいノートパソコンの画面に映ったフェイスブックの検索欄から。
 俺は見出した。
 黒川恵子。
 同姓同名の女子が何人かいた。
 しかしこの黒川恵子は黒川恵子だ。
 俺と同じ会社にいて、俺と同じ営業課にいて、俺と一緒に飲みに行き、俺と一緒に道玄坂上の古ぼけたラブホテルへ行った、あの黒川恵子だ。
 見出して、確信し、そして躊躇した。
 どうしたもんだろうかと思った。
 どうしたもんだろう。
 どうしたもんかな。
 俺は朝フェイスブックの中に恵子を見出し、昼を過ごし、夕方を乗り越え、夜まで悩んだ。躊躇した。戸惑った。どうしたらいいかわからなかった。
 食器棚から「山崎」を取り出した。封を切っていない山崎。送別会の折後輩達が送ってくれた高級ウィスキー山崎。遂にお前を飲む時が来た。そう思った。俺は山崎の封を開け、ワイングラスに注いだ。ストレートだ。来い。そう思った。俺は挑むようにしてワイングラスに注がれた琥珀色の液体を口に含んだ。芳醇だ。美味い。流石だ。俺は山崎が好きだ。もう一口。美味い。ああ。美味い。そして俺はテーブルの上のパソコンの画面に鎮座しているボタンに向かい、それを押した。何気に。さりげなく。何の気なしに。思い入れなんかしてないよ、という姿勢を装って。物凄く過剰な思い入れをしている自分を誤魔化して。クリックした。マウスの左ボタン。カチッと音を立てた。友達申請完了。確実に、確かに信頼できるフェイスブックの表示が、ノートパソコンの画面にすっくと立ち現れた。行った。申請が行った。恵子。黒川恵子に。届け。届いてくれ。たのむ。

 それからが長かった。
 一日経ち、二日経ち、三日目の朝が訪れた。
 くそう。と俺は思った。駄目か。駄目なのか。所詮酔った勢いだったんだ。酔った勢いで友達申請してみただけだ。ダメ元だったんだ。パソコンの画面の前でそんなふうに考えてしまっている俺がいた。なんというかもう、そういうふうに考えている時点で負けが入っている。どうして俺が負けるんだ。どうして俺が負けなくちゃならんのだ。この歳になって。ここまで生きてきて。悠々自適の生活になって。死ぬまで何も困らない生活を得ている俺が。負ける。負けるのか。負けるのか俺は。いや。いや違う。負けるとか勝つとかそういうことじゃない。違う。そうじゃない。違う筈だ。勝ち負けの問題じゃない。これは勝ち負けじゃない。そう言い聞かせようと思った。しかし駄目だった。俺は負けた。今回も負けた。否、ずっと負けている。ここんとこずっと負け続けている。負け続け。負け続けの人生。情けない。ああ。哀しい。
 そんなふうにして三日目が過ぎてゆき、四日目、五日目…。
 人間不思議なもんで、慣れてくる。負けたと思う気持ちに慣れてくる。五日も考え続けるとそれが普通になる。仕方ない、と思えてくる。だって仕方ないじゃないか。どうしようもないじゃないか。これ以上どうしろって言うんだ。やりようがないじゃないか。これ以上押しようも無いし、引きようだって無いじゃないか。つまり、お手上げだ。お手上げ状態。 
 無視か。これは無視か。マジ無視か。無視されてるのは辛い。辛いじゃないか。フェイスブックの画面をブラウザ上にずっと出しておくのをやめよう。しばらくはフェイスブックを見ないでおこう。俺はそう思った。そう思ってから数日。それは、友達申請後から数えて七日目の秋の日の朝の出来事である。 
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