第1話 一般人として、いざ出勤

文字数 5,430文字

 早朝七時の赤坂マジェスティホテルの車寄せ
は、今日もガラっガラだ。
 何でって、こんな早い時間に運転手付の車を車寄せで降りようとしているのが、私だけだからだ。
 ここのホテルを利用するのはお金持ちだけで、当然お金持ちはこんな早く家の外に出たりはしない。
 もしくはここの館内に宿泊中だとしても、ここに降りてくるのはもう少し後だ。
 なのでこんな時間にこのホテルの車寄せを利用するのは、私だけになると言う訳。
 ここは父が会員のホテルで、今私が降りた車は父のコレクションのうちのとっておきの一台、『ロールスロイスのマーク Ⅰ 』。
 だ、そうだ。
 朝家を出るときに、「乗り降りに車を傷付けないよう注意しなさい。
 車検に出しているいつもの車と違って、今日麗香(れいか)の乗る車は二度と手に入らないんだから」と、釘を刺された。
 クラシックカーなんだそうだけど私は車なんて何でも良くて、
「それではタクシーで出勤致します」って反抗したら、お父様は血相を変えて怒った。
「嫁入り前の娘がタクシーなんかに乗って、何かあればどうする」
 そんな風に言われると、余計お父様への反抗心が沸々と沸き起こってしまう。
「じゃあ電車で、東急で出勤致します」
 そこでお母様が口を挟んできた。
 長い長いお説教の後に、あのひと言を言われると何も言えなくなってしまう。
「お父様がどれだけ麗香の事にお気持ちを砕いていらっしゃるか、
貴女は29にもなってまだ分かってないのね。
 もうそろそろお仕事を止める時期かもしれないわ。
 学習館女子大学の大学院を卒業した日に、お仕事するか結婚するか決めなさいって言ったら、当然お見合いで結婚してご養子を取ってくれるものだとばかり思ってたら、貴女お仕事しますって言うか ら・・・・・。
 そこからもう5年よ、5年。
 貴女が他人の経営するホテルの従業員になって、それも5年間も勤めるなんて。
 この間もお隣りの奥様から言われたわ、『お嬢様お美しくていらっしゃるのにまだご結婚なさらないんですのね。
 橘和(きつわ)コンツェルンの一人娘さんが、苦情を言うお客にフロントで頭を下げるなんて、何とも御労しいわ』って。
         ー1ー

 あれわね嫌味なのよ、嫌味。
 貴女がお隣のご子息との縁談を蹴ってから、ずーっとそうしたことを言ってくるの。
 そんな風にお隣りに嫌味を言われても、ひとり娘の貴女が働きたいって言う我儘を、お父様はずっと黙って聴いて下さっているのよ。
 もしお父様の仰ることが気に入らないのなら、他人の経営するホテルで働くことなんて止めておしまいなさい。
 それに何度も言いますけど、貴女がそうして元気でいられるのもお父様が貴女に・・・・
・」
 そこまで言われた私は、お母様の言葉を遮るように即答した。
 要領はいつもの仕事の延長だ。
「はい、お母様の仰る通りでございます。
 直ぐに善処いたします。
 誠に申し訳ございませんでした」
 そう私の腎臓は小さいときにお父様の腎臓を移植したもの。
 IPS細胞や遺伝子改良なんて技術がまだなかった時期のことだ
から、もしお父様が腎臓を下さっていなかったら私は今この世にいないのだ。
「まったく貴女ったら。
 そんな慣れた口調で頭下げられたら、余計に悲しくなるわ。
 クレーム処理係さん」
 そう言って送り出してくれたお母様。
 お父様は隣りで何も言わずに笑ってた。
 それにしてもお父様もお母様も世間の常識と言うものを、まったく理解していない。
 大体嫁入り前の娘がタクシーや電車に乗って即何かあると思うのは異常だし、5年間きちんと勤め上げた仕事を止めろとは言わない筈だ。
 それにお隣りの小母様もおかしい。
 だって29の女に向かって、お嬢様は無いでしょう。
 そんなことを考えているうちに、執事兼運転手兼教育係の吉田さんが声を掛けてきた。
「麗香お嬢様、お降りにはなられないのですか。
 早く朝食をお摂りにならないと、遅刻ですよ」
 いつものことだけどこの吉田さんにも、世間の常識と言うものがまったく感じられない。
 私は吉田さんの顔をルームミラー越しに睨み付け、腕を組みながら言った。
「あのね吉田さん、その麗香お嬢様って呼ぶの何とかならない?
 私もう、来月で三十になるのよ。
         ー2ー

 三十路よ、三十路女なの」
 吉田さんもまた、ルームミラー越しに私の眼を見ながら返事をした。
「年齢は関係ございません。
 長年橘和家にお仕えした私に取っては、仮に70歳になられても麗香お嬢様は麗香お嬢様でいらっしゃいますから。
 ま、そこまでわたくしが生きているかどうかは、神のみぞ知るところでありましょうが」
 私は溜息をひとつ吐いて、それから顎を左右に振った。
「分かりました。
 その代わり人前でお嬢様はよしてね」
 私がそう言い終えると吉田さんはドア側に廻りこみ、扉を開けながら言った。
「承知致しました麗香お嬢様」
 やっぱり分かっていない。
 私は言葉の代わりに絶望を込めた視線を吉田さんに返した。
 なのに吉田さんは帽子を脱いで笑顔を返してくるだけだった。

 直ぐに最上階のマジェスティクラブにむかう。
 会員だけしか入れないエグゼクティブスペースなんだけれど、年寄りばっかで私に取っては何の刺激もない詰まらない場所だ。
 それでもここを利用するのは私がここに出入りしていることが、絶対に外に洩れるないからだ。
 何故ならここの従業員を始めお客までもが、ここで知り得た秘密を外に洩らさないよう徹底されているからだ。
 あんな運転手付きの、私の務める会社の社長の車よりも高い、あんな車に乗ってこんなところで食事を摂っていることがバレたら、
私は今の職場で仕事が出来なくなってまう。
 マジェスティスクラブに着くと、いつものコンシェルジュが笑顔で私を迎えてくれた。
 親爺受け間違いなしの上品なお化粧に、程よく均整の取れた胸に、そして全体のシルエット。
 私と同い年くらいの隙のない女性だけれど、だからこそ私のことを良く思っていない筈だ。
 同年代なのにこんなとこで朝食摂りやがって、お前の為に早朝出勤しなきゃいけないんだぞ、早く来過ぎだろうこの気取った三十路女め。
 って、ま、私の歳は知らないだろうから、三十路女めと思ってい
るかどうかは分からないけど、私のことを良く思っていないことだけは確かだ。
        ー3ー

 そのことは同業者だからこそ痛いほど良く分かる。
 何と言ってもクレームを言ってくるのは女の方が多いのだから。
 私はそんなコンシェルジュの気を和らげる為、このマジェスティホテルに隣接する、『赤坂ファイブスターホテル』のエステの招待券を用意していた。
 入って擦れ違いざまに招待券をポケットに突っ込む。
 いつものように招待券をポケットから取り出して、手を振って固辞しようとするが、私もいつものセリフを言う。
「いいから、ね。
 フロントにも支配人にも絶対に誰にも言わないから。
 私の好意を無にしないで」
 そう言うと頭を下げて微笑む。
 月に一度渡しているこの招待券だけど、今日は特別なやつ。
 キャンペーンでシャネルやゲランの香水や化粧品が持ち帰れる、十万円相当のものだ。
 私のお母様に送られてくるものだけど、お母様はまったく使おうとしないし、私も使わない。
 否、使えない、と、言った方が良いだろうか。
 
 そしていつものように朝食が運ばれてきて、いつものように朝食を摂り終えるタイミングで、吉田さんがスーツケースを持ってきた。
 次いでいつものように私がそのスーツケースを受け取り、今まで持っていたクロコのバーキンを手渡す。
 そしていつものようにここの女性用メイクルームで服を着替える。
  
 量販店で売っている冴えないグレーのスーツ。
 そして国産の何でもないノーブランドのバッグ。
 今着替え終わって鏡の前に立っている私はまったくの別人なのだ。
 そう今鏡の中に映っている私は、橘和コンツェルン総帥の橘和総一郎の一人娘でなく、唯のフロントコンシェルジュの橘和麗香だ。
 
 働きに出るまではショーパンと言うのが、ショートパンツの略語だと言うことも知らなかった。
 勿論のことショーパンなんか持っていなかったし、着たこともなかったのだから当然だ。
 また七年前の初出社当日、お母様の用意してくれたシャネルスーツを着て黒の普通のカーフのケリーを持ってただけで、同期には白い眼で見られた。
 自分では地味だと思っていたけど、同期はそうは思わなかったみたいで・・・・・と、言っても今は、それはそうだろうなと思う。
         ー4ー

 そう言えば新入社員の登竜門である客室研修では、ルームメイクの研修のとき掃除機の吸出し口をスライドさせずに縦にパンパンと叩いていると、『縦に叩かなきゃゴミを吸わない掃除機なら、不便でしょうがないね』と、大笑いされた。 
 世間の人はお嬢様を苦労知らずと言うけれど、そんな女が一般人として働くことの苦労を世間の人は分かっていない。
 同僚も先輩達もその限りだ。
 それでもたった一人だけ私と苦労を分かち合える同僚が居る。
 山野美夕(みゆ)だ。
 彼女もお嬢様と呼ばれる立場だけれど、彼女の実家は関西にある。
 なのでこちらではマンション暮らしで、タクシーを利用しているし、関西出身なので私ほど好奇の眼には晒されない。
 同じ時期に有給を取って互いの実家を行き来する仲でもあるし、橘和コンツェルンの関係の人って聞かれて、私の実家はその橘和家とは遠縁の普通の家だよって言い訳しないのも彼女にだけだ。
 彼女の家もうちに負けず劣らずの芦屋にある大豪邸で、実家に帰ればお嬢様と呼ばれていた。
 また結婚をしろと両親に言われているのも、研修のときに笑われたのも同じだ。
 彼女は掃除機の吸出し口をスライドさせたは良いが、スイッチを入れずに掃除機を掛けようとしていたからだ。
 従業員食堂で昼食が口に合わずに吐き出してしまったのも同じ。
 男性の同期に何の魅力も感じないところも同じだ。
 お父様が東京に来た時のお宿がこの赤坂マジェスティホテルで、お父様がここの会員だと言うところも同じ。
 だから唯一私の素性を知っている美夕もそろそろここに来る筈だ。

 とか考えてると、その通りに美夕が駆け込んで来た。
 あろうことかグッチの新作の赤のワンピを着てる。
「着替えは? その格好で出勤する訳」
 私が鏡越しに懐疑の眼を向けると、鏡越しに美夕は両手を合わせていた。
「まさかそんな訳無いでしょ。
 ね、麗香貸してよ、赤山のスーツもう一着持ってるでしょ。
 吉田さんに言ってよぉ、早くぅ」
「しょうがないわね」
 そう言って吉田さんに電話をすると、五分もたたないうちにいつものコンシエルジュがもうひとつのスーツケースを持ってきた。
 その間に地味めのメイクに直していた美夕がスーツケースを受け取って、カーテンで仕切られたスペースに入って着替えをし出した。
         ー5ー

 ここのメイクルームは広めだけど、元々カーテンで仕切られているスペースはなかった。
 なので私がお父様に言ってカーテンを付けて貰うよう、無理を通したのだ。
 そう言うときはやっぱお嬢様で良かったと思うけど、世間の人が思うほど良いことばかりではない。
 それが証拠にわざわざ量販店のスーツに着替えるなんて、こんな面倒なことをしなければならないんだから。
 着替え終わった美夕は髪を引っ詰めて、私同様フロントコンシェルジュの山野美夕になっていた。

 さて、いよいよ出勤のときがやって来た。
 ふたりでメイクルームを出てから私は美夕に聞いた。
「それはそうと何か食べたの?」 
 すると美夕は私の座っていたテーブルから通りすがりに、生ハムとサラミを挟み込んだパニーニを一切れ取った。
「今から食べるとこ」
 言うやパニーニを口に頬張る美夕と眼が合い、ふたりで笑った。
 エレベーターに乗って地下まで降りる。
 そして美夕はエレベーターの中でパニーニを口の中でモグモグさせながらも、さすがだと思えるひと言を言った。
 何故って私の唯一のお嬢様の名残りであるパールのピアスを見て、「今日してるそれって、オーロラの花珠でしょ。
 ま、見るものが見なけりゃ分かんないか」、と、言ったのだ。
それでも美夕以外は見抜けないだろう。
 ショートカットの髪から覗くこの私のピアスが、フェイクではないことを。
 勿論職場ではフェイクって偽ってるけど。

 地下のエレベーターホールでいつものように待っていた吉田さんに退社時間を告げ、この先のメトロの連絡口に向かう。
 わざわざ地下まで降りる理由は、如何にもメトロに乗って出勤してきたように装う為だ。
 美夕とふたりメトロへの連絡口のアーチをくぐれば、いよいよ私達のフロントコンシェルジュとしての一日が始まる。
 赤坂マジェスティホテルのゲストとしてではなく、隣接する赤坂ファイブスターホテルのフロントコンシェルジュとしての一日が。

         ー6ー
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