消しゴム

文字数 1,829文字

 ある二十七歳の女性が、日記の三か月前のページを消しゴムで消している。その日出会った男性の名前とその日の楽しい出来事が記載されていたが、徐々に消えていった。彼女が丁寧に消しゴムのカスを手で払うと、そのページは真っ白に戻っていた。それから、3Bの鉛筆を手に取り、そのページに〈特になし〉と書き込んだ。

 彼女は両親と兄の四人家族で育った。彼女は物心ついた頃から、友達の親の様子を目にしたり聞いたりするたびに、自分の父親はとても厳しい人間だということを感じていた。「父親は娘には優しいものだ」という常識の通りに、世の中には優しい父親が圧倒的に多いということを感じていた。
 父は子ども二人を分け隔てなく厳しく育てた。怠けたり約束を守らなかったりすると、父の怒りは凄まじく、彼女は震え上がった。兄も同様に父を恐れているようであったが、男の本能としていずれ父親を超えていくという信念があるのか、兄は彼女ほど委縮していないようであった。

 彼女はまじめな性格なので、自分なりに努力はしているつもりであった。しかし、上手くいかないことが多く、そのたびに父から厳しく指導を受けた。父の言葉を聞いていてその通りだと思うことも多かったが、その通りできないから苦しんでいるのだ。それが分かってもらえないことが彼女にとっては一番つらいことであった。

 彼女は徐々に自信を失い、慎重になっていった。失敗するかもしれないという気持ちが常にあり、何事にも思いきり打ち込むことができなくなっていった。そして、実際に失敗するとそのことをいつまでも気にして、さらに慎重になっていった。
 そのような心の変化と共に彼女の日記の書き方も変化していった。最初の頃はボールペンで書いていた日記は、ある時から鉛筆で書くようになった。そして、鉛筆で書いても鉛筆の跡を完全には消すことができないことが何度かあったため、彼女は3Bの濃い鉛筆を使い、力をいれずに撫でるように記載する癖がついていった。そうすることで、後で消しゴムで簡単にそして完全に消すことができるようになった。


 ある日、父が交通事故で意識不明となり病院に運ばれた。集中治療室で死んだように横たわる父を、彼女は小さな窓から眺めていた。見たことのない医療器具から伸びる管につながった状態で何も言わずに横たわっている父を見て、彼女は今までの父との思い出が頭の中に蘇ってきた。一つ一つの思い出は、長い年月を経っても薄れることなく、はっきりと思い出された。そしてその多くは、厳しい父から叱責を受けた時の辛いものであった。彼女の心の中の記憶は、3Bの鉛筆ではなく、ボールペンで書いたもののように、くっきりと刻まれていた。

 医者は翌日、三人の家族を呼んで、父の脳死を告げた。母は取り乱して泣き崩れ、兄は冷静に受け止め、母を抱きかかえていた。彼女は頭が真っ白になり何も考えられなくなっていた。
 それから一週間、母の気持ちの整理をつけるため、父は生命維持装置で生き続けた。父の脳死という事実を聞いた後は、彼女は不思議と父との思い出が蘇らなくなっていた。
 そして、母の決断により、生命維持装置は外され、父はこの世の存在ではなくなった。

 家族だけの葬儀の後で、火葬場に行き、父の遺体は台に乗せられ火葬炉の中に入った。三人はほぼ無言のまま控え室で待った。
 それから、三人は白い灰となった父の遺骨を拾い上げた。
 あれだけ厳しかった父は、灰となって、まるで存在感がなくなってしまっていた。彼女はこの一週間、不思議と思い出すことのなかった父との様々な出来事を思い出していた。辛くて忘れようとして実際に忘れていた事もいくつも思い出された。しかし、父を恐れて委縮していた当時の感情は全く戻ってこなかった。当時の父と自分の様子を客観的に観察している今の自分と、目の前に存在する父の灰とが、不思議なコントラストとなっていることに、彼女は何故かすがすがしい気分になっていた。

 彼女は、自宅に戻り、自分の部屋で一人になり、父の交通事故の後空白になっていた日記を開いた。しばらくぼんやりと眺めていたが、彼女はいつものように3Bの鉛筆を手に取り、鉛筆を両手で握り、思いきり力を入れて真っ二つに折り、近くのゴミ箱に放り込んだ。
 そして、先ほどコンビニで買ったボールペンを手に取り、少し考え込んでから、大きく伸びをし、空白のページに力強く書き込み始めた。

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