最終話 世界で一番

文字数 2,324文字

「だけど、好きだから同じだけ相手も好いてくれる、なんて世の中都合よくできてないよね。繋は、繋の好きなようにしたらいいよ」

「……好きなように……」

「うん。嫌なこと我慢してると、身体に悪いよ」

――嫌だ、私何言ってんの? 馬鹿じゃないの?
――好いてよ!
――私を好きになってよ!! 

 そんな自分の中の騒がしさを飲み下し、ぽんと六華は繋の肩を叩いた。

「もうすっきりしようよ、ね? 辰叔父たつおじさんには私がわがままだったって言っとくから」

 その途端、六華は小さく悲鳴を上げた。

――あ。

 背中に固い壁が当たった。
 腰と壁、首と壁の狭い隙間に力強い腕がしっかりと回されていた。
 六華の身体は、壁と繋の身体にぴったりと挟まれている。
 うなじに男の息がかかり、唇の柔らかさと歯の固さが耳朶にそっと触れた。

「あの……繋、……私まだ風邪の菌撒き散らしてると思う」

「……うん」

「風邪伝染っちゃうよ」

「うん」

「一昨日から風呂入ってないし汗臭いし」

「いいから、ちょっと聞いて」

 ぐいっと甘えるように、繋は六華の頭に頬ずりした。
 一息置くと彼は低く、唸るように言った。

「僕はものすごく優柔不断で、自信がなくて、人がこわいんだ」

「うん、知ってる」

「一生懸命、人前でも平気な自分っていうのを装ってる」

「わかってる」

 何でもわかっているという六華が、繋はもどかしかった。

「もうどうしたらいいかわからないんだよ」

 六華は自分を抱き締めている繋の顔を見ようとしたが、頬を寄せられてうなじと側頭部しか見えない。
 
「こんな僕が結婚して誰かとずっといるなんて無理だよ。特に六華みたいな、誰にでも好かれるタイプとは」

 悲しげな声だった。

「絶対愛想つかされる。絶対嫌いになるよ。もう目に見えてる」

「絶対って言葉、使わないで」

「……だって……」

 泣き虫毛虫なことを言い綴っているくせにその腕は緩まなかった。
 辛うじて隙間を見つけ、六華は腕を上へ伸ばし、男の短い髪を撫でた。

「大丈夫。そういうのひっくるめて好きっていう女もここにいるんだよ」

 六華は頭の重みを繋の胸に預けた。

「繋、初めてだよね。本当のこと言ってくれたの」

「うん」

「私のこと好き? ほんとのこと言って」

「……」

「怒らないし、泣かないから」

「こわい……」

「こわいの?」

「大好きだからこわいんだよ」

 半泣きで、怖い、怖いと繰り返す男と、病み上がりの女はしばらくただ黙ってお互いを抱き締めていた。

 三日後、六華はリビングのこたつでみかんを剥いていた。
 その向かいでは、繋が体調を崩し上瞼が半分しか上がらない状態でのびている。
 彼はマスクを下ろしずびずびと洟をかんだ。

「ねえ……ベッドで寝てたら?」

「鼻が詰まって眠れないんだ」

 風邪で傷んだ声帯でそう言いながら、繋は鼻腔にスプレータイプの点鼻薬を()す。
 その繋の顔を六華は楽しそうに頬杖(ほおづえ)をついて見ていた。
 繋はまたマスクで口鼻を覆いながら訊ねた。

「何見てるの」

「しゅってやるとき、繋がいちいちビクッてするのが面白い」

「だって感覚器の中で何かがぶしゅって出てきたらびくってするもんじゃない?」

「ああ、するね。声出ちゃうときもあるね」

「六華ってほんとに下ネタ好きだよね」

「あなたもね」

「僕は……そんな……」


 (なじ)りかけて、繋が大きなくしゃみをした。
 さらにもう一回、と身体をわななかせたが空振りに終わり、生理的緊張が解けた安堵なのか照れ隠しなのか、うーと犬のように小さく唸る。
 可愛いなあと六華は思った。

「ああ、そうだ。今度の週末、時間ある?」

「土曜日のドレス合わせが終われば、予定はないよ」

「あのさ、僕が子どもの頃家族で行ってたレストランって、オーナーが高齢で店畳んじゃってたんだけど」

「ああ、トライフルの店ね」

「うん。調べてみたら、そこの息子さんが店の名前を継いで、別のところでやってるらしいんだ。ここから高速使って二時間くらいのとこで」

「じゃあ昔のメニューもやってるの?」

「うん、復刻してるって」

 幼い頃、両親と幼い妹と一緒にはしゃいで歩いた道。
 道々、子どもの目には街路樹がはるか高く聳え、店の前の花壇で陽を浴びて慎ましく咲く花が豪奢に見えた。
 ドアを開けた途端に身体を包む、色んなソースやバターや、コーヒーの匂い。
 華やかさはないが小ざっぱりとした店での、温かい語らいと笑い声。
 そんな思い出を傷つけることになるかもしれないという小さな不安を押し殺し、繋は六華に言った。

「一緒に行こうよ」

 美化され過ぎた記憶が傷ついてがっかりしたとしても、それはそれでいい。
 六華と一緒に思い出を覗きに行けば、繋は自分自身の新しい道を素直に歩み始められそうな気がしていた。

「うん、世界で一番おいしいトライフル、食べに行こう!」

「世界で一番じゃないよ……思い出補正がだいぶ入ってるだろうし」

「興ざめなこと言わないの、もう!」

 こうやって何かにつけ自分が傷つかないよう身構える繋を、六華は明るく引っ張っていく。
 それに身を任せていれば、きっとみんなうまくいくのだ。

「それにさ、昔通り美味しかったとしても」

 ちょっと言葉を切り、照れを隠すように繋はほんの少し目を伏せて六華の前にあるみかんを一つ手に取ると、剥きはじめた。

「今はもう世界で二番目だよ」



    <了>
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