第2話 たぶん、夢

文字数 1,963文字

 とりあえず、六華は理佳の質問に答えた。

「どこって考えるとわかんないんだけど、ただ、繋と一緒にぼけぇっとしてると、なんかいいんだよね……落ち着くんだよ」

 特に何を語らうというわけでも、するというわけでもなく、空間と時間を分かち合っているだけののんびりさ。
 今まで味わったことのない、なのに懐かしい香りのする、不思議な依存性のある心地よさ。
 しかしそれは六華が一方的に感じていたものであって、気の弱い繋にはその沈黙が苦痛だったのかもしれない。

 六華は暑さを覚え、夜着の上に羽織っていたパーカーを脱いだ。

「薬、飲んだ?」

「うん、さっきね」

「もう寝た方がいいよ。見送らなくていいから」

「うん、ごめんね」

「じゃあ、おやすみ。お大事にね」

「うん、またね」

 理佳は帰って行った。
 自分を置いて親しい相手が出て行ったあとは寂しい余韻があるものだ。
 寝具に、六華は顔が半ば隠れるまで潜り込んだ。
 熱感を持った鼻腔が、空気を通すたびにひりつき、生クリームたっぷりのプリンが胃にもたれている。
 頸動脈を冷やしていたアイスパックももうとっくの昔に溶けて、首元でぬるくぐにゃぐにゃしている。

――あーあ
――なんかいろいろ、もうだめだな

 もう、何をする気力も起きない。六華はぬるいアイスパックをおざなりに首の横に置いた。

――なんか、聞き分けのいい女みたいなこと言っちゃってさ
――馬鹿だな、私

――繋のとこに乗り込んで、泣きわめいて、暴れたいな

 六華がうとうととしていると、ふと首から圧迫感が消えた。
 目を動かすのも大儀だ。薄く瞼を開けるとペンシルストライプのシャツの袖を肘までまくり上げた腕が目に入った。
 その大きな手が、人肌に温まりきったアイスパックを掴んでいる。さっきまで六華の首に巻きつけてあったものだ。
 狭い視野に、ベッドの隅にごく僅かに腰を預けて座っている男が見えた。
 レースカーテンを透かした光が彼を暗緑色に照らしている。
 男は落ち着かない様子で溜息をついた。何やらパッケージを足元の袋から取り出してひとしきり読んで、そこから取り出したカンファーの匂いがする冷却パックをハンカチに包んで六華の首の脇に置いた。
 繋は小さく低く言った。

「起きてる?」

「…………」

 返事をすると、この場にふわりとかかった靄のような雰囲気が消えてしまうような気がして、六華は黙っていた。
 しばしの沈黙の後、繋は少し荒れた、長い指の六華の額に触れた。
 熱の籠る肌に、その手は快かった。
 繋の手はそのまま、触れるか触れないかの幽けさで頭を撫でる。
 病熱を溜めこんだ体中の血が、静かに流れ出すような感覚が心地よい。
 温かい波が寄せては返すように何度も撫でる手に、これは夢かもしれないな、と六華は思った。

「……早く良くなって」

 小さく優しく言われ、これが夢だということが六華の中で確定した。
 いつも繋が自分へ向けて発する大人しげな言葉は、どこか情の薄さを感じさせた。
 でも今は、何となく温かい。

 しばらく撫でた後、繋は立ち上がり、足元の紙袋を掴んだ。
 寝室から出ようとするその背に、ふわふわと現実感を持たないまま六華は声をかけてみた。

「ありがとう」

 繋はびくっと振り向き、六華がぼんやりとこっちを見つめているのに気が付いた。
 まずいところを見つかった、とでもいうように繋は口をへの字にし、指を拳に握りこむ。

「……起きてたんだ」

「起きてないよ、多分」

「……え?」

「……夢だよきっと」

「夢……?」

「繋は絶対自分から私に触ったり撫でたりしないもん」

「……そうだね」


 夢だったら、言いたいことを言ってしまおうと思った。
 夢の中なら風邪だって伝染しない。小心なくせに頑固なこの婚約者も、怯えたり気味悪がったりしないに違いない。

――何しろ、この繋は私の妄想なんだから。

「ねえ、ここに座って」

 腕を布団の中から抜き出して、掌でぽんぽんとベッドの縁を叩いて見せると、繋は素直にやって来てもう一度そこへ座った。
 普段の彼なら、しり込みし、眉間に皺をちくっと寄せるはずだ。
 やはり、夢の中はいいものだ。

「おかえり」

「…………」

 繋は、ただいまとは言わず、ひどく居心地悪そうな顔をした。

「元気だった?」

「うん」

「私は元気じゃないよ」

「風邪だってね。理佳から聞いたよ」

「ついさっき理佳ちゃんがお見舞いに来てくれたよ」

「そうなんだ」

 繋が出ていく前の、少しぎこちなかった穏やかな日々を思いだし、六華は重たい瞼を閉じてゆっくり微笑した。

「繋が帰ってきてくれてよかった」
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