第2話

文字数 3,352文字

この国の朝は早い。人々は仕事や学校、買い物、もしくは予定がなくても早くから出かける。早朝何時から開店なのか今でも確かめたことはないけれど、7時半にはもうバールと呼ばれるコーヒー店が開いており、中ではたくさんの人がコーヒーを立ち飲みしたり、朝食用のクロワッサンを食べている。お隣のエンマも毎朝バールに旦那さんのニーノと行くことを日課としている。エンマ夫婦は60代ぐらいの初老カップルで、この街から車で2時間半程離れた中部出身らしいが、田舎は退屈だと普段はここに家を借りて住んでいる。ここに住む理由と身なりから裕福であることは間違いない。
その日の朝、玄関で加那子に靴を履かせているとふわりとオードトワレの匂いがした。エンマがいるなとわかる。玄関からでると、やはりエレベータの前にエレガントに決め込んだ彼女に会った。品の良いロングスカートに胸元にはキラキラした飾りに縁取られた黒のモヘアのニット。肩に毛皮のような短いジャケットを上手く合わせている。
「あら、おはよう」
「おはよう。ニーノは?」
「先にバール行ってるって30分も前に出ていったのよ。それより、エレベーターがずっと動く気配もないのに使用中なの。ピエトロ呼んだんだけどいないの。たぶん外でおしゃべりでもしてるのよ」
「ああ、誰かがまた開けっ放しか、ちゃんと閉めなかったのかもね」
このマンションのエレベーターの開閉は手動である。外扉と内扉があり、どちらかの閉めがきちんとされないと使用中の赤ランプがついたまま動かない。私たちは最上階の9階なので、被害をよく被る。その度に、足で降りて扉が半開きの所を突き止めて、そこ乗るかもしくはマンションの真ん中が吹き抜けになっているので、入り口に住んでいる管理人のピエトロを大声で呼んで、上ってもらいながら犯人の階の扉を閉めてもらう。
「いいよ、私、降りながら確かめる。見つけたら声かけるわ」
加那子といっちに、いっちにと拍子をつけながら降りる。この地域のマンションは1900年代初頭に建てられた4~5階建てが多く、どこも吹き抜けの周りに階段があるタイプである。その後、後付けでエレベーターがつけられたため、たいていは吹き抜けのあった場所にエレベーターが設置されているため建物の中が暗い。私達のマンションは戦後作られたタイプで、吹き抜けが残されコの字の真ん中にエレベーターが取り付けられており、この界隈では珍しいタイプ。上から覗くと結構怖いが、明るくて印象が良かったのがこのレーガロンバルダを借りようと決め手になった。
開いた扉は見つからず、結局下まで行きついた。郵便受けが並ぶ小さな玄関ホールの方に向かうと、ピエトロは入口で箒を持って立っていた。
「おはよう、ピエトロ。エレベーターが使用中のままなの。エンマが…」
と、言いかけた時、背中で聞いた事がないドーンとすごい音がした。外に出たがる加那子を強引に抱き上げ、ピエトロと吹き抜けの下を除くと、地下にある掃除用具を入れておく小さな小屋の様な建物の上に大きな穴が開いていた。薄暗くハッキリは見えない。何かカチンと落ちてきた様な音がして見上げると、朝の光の中にエンマの頭が見えた。私は自分が井戸の底から見上げているみたいな錯覚を起こした。
「ひっ、ひひょが、ひひょが」
エンマのハッキリしない叫び声が何度かした。ピエトロが「なんてこった!」と言い捨て、地下の階段を駆け降りた。
「アカネ、警察!警察を呼べ!人だっ、人が落ちた!」
「呼べって、え?わかった、探してくる!」
「ばか、携帯!携帯あるだろ!電話しろ!」
加那子を降ろし、震える手でカバンを探る。やっと見つけた携帯は、押そうにも手が震えるし、頭がクラクラする。そして番号が浮かばない。
「警察って、えっ?何番?110番?」
「違う、えーと、何番だ?くそっっ!」
加那子が怯えて足にしがみつく。一瞬よろけた時、誰かが肩を掴んだ。
「おっとっと、どうしたんだい?僕の奥さん、まだ朝食にこないんだけど」
場違いな呑気な声とともにニーノが私の肩を抑えていた。エレガントなクリーム色のジャケットと、折り目の正しいおそろいのズボンの裾から覗く、素足にローファーが目に焼き付いた。
「ニーノ、警察に電話してくれ!人が落ちたんだ」
ピエトロが階下から叫ぶ。ニーノは、私を押しやり吹き抜けの下を覗きこんだ。
「エンマはどこだ??エンマ!」
「ちっ違う、エンマは上!」
私は必死に上を指さす。
「ニーノォォォ」
「頼むから電話してくれ!」
頭上からはエンマんの、地下からはピエトロの声が響いた。

後はニーノとピエトロがしている事を現実感なく見ていた。たくさんの住人が何事かと聞きながらも、朝の忙しい時間で消えていく。いつの間にか警察がいる。エンマとニーノと私は家で待機するようにいわれた。この国は警察がやたらと多い国で、目で見てわかる範囲でも四種類警察がある。制服が違うのでわかる。来たのは一番大きな組織、軍警察だった。しばらくすると、彼らが家に来た。軍警察は、文字通り軍の一部で何となく怖い。名前と生年月日を言わされ、さらにアイデンティティカードの提示をさせられた。何時に家を出て、エンマと何分話し、エレベーター使用中は確かだったのか、なぜ階段を降りたのか、いつ階段を降り始め、何分かかり下に着いたのか、ピエトロはどこにいたか、など事細かに質問を重ね、全てをメモしていった。少しでも曖昧だったり、口ごもると、
「どっちだ?覚えてない?なぜそう思った?」
威圧的な話し方で嫌になった。最後に私が供述したことを事を読み上げ、
「間違いないな?」
と念を押され、自信なく頷く私にサインまでさせた。誰が落ちたのか、ここの住人なのか質問したかったが、とても出来る雰囲気ではなかった。
次の日には知りたい事は全部わかった。エレベーターで会ったメイディ、玄関ホールにいるピエトロ、ピエトロと仲がいい隣の管理人、いつ会っても犬を散歩させているおばさん、皆あたかも自分が見たように、身振り手振りで話している。落ちた人は中年の男性で自殺だった。このマンションの住人でも、この地域の人でもなかった。ここは9階までしかないが、エレベーターは10階まである。10階には屋上に行くための扉があるだけで、ピエトロしか行かない。その人は10階までエレベーターで昇り、エレベーターの扉を開けっ放しにしたまま飛び降りた。みんなの話を繋ぎ合わせ、私とエンマしかその場にいなかったことを考えると、エンマがエレベーターを待った時間は、その人が10階まで昇り躊躇ったであろう最後の時間だった。噂話の中心、エンマはいなかった。朝早く、しばらく地元に帰るとニーノがピエトロに挨拶をしていったらしい。

噂も下火になった1ヶ月程経った朝、いつものように玄関で加那子に靴を履かせていると、ふわっとエンマの匂いがした。扉を開けると、エレガントなコートを羽織り、洒落た大きなショールをまいたエンマがエレベーターを待っていた。
「あら、おはよう。ちょっと留守してる間にすっかり寒くなったわね。でも、こっちの方が湿気がないから過ごしやすいわ」
「おかえりなさい。ニーノは?」
「早速、朝早くからバールに出かけたわよ」
ちょっとの沈黙。私は聞いた。
「元気にしてた?」
「まあね」
「ちょっとショックだったね」
「まあね」
それから、ふふっと笑って彼女は顔を赤くした。
「みんなはショックでここを離れたと思ってるから、丁度いいと思って黙ってるんだけどね」
「うん?」
「実家に帰ったのはね、あの日入歯落としちゃったの。歯医者だけはね。ずっと地元にかかりつけがいるの。新しく作って貰うために帰ったのよ。もう、あの後、警察は嫌な感じだし、上手く話せないし最悪だったわよ」
カチっと何か音がして見上げたら彼女が見えた事を思い出した。
「ショックかどうかわからないの。ほんと、自分で死ななきゃならない理由を抱えたのは気の毒だけど、私にとっては知らない人だしね。息子さんがどうやらいたみたいよ。残された人達は一生彼の人生背負う事になるわよね。でも責めることも難しい。死ってそういうものよね」
考えを嚙みしめるようにエンマは言った。それから、
「ほら、エレベーターが来るわ」
と安心したような顔を見せた。
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