第1話

文字数 2,291文字

 締めかけられた手動のエレベーター。急いで扉を強引に抑えると、観音開きの扉が内側に開かれた。乗っていたのはメイディだった。
「あ、ごめん」
「びっくりした。いいよ。」
メイディは8階に住むモロッコ人一家の子。うちは9階。レーガロンバルダ通り13番地のマンションは、一つの階に4世帯。エレベーターを挟んで左側に二世帯、右側に二世帯。間取りは左端が広くて右に行くほど小さくなる。メイディ達は一番左で7人家族、私の家は一番右側で3人家族。マンションは丸いコの字で、私達の寝室の窓から顔を出すと、メイディ一家のベランダがすぐ下に見える。
息を切らしている私を見て、メイディはからかうように聞いた。
「随分急いできたんだね。カナコを忘れてきちゃったの?」
おチビちゃん、かわいこちゃん、カーナとこのマンションで呼ばれる1歳の娘。メイディは耳慣れない外国名を律儀に覚えてくれている。
「熱がでちゃって。薬局に薬を買いに行ったんだけど。ないっていわれたの」
メイディはちょっと面食らったような顔をして、
「熱高いの?なんて薬?」
と聞いた。彼は専門学校に通う16歳。私の生活に縁のなかったアラブの血、浅黒い肌に大きな体、大きな目に濃い眉毛。さらに若い子特有の着崩したファッション。道端で会えばちょっと怖い。でもとても細やかな人なのを知っている。
メモを見せようか迷った。薬屋でメモを見せた時、こんな薬はこの国にないと言われたからだ。嫌な言い方であったが、私も電話で医者に聞いた薬の名前に自信はなかった。ここは具合が悪くなると、まずかかりつけの医者に連絡して支持を受ける。聞いたことがない単語や、苗字などの名詞は間違えることが多い。もう一度医者に確認しますと、帰ってきたとこだった。説明しようとしたら、16歳を前に涙が出そうになった。慌てて上着のポケットに入ったくしゃくしゃになったメモを見せた。
「サ-ラも良く熱を出すから、おばさんが知ってるかもしれない。今日は休憩時間家にいるって言ってたから聞いてみるよ。アカネは家にいて。後で知らせるよ」
がちゃんと大きな音を立ててエレベーターは先に9階に着いた。彼一人とエレベーターに乗り合わせると、必ず私たちの階に先に行ってくれる。彼の言葉で力が抜けてしまい、ありがとう、とつぶやくようにお礼を言って私は降りた。

 加那子は苦しそうに眠っていた。月曜から金曜の間しか、かかりつけの医者は受け付けてくれない。今日は土曜日。金曜の晩に熱っぽかった加那子は、常備していた熱さましで一旦は落ち着いたが、今朝また熱が上がり始めた。もう一度熱さましを与えたが、下がる事なく40度になり、焦って医者の携帯に電話した。非常時には受け付けてくれることになっているが、土曜である。なかなか捕まらず、遠慮しながらかけた4回目でやっと答えてくれた。薬名をいわれ、それで熱は下がるだろうといわれた。夫は出張中で不在。熱を出した加那子を連れて出ることもできず、離れると泣く。寝かしつけに時間がかかった。昼過ぎにやっと眠った加那子を置いて、薬局に走ったのだ。幸いマンションのすぐ横に薬局がある。しかし昼休みであった。何年たとうがついつい忘れてしまう、昼の1時頃から4時頃まで皆休む習慣。入口に24時間やっている薬局リストが貼ってあり、家から5分程の広場が載っていた。加那子が起きてしまわないか不安であったが、迷う時間があるならと走って行ったら、こんな薬はこの国には無いと言われたのだ。なかなか電話に出ない医者、仕事でいない夫、昼休みに閉める薬局、こんな薬はこの国に無いという薬剤師、そして夫不在の土曜に熱を出す娘。それを自分だけで背負う気持ちになっていて息をするのも忘れていたことに気づいた。眠っている加那子の頬に触れると柔らかくて熱い。何をするにもちょっと力のいる外国生活に疲れて涙がポロポロでた。息を吸ったり吐いたりしながら泣いた。呼び鈴が短めに鳴る。扉を開けると、メイディのおばさんのファーティマが立っていた。彼の家族は、メイディ、ファーティマ、ファーティマの娘で今年小学校一年生になったサーラと弟のオーマル、サーラのお父さん、あと、おばあさんと男の人が1人いる。ファーティマは、薬の箱と私の書いたメモをを渡してくれた。
「これ、一回分しかないんだけど。同じ薬よ。うちも先々週サ-ラが熱だしたんだけど、良く効くわ。取りあえず使いなさい」
ファーティマがくれた薬の名前は、私の書いたメモと一字違いであった。小さいけどいつまでも残る無意味な差別。怒りと屈辱感で、体がかっと熱くなった。
「4時に下の薬局行きなさい。私そこで買ったから同じのあるわよ。もしなくても、午後一番に行行って事情を話せば、すぐに注文してくれるし、夕方には手に入るわ」
そして、お礼も言わずにメモと箱を眺めている私の考えを読むように彼女はこういった。
「あなたのメモを読めない人はずっと読めないし、読める人は最初から読めるわよ。そういうものよ。私はもう今日は家にいるから何かあったらいつでも言って」
彼女はにっと笑って、私の肩をを優しく叩いて階段を降りて行った。慌てて背中にお礼を言った。そっと重い扉閉めると加那子の泣き声が聞こえた。
 薬を飲ませて一息つくと、抱き上げてキッチンでひとまずエスプレッソ用のモカにコーヒーの粉を詰めた。私は加那子を抱いたまま椅子に座り自分のメモと、ファーティマに貰った薬の箱を並べてみた。試しに下の薬局で自分のメモを見せてみようかなと思った時、コーヒーが勢い良く噴き出しキッチンにいい香りが広がった。メモをゴミ箱に捨てた。
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