第1話

文字数 3,220文字

舞台上には老人と青年。古びた木造建築で対話が行われている。窓の外にはリンゴの木が一本生えている。
老人「今の私にとって最も素晴らしい暮らしとは、淡々と仕事をすることに尽きるのかもしれません。」
男は、そう述べるとふっと窓辺に映る外の景色に想いを馳せた。
すると、男はテーブルの上にあった真っ赤なリンゴを手に取り、一口かじって言葉を重ねた。
老人「私は、世界史の中に位置付けられる戦争のような、自分では到底処理ができない非常に大きな出来事を考える時間が長すぎました。」
テーブルを挟んで向かい側に座って、彼の話に耳を傾けていた私は、納得しつつも、展開の読めない彼の口ぶりに少々苛立ちを覚え始める。
私は腕時計を見ると、壁の時計の時間がズレている事に気がついた。
そんな私の些細な発見などまるで意に介さないように男は、またリンゴをかじり始める。
老人「マクロに見える物事も、根本に存在する大元を辿ればミクロな事象の集合体です。あなたにそれが分かりますか。」
私は率直に意味が読み取れないことを嘆いた。
青年「いいえ、あなたの話は半分も理解できません。」
男は、掛けていたメガネを、3mm程動かすと、とても驚いた表情を見せた。
老人「では、リンゴをかじることはできますか。私の話は体験しないとわからないでしょう。」
私は、さらに理解に苦しんだが、テーブルの上にもう1つ置いてあった赤いリンゴを食べてみることにした。
老人「孤独を愛する人間は、リンゴを食べることにも動じない。たとえそのリンゴが真っ赤だとしても。あなたには、私と同じ気配を感じます。もう少し、私の話を聴いてもらえますか。」
私が抵抗せずにテーブルの上から右手に乗せたリンゴをかじると、男はとても嬉しそうな表情を見せた。私は思いのほかリンゴが甘かったので、男に対して気を許し始めた。男の話に共感できる点を見つけろ、と言われても難しかったが。
老人「今、あなたは私から受け取ったリンゴを食べましたね。この果物は、とても興味深い。アダムとイヴは、蛇にそそのかされて、エデンの園の知恵の実、つまりリンゴを食べたことで初めて完全な人間に生まれ変わった。そして、人類の誕生から数千年の月日が流れて、いや正確な時代は特定できませんが、歴史上最も偉大な哲学者。そうです。ソクラテスが古代ギリシアに生まれた。彼は様々な功績を、後世の我々のために残していますが、彼の残したものの中で、一番大きな財産は何だと思いますか。」
青年「そうですね。無知の知を発見したこと、でしょうか。」
老人「いいえ、違います。哲学的な観念も、もちろん重要な功績でしょう。しかし、彼の業績で最も優れているのは、プラトンという師匠の意志を継ぐ弟子が、同時代に存在したという事実です。プラトンは、『ソクラテスの弁明』を始めとして、『パイドン』『饗宴』といった、生涯一冊も著作を出さなかった師匠・ソクラテスに成り代わって、師の言葉を受け継いだ多くの完成度の極めて高い書物を書き上げました。そして、この世界に存在する全てのモノの本質である『イデア(ギリシャ語ではイデー)』を掴み取ります。ここで、先ほどあなたが食べた赤いリンゴを、もう一度かじってみてください。」
私は、一瞬「何故?」と疑問に思ったが、彼の言う通りにリンゴをかじってみることにした。
-私は、ここで、壁の時計が午後2時30分を示していることを確認し、彼とまだ30分は話せることに安堵して、リンゴを一口かじった。
老人「美味しいですか。」
青年「とても新鮮な甘いリンゴですね。」
老人「あなたがリンゴを"甘い"と感じられるのは、何故でしょうか。」
青年「わかりません。リンゴの甘さを認識しているからでしょうか。」
老人「それが、プラトンの考えたイデアにつながっていきます。リンゴをリンゴだと認識し、さらに"甘い"と感じるのは、現実の世界にイデアが顕われたからです。イデアが何を表現しているかわかりましたか。」
青年「わかったような気がします。でも、何故ソクラテスの弟子であるプラトンがそんなにすごいとローランさんが仰っているのかが、いまいちピンときません。何故、プラトンは偉大な哲学者として尊敬されているのでしょうか。」
私は、ずっと手元のノートにペンを走らせていたが、その行為を一旦辞め、彼の話に精神を集中した。
壁の時計の針は狂ったままだ。日は傾き、窓の外から鳥の鳴き声がしていた。
老人「師・ソクラテスの意志を忠実に書物として残した業績に加えて、哲学者プラトンが行なったもう1つの語り継がれている実践は、アカデメイアと呼ばれる本格的な哲学者養成のための教育機関を創設したことでしょう。」
青年「え、学校ですか。」
私は、学校は、当たり前に古代ギリシアにも存在し、ソクラテスやプラトンも大学や大学院を出て、その上で哲学を語っているものだと思っていたが、そんな考えは間違っていたことに気がついてハッと息を呑んだ。
-青年は右手に握っていたリンゴを落としてしまう。
老人「哲学者が現代のような大学を卒業して、哲学士の肩書きを持っていたというのは、ステレオタイプに過ぎます。師匠ソクラテスから弟子プラトンに真の哲学者のバトンが渡されて、アカデメイアがギリシャに建設された。この話は、まるである種の数学の定理のようで美しいとは思いませんか。アカデメイアは『大学』の語源となっています。プラトンも教鞭をとったそのアカデメイアから稀代の哲学者であるアリストテレスが登場します。三代目であるアリストテレス以降、ソクラテス・プラトン・アリストテレスを超える哲学者は、現代に至るまで現れていません。そして三代の哲学者の思想は、我々の生活のいたるところに息づいているのです。」
青年「なるほど。アカデミーやアイデアという言葉は普通に使っていましたが、ギリシャ哲学に由来する言葉だとは気がつきませんでした。あなたの話はとても興味深い。」
私がリンゴを食べたことがきっかけとなって、男の話はだんだんと壮大になっていった。ソクラテス・プラトン・アリストテレスという3人の哲学者の話は知識として知っていたものの、度の強いメガネをかけた男の語り口は非常に軽妙で、彼ほどに噛み砕いて説明する教師には、いまだかつて出会ったことがなかった。最初は男に対して疑いを持って話を聞いていたが、もっと彼と打ち解けてみたら面白くなりそうだと、男に対しての興味が湧いてきた。
-私は部屋全体を一瞥すると自然と言葉が口を突いて出てきた。
青年「あの、時計の針が1時間ズレていますよ。」
老人「ああ、そこに気がついたのですね。あなたなら、時計のことを指摘していると信じていましたよ。」
-男は、壁から時計を外して、テーブルの上に置き、笑顔を見せながら、2つ目の話を始めようとした。しかし、私は腕時計の指す時刻が17時なのに気を取られて、今日の話はここで切り上げようと席を立とうとする。
青年「ちょっと待ってください。もう職場に戻る時間なんです。」
老人「そうですか。でも、聴いてもらいたい話があるので、草原を一緒に散歩しながら語り合いましょう。私も懐中時計を持っていきますから。」
-私は、腕時計をしきりに確認した後、立ち上がり、地面に落ちていたリンゴを拾って、テーブルの下に備えてあったゴミ箱に捨てる。
青年「ええ。それでは職場までの道を歩いていきましょうか。少し遠いですが、構いませんか。」
老人「構いませんよ。30分以上の散歩をすることは私の日課の1つです。そして、若い青年と歩けることほど、私の心を明るくするものはありません。」
-男は、椅子に手をかけて立ち上がると、私におもむろに握手を求めた。私は、人と握手をする習慣がないので、戸惑いながらも、男の求めに応じる。私は、玄関のドアを開けて、男と一緒に職場までの道のりを歩き出した。外に出ると日がすっかり落ちていて、街灯の明かりが夕闇を照らしている。
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