自伝的記憶下の選択

文字数 1,976文字

 私を含む採点スタッフ登録者は全員、博士課程に在籍していたか博士研究員だった。薄給の博士研究員ながら育ち盛りの子供を抱えていた私には、打合せでも手当をくれる入試採点の仕事は、ありがたい収入機会だった。入試委員会により、ある学部入試の記述回答の採点者として、登録者の中から国文学のA、心理学のB、独文学の私の三名が無作為抽出された。Bは前日に深酒したらしく、酒の匂いを身体に残したまま採点室に遅れて入ってきた。Bは、「こんな入試に何の意味があるのか」と入試制度そのものに不満を抱いていたようだったが、そんな議論に付き合っている暇はなく、我々三人は採点に取り掛かった。採点基準は事前の説明会で共有されていたが、採点基準の公平性を万全とするために、三人の採点者の平均を評点とする方式が採られた。
 この年は受験者の内に理事長の親戚がいて、事務局は「苗字は理事長と同じ珍名だからすぐにわかるだろう」と説明したが、私には、採点基準を甘くしろという依頼に聞こえ、頭から理事長の苗字が消えなかった。理事長と同じ珍名の回答用紙が回ってくると、私は甘めに加点しAに回答用紙を渡し、次の回答用紙は通常の基準で採点した。Aは珍名の回答に目を通すと私と視線を合わせたが、視線を回答用紙へ移すと淡々と採点を続けた。
 珍名の受験者の回答用紙をAから受け取ったBは、「おいお前ら、何故この回答にこんな良い点を付けられるんだ」と声を荒らげた。Aと私が言葉を噤んでいると、Bは回答用紙の珍名に気づき、黙って採点を再開した。後で確認するとBは珍名の受験生の回答用紙にかなり低い点をつけていた。そしてBは、次の日以降の採点を辞退した。
 入試の採点を終えると、博士研究員だった私は本学の専任講師となり、理事長の親戚の子の就職の世話をした四年後には准教授となり、地道に研究を重ね足掛け十五年で教授になった。周囲の者らは私を「理事長の靴舐め教授」と揶揄したが、子供の成長と妻の笑顔が私の気苦労を支えた。私は自身が大学人として或いは社会人としてよくやってきたと思っているし、教授となったこれまでの選択を褒めたいと思っている。
 今日の学生には、多様化した価値観に呼応して人生の選択肢も増え、就職のみならず外国の大学院への進学さえも当たり前な時代となり、海外の大学院や研究機関でキャリア形成を考える者もいる。そんな学生向けに、外国研究者との研究エピソードや人生の選択についての逸話を紹介してほしいという留学斡旋会社からの講演依頼が舞い込んだ。留学や共同研究程度の海外経験しかない私には役不足かと思ったが、私を強く推薦する者がある、というので主催者に話を聞くと、フランスの大学で教鞭を執るBだった。
 私は講演の誘いを断ることもできたが、報酬が魅力的だったし、Bにあの採点の後の人生や今日の推薦の真意を聞いてみたくて登壇を引き受けた。しかしBは私を避けているのか、講演日前に連絡はつかず、当日も控え室やその他の場面で一緒にならなかった。最初に登壇した私は、留学や海外共同研究で学んだこととして、人と人のつながりや縁は大切にするように、世の中はきれいごとだけでは進まない場面も多く、ときに割り切った選択も必要だ、といった趣旨の話をした。
 どこからともなく現れ登壇したBは、「選択は記憶が作る」という題で講演を始めた。
「人はいつどこでどんな選択をしても、選択の事実は変えられないが、選択の際に何を思い何に納得したのか、それらを自分の頭の中で好きなように書き換え、自身の自伝を創作物として都合よく編集する。そうしないと選択の後でその選択を振り返るまでに過ごした人生を受け入れられないし、自己のアイデンティティは崩壊するからだ。これが「都合よく編纂する」の意味で、人はアイデンティティを守るために自分の過去の記憶を塗り替える。だがこれは人間としては自然な振る舞いで、周りで容易に事例を見つけられるはずだ。人の「自伝的記憶」は常に真実とは限らず、自分に有利に働くよう客観的事実を置き去りにするものだ。別の角度から言えば、選択の後何が起ころうと、理屈の上では誰しも「選択を間違える」ことは起こり得ない。だから諸君はこれからの自身の選択には自信を持って臨むように」とBは話した。
 学生がどう理解したのかはわからない。しかしBの話を聞いた学生らが一斉に「それが貴方の自伝的記憶か」といわんばかりに視線を私に向けたと感じたのは、私がBを前にして自身の心の内に、過去の選択にやましさを見出したからなのだろうか。私は脇に汗をかきながら、人間としては自然な振る舞いだ、Bも言ったではないか、私は自分の選択に自信を持っているぞ、と学生に目で訴えた。
 Bはうろたえる私には目も向けず、じっと学生の反応を見つめていた。
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