車のディーラー

文字数 1,930文字

 車が売れないので、僕たちディーラーは顧客の車の点検・車検を確実に売り上げにつなげようということになり、顧客に車の近況や悩み事についてのアンケートをお願いしたのだが、ある回答が目に止まった。「安全のためと言ってタイヤ、ワイパー、フィルター他の交換、添加剤の使用等を勧めてくるが、まだ使える物の買い替えや高価な嗜好品を勧めてきて、顧客の安全ではなく自社の売り上げ目的の押し売りを強く感じて不快だ」という内容だった。
 僕はこの指摘に反応して顧客との会話に躊躇するようになり、仕事に熱が入らなくなり、先輩からお叱りを受けた。曰く、我々ディラーにとって収益と顧客の費用負担とは表裏の関係にあるが、その間で身を引き裂かれる思いをするのはお門違いもいいとこだ、事故があってからでは遅いのだ、顧客の安全保守はディーラーにとって最重要の任務だ、安全のために安心を売るのが車のプロたる我々ディーラーだ、顧客のいいなりになって綺麗事に平伏したら飯は食えない、という内容だった。
 所長は、以前のように顧客にタイヤやフィルターの交換を勧められなくなった僕を販売研修に送り出したがあまり成果には結びつかず、顧客対応に支障を来すのはメンタルの問題だから精神科を受診してはどうかと勧め、僕は紹介された精神科を訪ねた。
 精神科医は僕の症状を聞くと、逆の立場から顧客を評価してみましょうと言った。「不要なものを売りつける収益の悪いディーラーを顧客が低評価するなら、ディーラーは必要なものを買わない金満の顧客をどう評価するのか?」と。僕は「難しいですね、顧客の選択の問題ですから」と答えると精神科医はこう言った。「もしその顧客をひどい客だと回答していたら、それはあなたも顧客と同じ立場だから、表示価格で遠慮なく取引しろと助言できるのですが、「顧客の選択を尊重する」という答えは完全に顧客の支配的立場を容認しているので、その顧客と商売したいなら顧客の費用負担にあなたが納得することが肝要だ、そのために何か行動を付け加えてはどうか」という。僕なりに精神科医の言葉を理解すると、顧客の負担する費用に相応な自分の負荷を容認すれば、体と脳が顧客の支払いに納得するのではないかということだ。例えば整備点検の車を顧客に返す前に、丁寧に洗車清掃すれば顧客の支払いを遠慮なく受け取れるようになる、という考え方だ。
 翌日から僕は整備場の一角でお客様から預かった車を無償で洗車した。すると不思議なことに、タイヤやフィルターの交換に感じていた負の考えを緩和できた。だが先輩従業員には不評で、そんなことをされては今後ずっと顧客の車を洗い続けなければならなくなるじゃないか、俺はやらないぞ、お前も続かないぞと言われ、僕は職場でこっそり人知れず顧客の車を洗車する毎日を送った。ひと月後に再び精神科医を訪ね、自分の精神面での不安定さは改善されたが、先輩従業員と軋轢を生んでいる悩みを打ち明けた。すると精神科医は、「これも逆の立場から考えましょう、あなたの先輩の言う『俺はやらないぞ、お前も続かないぞ』は『おまえはやるぞ、俺も続くぞ』と同じことだから、自分の道を信じて洗車をこっそり続けてはどうか」とアドバイスしてくれた。
 考えてみれば綺麗事はどんな業界にも何らかの形で潜在している。節電を訴えるならテレビは放送しないべきだし、紙資源を保護するなら本や雑誌の紙媒体は電子化すべきだし、ガソリン車だって環境を考えるなら乗らないほうがいい。公務員の世界だって国家の公僕といいながら民間企業並みの給与を求めている。でも世界は今日も回る。
 ぼくは精神科医の世界には綺麗事はないのかと聞いてみた。すると精神科医は、
「ありますよ、自分でやらないことや出来ないことを患者さんに薦める時とか、狂気を装うときとか、綺麗事の世界ですよ」と答えてくれた精神科医に僕は、
「綺麗事と現実の間で精神のバランスをとる秘訣とか、具体的に推薦できる行動はありますか」と聞くと精神科医は、
「私は他人の綺麗事の裏表を突くと爽快な気分になりますね。先日自動車ディーラーのアンケートへの回答に、顧客の安全を盾に交換不要なタイヤ、ワイパー、フィルターを勧めて売り上げを伸ばそうとする姿勢が気にくわないと書いて精神のバランスをとりました」という。
 ん、待てよ、ということは、そもそも僕が病んだきっかけのアンケートは精神科医の仕業で、ぼくはまんまと精神科医の餌食になっていたのだろうか。そう思うと僕は、ならばこれからは堂々とタイヤ、ワイパー、フィルターを勧め顧客を餌食にしよう、と思った。
 ん、待てよ、ということは、おや、この精神科医は僕を治癒したのか?
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