第1話

文字数 4,670文字

 彼がここまで来るまでの事をまず語らなければならない。

 小さい頃から彼はネクタイにスーツ姿のサラリーマンを格好悪いと思っており、満員電車に乗って会社に行き、帰りに飲み屋街で飲んで帰宅して待っていた妻に小言を言われる。そいうファミリー向けのアニメに出てくる日本の父親像を彼は嫌っていた。無個性で行動力もなく、追い詰められたときに父性を振りかざす根拠のない権威主義の象徴。その事実を小さな時に朧気に感じ取っていた彼は。普通の就職の道をその時に捨てていた。

 小学校に進学しても、彼は周囲の流れやうねりに飲まれる事なく、自分を保つことに専念した。交流のある友人や同級生は殆ど居なかったし、休み時間の過ごし方も図書室に行って自分の好きな本を読むという、あまり社交的とは言えない過ごし方だった。故に運動も得意ではなく、一人で穴倉にこもって細々と知識を身に着けるという少年時代を過ごしていた。
 そんな日々の過ごし方が、小学五年生の時に担任の耳に入り、三十代半ばの女教師は彼に一冊の本を手渡した。タイトルは『出来損ないの日々』という、小説とも随筆とも分類できない、躁うつ病の作家が書いた本だった。彼は元々小説や物語を読むのがとても苦手な子供で、いつも避けていた類の本であったが、その本だけはすらすらと読むことが出来た。まだ軽薄で所々に毒の混じった文章の持つ奥深さを見抜く事は出来なかったが、大人が大人の為に皮肉や揶揄を込めて書き綴った文章を読む面白さと快楽を、彼はその時身に着けたのだった。読書の本当の面白さを覚えた彼は様々な小説を読み漁った。本当は哲学書に手を伸ばしたかったのだが、まだ小さな身分であった彼には遠い存在だった。代わりに読んだ本はフランス文学ならモーパッサン、コクトー、バルザック。日本文学なら川端康成、芥川龍之介、志賀直哉、木山捷平など。同級生が決して手に取る事の無い作者の本を、彼は夢中で読み、その本の中に書き綴られている世界を言葉で美しく、関連付けさせて描く事を吸収していった。
 そしてその事が自分の体の一部になったのは、小学校六年生の頃だ。群馬で自動車工場の社会科見学の感想文を書く際に、彼はその時の出来事や見た風景、学んだことを自分が今まで読んできた本のような文章。一人の人間の視点からいかに世界が構築され叙述されているのかという文体で書き綴った。その結果使用した原稿用紙は学年で一番の量になってしまったが、内容は他のどの生徒より抜きんでていた。
 その事がきっかけで、彼は五年生から続いていた担任の先生に褒められ、作文の事だけは他のクラスメイトからも一目置かれるようになった。それ以降彼はようやく手に入れた自分の特技を生かして、作文だけはクラスで一番長い量の物を書き続けた。


 しかし、この特技は彼を自惚れさせる原因にもなった。中学に進学すると、元々持っていた周囲とは一線を引こうとする彼の価値観とその特技が相乗効果を生んで、彼を学校生活で周囲とは脱線した生活を送らせるのに十分な役割を果たした。学校の成績は優れた事もなく、文章のみが得意な彼は周囲から奇異な目で見られるようになった。男女問わず他の生徒が見下したような態度を取れば、彼は容赦なく暴力に訴えた。暴力に訴えたのは、論理的に反論するよりも簡単かつ効果があったからだ。二年生の時には授業の合間に大立ち回りをして、制服の白いワイシャツの自分の地で真っ赤に染め上げて、あたかも殺人事件を起こした後のような格好になってしまった事もあった。問題を起こしてしまえば内申書に響いてしまうが、それよりも自分が知覚している苦痛を和らげて自分の意思を貫く事が彼にとって最優先であったし、学校生活の全てだった。その為、彼は定期的にスクールカウンセラーとの面談を義務付けられた。別に彼は何とも思っていなかったが、他の生徒と明確に線引きされたという、揺るぎようのない客観的事実が出来上がってしまった。


 本来なら少年鑑別所に送られるはずだった彼であったが、周囲の厚意や元来の素直な性格も相まって、隣町の高校の定時制課程に進むことが出来た。そこには彼と同じように、太陽の元で堂々と高校生を名乗れない事情を持つ生徒達が大勢いた。彼は入学当初こそ身構えたが、お互いに他愛もない事をネタに会話を繰り返すと、次第に親近感を覚えて友人を名乗れるような間柄の同級生が何人か生まれた。新たにできた友人達と共に、彼は未成年ながら煙草と酒の味を覚えた。それまでの彼からすれば道から逸れた不健全極まりない行為だったが、中学時代のストレスしか感じない生活に比べればはるかに気楽で開放的な日々を送る事が出来た。以前の彼なら見下していたような存在の有人との交流は、彼にとって欠損していた他愛もない関係の大切さを再認識させ、そして不良になるのは自らの意志ではなく無意識のうちに不良へと変化してゆくのだという事を、実体験を伴って彼に教えた。
 そんな風に不良になった彼ではあったが、読書だけは決してやめなかった。理由は単に彼が読書の面白さを知っていたのと、文章に強いことは自分に残された唯一の特技であると自覚していた事だからだった。これを維持して完全に自由に使いこなせないと、本当に自分は何もなくなってしまうという危機感もあった。そして作文を書く機会も少なくなったので、暇な時間を見つけてはくだらない散文や小説らしきものを書くようになった。
 二年生に進級すると、彼は昼間にする事が無い事を理由に、地元のスーパーマーケットでアルバイトを始めた。不良ではあったが反社会勢力の準構成員のような事はしていなかったので、人手不足の店側の要望と相まってすんなり採用が決まった。そこで彼は元々持っていた真面目さと素直さを再び発揮して、開店前の忙しい時間帯の仕事をこなした。
 その仕事で得た収入を元手に彼は不良仲間に影響されてバイクの免許を取り、暫くしてから中古の二五〇ccのバイクを購入した。通っていた高校はバイク通学が黙認されていたので、夕方になり学校へ行く時間になればそれに跨って学校に向かった。まだ十代の少年に近い存在だったが、彼は自分が冒険小説の主人公になったような錯覚を覚えた。
 バイクの免許を取得し勤労するようになったお陰で、彼は自分に対して少し自信を持つようになった。その余裕が、再び彼を文章に引き付け、また創作への興味を抱かせるきっかけにもなった。
 高校三年生に進級すると、彼は一篇の長篇小説を書き上げた。内容は彼の父親の実家がある千葉県の九十九里を舞台にした、つまはじき物にされた少年と順風満帆な日々を送っている幼馴染の女子高生という、ありふれた設定の青春小説らしきものだった。特にどこかの文学賞に応募する為の作品では無かったが、誰かに読んで欲しいという気持ちを抑えきれなくなった彼は、自分達の立場を理解してくれる心の深い教諭数人に作品を読んでもらい、感想を聞かせてもらう事にした。返って来た反応は様々で、技術的なミスは指摘されたが内容に対する文句は無かった。気分を良くした彼はその作品を推敲して、中規模出版社の文学賞に応募したが結果は落選だった。少し残念な気分を味わったが、まだまだ未熟だという事を結果として知ることが出来たので収穫はあった。
 それから時は流れ、彼は高校四年生になった。一般的な全日制の高校とは異なり定時制高校は一日の授業時間が短い分、一年多く通わなければならなかった。そこで進学か就職の選択を迫られた時、彼は就職を決意した。理由はそれまで世話になっていた上野のバイク屋が廃業する事になり、新たに紹介してもらったバイク屋が雑務を行ってくれる従業員を募集していたからだった。そのバイク屋にはもう働くと伝えてあると進路指導の教諭に告げると、その教諭は「そうか」と答えただけで終わった。それきり彼に進路指導その他の話題が教諭から入る事は無かった。

 そうして高校を卒業し、バイク屋に手伝いという身分で働き始めた彼であったが、好きなバイク以外にも、ここまで自分を動かしてきた文学と疎遠になるのは、自分の構成要素が喪失したような感触があった。そこで彼は独学で再び勉強を始めて、地元にある私立大学の夜間部に通う事を決めた。店主は幸いにも彼の学業に対する思い入れに理解があったので、快く大学に通う事を許可してくれた。そして一年かけて勉強をすると入学試験を受け、その大学の夜間学部に入った。専攻は日本文学。入学の年に東日本大震災と言う未曾有の事件があったが、彼はその年を境目に様々な事が変わった日本で生き抜こうと決意し、そのために必要な事を可能な限り貪欲に吸収しようと思って、四年間をバイク屋の店員と学生という二つの身分で過ごした。そこで彼は論文の書き方、レポートや客観的資料の読み方などを学んでジャーナリストの文章の書き方を身に着けた。そして自由科目の宗教学と哲学、政治学の単位を余計に取得して彼は大学を卒業した。
 それからまた一年が流れた。一年間彼はバイク屋店員として働き、大型二輪の免許を取得して一四〇〇ccの大型バイクに乗り換えたが、彼自身のライフスタイルに変化はなかった。それまでの生き方があまりにも変化に富んでいたので、安定した生活と言うのは彼にとって不思議な体験だった。バイクに触れる機会も増えたので、彼が気ままに書く小説にも様々なバイクが出るようになった。
 
 それから程なくして、彼の勤め先のバイク店が他のバイク店と共同でモーターサイクルドラッグレースの団体を立ち上げる事になった。そこで彼は団体が開催するドラッグレースのレース運営スタッフとして参加する事が自動的に決まってしまった。本当なら少し考える時間が欲しかったが、彼はショップの店員として義理があったし、二十代のうちに様々な事を経験しておきたかったので引き受ける事にした。
 専用のレース場を借りる事が出来ないので、レースは地方にある小型飛行機用の飛行場を借用する事になった。一日目を設営と練習走行にして二日目を大会本戦と撤収日とする事で行われる事になった。彼を含めた総勢十人のスタッフに与えられた仕事は、レース設備の設営と撤収にレースの進行。彼はゴール地点の監視の仕事を与えられコースに異常が無いかなどの確認を行う事になった。

 

 その仕事を与えられ、彼は二年間をレーススタッフとして過ごした。そしてスタッフ同士の懇親会で酒を飲み交わしていると、彼は運営団体の役員の人に文学部卒で小説を書いている事を打ち明けた。するとその役員は、レースの事を感想文にして書いて公式サイトに載せてくれないかと提案を受けたので快諾した。理由は今までしてきたことが二つの事が一つに集約されたからに他ならなかった。
 依頼を受けた彼はさっそくパソコンに向かい、レースの出来事を、私小説を編むように執筆した。そして一五〇〇文字程度の事を書いてメールで送信すると、彼の文章は絶賛された。その時彼は自分が今まで身に着けた事、好きだった事を集約して初めて社会に対して奉仕する事が出来た。

 そして彼は自分に与えられた唯一の小さな連載を続けている。様々な事を経験し、文学に救いを求めバイクを人生の足しにした彼が手に入れた、世界で唯一の仕事だった。

                                     (了)
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