第1話

文字数 3,196文字

 バラバラに散らばったテキストを集めている。

 今日は土曜。珍しくバイトも休みだし、外は40度近い熱暑。田舎から仕事を求めてこうして都会といわれる場所までやってきたけれど、どういうわけか金が貯まらない。上京した当初は都会で金を貯めて、田舎に戻ってカフェやなんかを始めて、可愛い奥さんでももらって慎ましく生きていこうなんて思ってましたが、気がついたら今年で50歳。いまだにバイトでなんとか生きています。20代の頃はもう少しやる気があったんですが、仕事とか恋愛なんかにもそれなりに興味があった。でもね、今はそれもなく、毎日ただなんとなくバイトに出かけて、時々、こんな風に休みがあったりするとちょっと嬉しい。もう10年近く1人暮らし。ここまで来ると自分のペースが、自分だけのペースになってしまって他者の入り込む余地が無くなってしまうんですね。

 そういえば昨晩、とても恐ろしい夢を見ました。廃墟の村みたいなもうそこら中草ぼうぼうで、床の落ちた家の中から木が生えていたりする、そんな村でたくさんのゾンビに襲われる夢。逃げようにも隠れる場所がない。内側から鍵をかけてやり過ごすような場所もない。草むらに入れば、足を取られて思うように進まない。それでも、そんな事にはお構いなしと、ゾンビは背後から迫る。っていう夢。目が覚めて、見慣れた部屋の風景が網膜を通って脳にはっきりと認識されるまで、少しの不安があって、それから徐々に、あれは夢だったんだという「夢の思い出」が形成されていく。次に現実の世界が意識を支配していき、夢は朧げになっていくんです。

 現実に戻ってきたことろでまた、テキストを集める。あ、これは私の趣味です。雑誌の切り抜き、ポストに詰め込まれたどこかのリフォーム会社の広告とか、そういったものから、文章を拾い集めて切り抜いてファイリングする。それだけです。ここで断っておきたいのは、文章とテキストの違いです。厳密には違いはありません。文章は日本語、テキストは英語で文章という意味。日本語と英語。ただの翻訳ですから。でもね、それが感覚の世界に入り込むと途端に意味が変わってきます。例えば「太陽」これは実存する星としての太陽の意味ももちろんありますが、明るい未来を想像させてくれます。「君は僕の太陽だ」なんて歯の浮くような台詞ですが、情景がすぐに浮かんできます。でも「sun」だと、太陽。せいぜい、暑そうだな、、、ぐらいのイメージです。英語でもメタファーとしての太陽はあります。「北風と太陽」ギリシャの古典的寓話ですね。でも数々の神話を生み出した古代ギリシャの英語と、現代のアメリカ英語は、全然違うと思うんですよね。古代ギリシャに行った事はないので分かりませんが、とても今のアメリカ英語で、あんなにややこしい神話の数々を生み出せるとは思えません。

 英語は、、、常々から思っていたことですが、記号っぽい。特にアメリカ英語には日本語にはないスパッと切り落とされたような逃げ道のなさがある。だからきっと英語圏の皆さんは言い訳を作るのが難しいんじゃないでしょうか。そこにくると日本語は解釈の幅があるので、ごまかしやすい気がしますね。話を戻しますと、雑誌や広告で活躍している文章たちは、私の切り取り方次第でテキストにもなるし、文章にもなる。つまり、テキストを集めているというより、テキストにしているんです。世の中に存在する文章をテキストにしている。それが私の趣味なのです。おそらくね。

 今日のテキストは面白い。
「1人部屋から1人家へ」
「どこかで見た風景」
「赤とオレンジ」
 女性雑誌の切り抜きです。女医となった女性のエッセイなんですが、これ自体はどうと言うこともない面白味のない文章です。お金はあるけど男運に恵まれず、学生時代の方が華やかだったという話。出版社としては社会の在り方を問うつもりなんでしょうが、私にとっては社会の在り方などどうでも良いことです。と言うより、社会がどう動こうが、隣人が何者であってどういう人生を歩もうが興味がないのです。ただ、こういう興味をそそられない文章ほど切り抜きがいがあるのです。

「1人部屋から1人家」と言う表現が良いですね。学生時代に親元を離れたとありますが、きっとアパートでしょうね。もし寮生活をしていたら、1人部屋という表現ではなく寮生活の中で、といった表現になるでしょう。そんなアパート暮らしの時は明るい未来を想像しながら前向きに勉強に励めただろうし、きっと彼氏もいたことでしょう。「1人部屋」という言葉にはまだ未熟で不完全ゆえの若くて明るい未来が見える。一方で「1人家」になると終焉の気配が色濃くなってくる。これで犬でも飼ったらもう出会いの確率は相当下がるでしょうね。「どこかで見た風景」これも酷い。もはや空想の世界にまで行ってしまっている。
 しかし、すごいエッセイですね。この作者はそもそも金か男か、という2択のロジックの奴隷になっていて、そのことに気づいていない。自分で人生を切り開いていると思い込みながら、自分の人生に見えない鎖をいくつも張り巡らせている。その見えない鎖に足を取られてしまっているのに、その事自体がメランコリックなスパイスで変換されて、もはや作者が自分の人生に酔ってしまっているような雰囲気さえある。

 気がついてみれば、私には見えない鎖というものがない。鎖に繋がれない人生を選択していたのか、流されてしまったのかは定かではありませんが、その結果としていつまでもこんな生活を送っている。今ふと気付きました。私には意味が邪魔なのかもしれません。人生の意味。食事の意味。趣味を見つける意味。女性とお付き合いする意味。結婚。家庭。そういう意味に対してコンプレックスのようなものがある。そうですね。そうかもしれません。だから文章から意味を剥奪しているんですね。一度完成したプラモデルを、ニッパーやカッターを使いながら丁寧に少しづつ分解していってパーツにしていく。そのパーツを、別のプラモデルのパーツと同じ箱に入れてみる。でも作ることはしない。きっと、作り始めた途端にパーツは完成品のための一部としての意味を持ち、私の行動には物語りが生まれてしまうから。そういった流れに対して何かこう、、、説明のできない恐怖というか、完成の期待感よりも終焉の寂寥感が勝ってしまって、そのイメージが私から作るという行為を剥奪してしまったのかもしれません。とはいっても、破壊は好きではありません。だから丁寧に分解する。全体が意味を持たなくなるまで。

 さて、今日のファイリングが出来ました。今回この女性誌から切り取ったテキストは「1人部屋から1人家へ」「どこかで見た風景」「赤とオレンジ」少し迷ったテキストもあります。「開きっぱなしの本」おっと思って、思わずハサミを持つ手が動きました。でもやっぱりこれは違う。自分に酔っている。この女医のハイソサエティな自負みたいなのが垣間見える。よく熟れた桃が一晩ですっかり熟れすぎて、食べる段になって手に取った瞬間にグニャリと嫌な感覚を私の手に与えるような感じ。一言でいうと「未練」その未練が見えてしまう。がっかり。

 最後にゾンビの夢の話をしましょう。夢に意味を求めようと思ったらどうしてもこじ付けのようなストーリーになってしまいます。じゃあ逆に現実の出来事から意味を剥奪することはできないのかといったらそんな事もない。男女の出会いや別れに「運命の出会い」なんてよくあること。天から降ってきたような運命。意味なし。晴天の霹靂。そう考えるとね、私には意味を持たせることの方が不自然な気がしてしまうんですね。まあだから今日の私の趣味にも意味はなく、たとえ今夜もう一度ゾンビの夢を見たとしてもそれもなんの意味もないこと。

 今夜もゆっくり眠れそうです。
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